アシュレイ 
→キャロ 
 キャロは開発当初、アシュレイと共に魔都を探索するパートナー役とされていた。  
それがいつのまにかハーディンの看取り役となったのだが、恋愛要素は最初から無かったのだろう。 
アシュレイがキャロ(メルローズ)を助けようとするのは愛情でもなんでもなく、 
単純に彼なりの誠実さが表れているに過ぎない。 
結局キャロは何処までいっても、アシュレイにとって「エージェント・メルローズ」でしかなかった。 
それでも尚ED直前に彼を“魔”の入り口から呼び覚ましたのがキャロであったのは、 
自分の失態で妻子を失ったのだとするシドニーの言葉が、 
更に失うことをアシュレイに恐れさせたからだったのだろうか? 

キャロ 
→アシュレイ 
 キャロ=メルローズは賢く、アシュレイの心の中にある欺瞞に気付くほどだったはずだ。
もしアシュレイの導き役がキャロであったなら物語はどうであっただろうかと想像も膨らむのだが、 
それでも、製品版ラストのアシュレイほどには高みを極められなかったのだろうと私は思う。 
キャロは、見通す力も持っており、相手の欺瞞を正確に突く「格言」を叫ぶことも出来る。 
だが現に袋小路で迷っている者には、真理一つ突き付けられたところで心変わることなどあり得ない。 
じっくりと時間を過ごす猶予があっても、キャロはハーディンにそうしたように、 
想いを打ち明けようとする衝動に身を任せてしまい、結局は衝突を呼んだのではなかろうか。 
アシュレイの導き手がシドニーであったことと、ハーディンの導き手がキャロであったこと。 
この2つは彼らの心の解放を果たすための、劇中の世界における唯一の方法だった。 
迷いながらのシドニーが気まぐれでこの状況を作り出したのだから、凄い偶然である。 

ローゼンクランツ 
→アシュレイ 
 ローゼンクランツのアシュレイに対する心情は、『ゼノサーガ』において
アルベドが周囲の人間に抱く心情と似ている部分もあり、決定的に違う部分もある。 
劇中にカットされたイベントの中には、アシュレイとローゼンクランツのイベントが多かったと聞く。 
「俺がこうなっちまったのはアンタのせいなんだぜ!」とローゼンクランツは言っていたが、 
かつてのアシュレイ(ローゼンクランツの記憶にある、現実逃避へと堕ちた暗殺者アシュレイ)の醜態が 
ローゼンクランツにどんな絶望をもたらしたのだろうか。 
他のリスクブレイカーたちの堕落よりも大きな影響をもたらしたという風に、 
つまりアシュレイは他の暗殺者たちと違って、ローゼンクランツにとって特別な人間だったように 
私にはあのセリフが聞こえたのだが・・・これは私の思い違いだろうか? 
別に、アシュレイに対して望みをかけていたとか、信じていたとかいう事情ではないはずだ。 
その堕ちていく姿を見るうちに、ローゼンクランツの中に何があったのか。 
 私は、アシュレイを堕とした張本人=ローゼンクランツなのだと思っている。
ちょうど、アルベドがルベドを追い詰めるのと似たような方法でだと。 
だが、そのためには、その時点でローゼンクランツが既に劇中の彼へ変化している必要がある。 
アシュレイが堕落し、その苦しむ様を見るうちにローゼンクランツが自分のベクトルを決定。 
自分のために世界を生き抜くと決めた上で、アシュレイを突き落とし・・・今に至ったのだろう。

バルドルバ公爵 
→アシュレイ 
 おそらく公爵には、シドニーのような読心を発揮する余力は無かったのだろう。
事態を把握するためにもローゼンクランツその他大勢の私兵や権限を利用していた彼だが、 
当然の如くその情報収集手段がレアモンデでまで通用するはずが無い。 
ということは、彼はアシュレイという男について、本当に何も知らないということだ。 
彼にわかったのはおそらく、シドニーが死んだということと、その息子がアシュレイを肯定したということ。 
更にそんな男が自分の元へ息子を連れてきてくれた(これはアシュレイにとって毒であっても薬ではない)。 
この時、公爵は何も知らぬこの男と、それを選んだシドニーを信じようと心に決めたのだろう。 
ひどく曖昧な、ハーディンがシドニーを信じたのよりも遥かに曖昧な信念だが、 
公爵は息子の目と心だけでなく、確かにアシュレイを信じていた。だから「後はお前だけだな」と言えたのだ。 

シドニー 
→ローゼンクランツ 
 愚者を見る目でしか、シドニーはローゼンクランツを見ていなかった。
色々と理由はあるのだろうが、眼前の歌舞伎者がシドニーにとって、 
自分の思い描いた理想の“後継者”像の対極に位置していたからだろう。 
他者を攻撃することで生きがいを感じるような者には、あらゆる形で不可抗力となってしまうような 
強大な力を与えるわけにはいかないし、第1そんな男に魔都を受け継ぐ資格など無い、と。 
 またそれだけでもない。彼の感性が、息子を殺すことも親友を殺すこともできない彼にとって、
ローゼンクランツのような男がいかに醜く見えたことか。 
シドニーは、偽悪者。それも偽善者の仮面を被った偽悪者である。 
だからそんな彼の心の中には、刃剥き出しの男の人生が恥にしか見えなかったのだろう。 

シドニー 
→ジョシュア 
 公爵、すなわち父の愛情を。シドニーは表面上失い、ジョシュアがその分を独占した。
シドニーの人間性に関わらず、彼はこの実弟に嫉妬のようなものを抱いていたはずだ。 
そんな彼が生贄候補として弟を人質にとったこと。 
そうすることで弟を父親から遠ざけたこと。 
彼の無意識の嫉妬が、無数の選択肢からシドニーにそれを選ばせたような気もする。 
彼がハーディン・ジョシュア組と別行動を選んだのも、 
ひょっとすると彼がジョシュアとずっと行動を共にする可能性を苦痛に感じたからではないのか? 
彼はジョシュアへ優しく接することは・・・確かにできたのだろうが、 
兄として守る意志もあったのだろうが、それでも、彼はジョシュアに対しては、 
正面から優しさを示すことができなかったような気がする。 

シドニー 
 →ギルデンスターン 
 シドニーがギルデンスターンに対して発した言葉「哀しいな」「哀れ過ぎる」は本心だったか?
否。彼はギルデンスターンに対する憎悪や侮蔑に任せて、ただ罵っていたに過ぎない。 
あの瞬間においては、要は言い合いに勝てればそれで良かったのだ。 
シドニーが蔑視していた人間は、この物語に2人。 
1人はローゼンクランツであり、もう1人はこのギルデンスターンである。 
何があってもシドニーはこの2人にだけは絶対に同調せず、 
またどんなに劣位に立とうともこの2人にだけは唾を吐きつづけたに違い無い。 

ギルデンスターン 
→シドニー 
 シドニーのギルデンスターンに対する考え方とは裏腹に、
ギルデンスターンは、シドニーのことをそう悪く思っていなかったように、私には思える。 
彼がシドニーに対して奮った熱弁。彼は戦う剣を降ろしてまで、活き活きとそれを語った。 
あの時、彼はシドニーに対して、同志を募るような心境で接していたのではないだろうか。 
まあその後シドニーの頑なな態度に対して「遊びは終わりだ」と言っているが。 
あの時の彼の心境には「貴様ごときに私を愚弄する資格は無い」という侮蔑よりは、 
「私の思想に同調してくれなかったことは非常に残念だよ。命を無駄にしたな、シドニー」 
という言葉が込められていたような気がする。ローゼンクランツに対する彼の態度と、 
シドニーに対する彼の態度の温度差かわ、私にはどうもそう思えるのだ。 
果たして製作者はどういうつもりで彼という人間をえがいていたのだろうか? 

サマンサ 
→ギルデンスターン 
 サマンサにとってギルデンスターンは、最愛の人だった。
自分にとってギルデンスターンの傍らに寄り添うというのは至極当たり前のことだし、 
またギルデンスターンにとってもサマンサと共に在るのは当然のこと・・・そう思っていたはずだ。 
内向的な彼女はギルデンスターンにひどく依存し、癒着的で、 
まるで父親に同一化する娘のような接し方を続けていた。 
他の人間に対してギルデンスターンがどんな残虐なことをしても、 
その姿勢と、自分に対する彼の姿勢が生む大きなギャップを、 
彼女は「自分を彼が愛してくれている証拠」だと信じていた。 
 だが、現実において、
ギルデンスターンがサマンサを最優先に考えていないことを、彼女は知った。 
他の何かのために捨ててしまえる、その程度の存在。その程度の関係でしかなかった。 
ふと彼女は思う。これまで、彼が自分に注いでくれた愛情は一体なんだったのだろうかと。 
「愛しているよ、サマンサ。本当だ」 
そんな言葉、今更信じることなどできなかっただろう。彼女は絶望のうちに、死んでいった。 
※アルティマニア攻略本の付録小説では、サマンサが今際の際に 
 ギルデンスターンの魂の救済を切望していた、という記述がある。しかし、
 私はそうは思わない。内向的な女性にとって、裏切られたそんな彼女にとって、
 もうその胸中にあったのは欺かれていたという絶望と、深い憎悪だけがあったと確信している。

サマンサ 
→ニーチ 
 自分を嫌なジャンルの会話に引きずり込もうとする、嫌な女。
おそらくサマンサはできうる限り、ニーチを避けて日々を送っていただろう。 
彼女にとってニーチは、「嫌な時間」の象徴だった。 
自分のギルデンスターンに対する愛情を無価値と見るだけでなく、 
彼への自分の献身すら蔑視する。自分はこんなにも人を愛し尽くしているのに。 
常に伴侶として寄り添っているのに。 
彼女はギルデンスターンへ依存していたために、それが終わるという可能性を内心ひどく恐れていた。 
そしてその可能性をはっきり指摘してくる(具体的にではないが、サマンサにはそう聞こえる)ニーチを、 
サマンサは「不安な未来」と同じくらい嫌っていた。 

ニーチ 
→サマンサ 
 女々しい、という女性蔑視の形容詞を世にのさばらせる元凶。
自分1人では何も決められず、弱く、脆く、顔だけ綺麗で、その生き様は醜い。 
自立という言葉とは無縁の、男に頼りっぱなしの、弱々しい情けない女。 
そんな風に、彼女はサマンサを見ていたはずだ。 
彼女とディーガーの関係は謎だが、少なくとも相互依存的な恋愛関係ではない。 
信頼関係に基いた戦友関係・・・だろうか。あるいはそれが愛情に発展していただろうか? 
ニーチにとってはそういった人間関係こそが理想であり、 
それと対極に生きるサマンサを、親の仇のように憎んでいたに違い無い。 

ローゼンクランツ 
→サマンサ 
 この2人の間には、言葉は一切交されていない。
しかしローゼンクランツの洞察力は、僅かな時間の共有から 
いちはやくサマンサの弱さを理解したはずだ。 
(なんだかんだ言って他人の醜態を洞察する時には恐ろしく鼻の利く男である) 
「へっ、馬鹿な生き方してやがるな、この女は」 
そんな感想を抱き、彼はその嗜虐心の矛先を結局サマンサに向けはせずに終わった。 
他人を攻撃するのが大好きな彼が、何故サマンサを攻撃しなかったのか。 
ギルデンスターンが近くにいたから? 
それとも、最初から勝利がハッキリしてい過ぎたので、かえって嗜虐心が萎えた? 



「サマンサ。愛しているよ。本当だ」


 レアモンデ、大聖堂の屋根上。

生贄として選んだサマンサに短剣を深く刺し込んでから、ギルデンスターンは言った。


劇場ではほんの数十秒しかスポットライトの当たらないこのシーンについての考察を以って、

『ベイグラントストーリー・ファントムペイン』のプロファイルを完了しようと思う。

といっても、サマンサのギルデンスターンへの心情に関しては

既に上項で述べているので、論ずるまでもない。それに彼女の心情については

あのシーンを見れば誰にだってわかりそうなものだ。


問題は、ギルデンスターンの心情である。

ギルデンスターンは、サマンサをどう思っていたのだろうか。

それまで恋人として振る舞っていたようだが

(その様はアシュレイも目撃している)

あれは演技だったのろうか? あるいは彼女を弄んでいたのだろうか?

大抵の人は、このうちのいずれかだと思っているはずだ。


しかし、私はそうは思わない。

ギルデンスターンがサマンサに愛情を注いでいたとも思わないが、

彼にとって、やはりサマンサは特別な存在だったのだと確信している。

彼は、信念を持たず迷走する人々を蔑んでいた。

しかしそんな彼の視界の及ばない内側へ、

するりと入り込んでしまった女――それがサマンサだったのではないだろうか?

ギルデンスターンは、サマンサを蔑んでなどいなかった。

むしろ、その心は彼女にどうしようもなく惹かれていたのではないだろうか?

あたかも、ごくごく普通の男女が、異性に惹かれるように。

でなければ。

そうでなければ、サマンサが生贄として

レアモンデに認められたはずがないのだ。

「本当に結びついた魂でなければ意味が無いわ! あなたにはそんな人がいるの?」


だが、ならば何故、ギルデンスターンには

サマンサをああも躊躇い無く殺すことができたのだろうか?

理由は1つ。

ギルデンスターンにとって、愛着と愛情は全く別のものだったからだ。

というよりも、ギルデンスターンには他者との交流に存在意義を見出す発想が無かった。

彼には、愛情という発想が無かった。

誰かと共に在る時にも、それぞれには自分だけの拠って立つ場所がある。

貫いていく道がある。

ギルデンスターンには、隣り合う2つの道をそれぞれ歩きながら

結果的に肩を並べる「2人」は想定し得ても、

1つの道を共に歩くことはあり得ない。

共に隣り合った道を歩く、平行線が、他者に対する彼の限界だったのだと私は思う。

それは、完全に自立した人間たる証明でもあり、

同時に道を極めた者の汚点<恥>でもあった。

彼は、サマンサに確かに惹かれていたが、

別れを告げるときの彼の心情は、

共に歩めなくなることに対する「残念だ」という気持ちと、

自分の想いを理解してもらえなかったことに対する「残念だ」という気持ち。

脆い常人が恋人と別れる時の「悲しい」という感情は彼には無かった。

また恋人をその手にかけるという罪悪感も、後悔の念も、無かった。

きっと彼は、何処か切ない心のざわめきを感じつつも、

刃を刺し込むことに迷いは無かったし、

それ以外の道が自分に選び得ると想像もしなかっただろう。


男という生物は、思考を根に据えて生きている。

女性ならば「助けてあげたい」という意思から発する行動も、

男性ならば「助けるべきだ」という判断から発する。

そんな“男”から、しかし男であるが故に

どうしても抱いてしまう女々しさを完全に取り除いたのが、

ロメオ=ギルデンスターンだった。

彼も思考で生きる。

しかし他の男のように、思考を押し流す情は無い。

個として、意志体として、自立していた存在。

ある意味、フロイトが称えたであろう理想的存在の具象。

それが、私にとっての

ロメオ=ギルデンスターンである。

「愛しているよ、サマンサ。本当だ――」