学生会館


部隊実習
 防大の陸上要員の部隊実習は3年生から始まります。私の場合は夏期訓練が長野県松本市の第13普通科連隊でした。北アルプスの山岳機動訓練(槍ヶ岳登山)という楽しい思い出も作っていただいた部隊実習でしたが、大半は駐屯地内の小訓練場での戦闘訓練でした。真夏の暑い最中での来る日も来る日も同じ戦闘訓練を続けた思い出が残っております。実際はそう毎日続いたのではないのでしょうが思い出は極端なものしか残らないのです。
 部隊実習は隊員と起居を共にして、隊員の日常の勤務(警衛勤務、食堂勤務、野外作業等)やら、訓練を体験するのでして、受験勉強から防大生になった若者にとっては立場の違う若者と接する機会であり、結構刺激的なものでした。
 それから約10年後の富士学校での出来事です。私は1等陸尉となり特科部戦術教官として普通科部のIコース幹部初級課程(部内選抜幹部)学生に教育を担当しておりましたところ、ある幹部学生が休憩時間に私に話しかけてきたのです。私を存じているとのこと、人生に岐路で頑張ろうと勇気を与えていただいたとのことでした。
 それは松本での部隊実習中のことでした。彼は当時1等陸士で部隊実習の支援要員だったそうです。我々は身体中泥だらけ汗だらけの訓練でしたが、彼は来る日も来る日も防大生のための食事当番だったのでした。昼になると昼食を食缶で訓練場まで運び、飯ごうに食事を分配するだけの単純作業だったわけです。私は支援隊員と話した記憶があるのですが、彼によると自衛隊を辞めようかと悩んでいたとき、私から励まされたとのことだったのです。
 私は卒業して野戦特科職種となり、熊本での中隊長を終え、富士学校の教官となったその時、彼は1等陸士から3等陸曹に昇任し、4年後幹部候補生の選抜試験に合格し、3等陸尉に昇任し、富士学校に入校し、私と再会することとなったわけです。この偶然というか、必然というか、あのときの1等陸士が幹部として私の前にいるのです。私の教官冥利に尽きた瞬間でした。

マナー教育
 最近、超名門大学の京都大学が大学のカリキュラムにマナー教育を取り入れるということが、マスコミに取り上げられておりました。
 驚きと申しますか或いは予期の通りと申しますか、厳しい防大で育てられた私には、思い当たるフシが沢山あります。平成3年から2年間指導教官を務めましたので、学生の気質の変遷がよく解ります。
 当時も、多くの事件や事故やらが発生し、指導教官の私達は気の休まる暇もありませんでした。その内容はこの場で記することも出来ませんが、当時のN学校長は大きな事件の後、私に「君らが学生だった頃は公園で砂場遊びを経験した若者が入校したのだったから指導教官も楽だったと思う。今の指導教官は学生に砂場遊びの掟から教えなくてはならないのだから大変だね。」と申されました。砂場は狭いから年長者の順番、譲り合うこと、独占しないこと、いたわること、危険なことはしないことなどが身に付いているわけです。平成3年の頃はそれもないということでした。
 京都大学を初めとして今の大学で起こっていることは、殺人事件やら大麻事件であり、マナーというよりは社会の掟が解っていないということでありましょう。N校長はまた「世の中の大学で発生していることはこの防衛大学でも起こりうるということだ。」とも申されました。
 では私達が入校した昭和44年頃は出来上がった学生だったのかと申しますとそんなことはありませんでした。「箸の上げ下げまで教えられる」と申すとおり、毎日「お前らを育てた親の顔が見たい!」と叱られてばかりでした。上級生より先に箸を付けては叱られ、醤油を先に使っては叱られ、狭い入口で上級生より先に入っては叱られ、起居容儀、身辺整理から靴磨きまでそれこそ、叱られ続けの1年間でした。1年生から4年生までが起居を同じくして指導を受け、更には400名の学生に対して20名もの幹部自衛官が指導教官として訓育指導のみに当たっているわけで充分すぎる体制が維持されております。
 マナー教育から始まり、最終的にはその命まで賭して国を守る高邁な精神を育成するのです。「ノブレス オブリージェ」はそう簡単には育成されないのです。その原点はマナー教育にあったのかも知れません。
 今年の音楽祭りの防大儀仗隊はことのほか、見事でした。

幹部候補生学校への申し送り書類
 これは指導教官時代の思い出です。学生の卒業が近づくと指導教官達は陸、海、空の幹部候補生学校に送る各学生の人事書類を作成いたします。
 これは次に担当する教官達が学生の訓育指導が容易になるよう各学生の状況を伝えるためのものでした。
 担当する学生の中から将来必ず陸上、海上、航空幕僚長に栄進される者が出るわけですから、その書類はいかに記するべきか悩んだものです。
 当然参考になる先輩指導教官が記した書類が残っているわけですから、もっとも承知している私の学生時代の書類を見させていただいたのでした。
 とても豪快で愛国心に燃えていた私の指導教官、K先輩は私達小隊学生全員を褒めちぎって書いてありました。たとえば「実行力、協調性に優れている。更に企画力を進展させれば有用な幹部自衛官として活躍しうるものと思料する。・・・」、まあこんな具合に担当した学生全てを温かく見守っておられたのでした。当然のことながら部下の中隊指導教官、小隊指導教官を指導したのでした。
 その学生達が今、中堅幹部となり、防衛省内で活躍している姿を拝見するにつけ、日々喜びを感じているのです。

同期生の団結
 数日前に田母神前航空幕僚長のパーティーを担当させていただきました。パーティーの趣旨は会合名の通り、主催者である、田母神前航空幕僚長がお世話になられた方へのお礼の夕べでありました。
 参加された方々は全く「軸足」の変わらない方々ばかり、各界の著名人で約300名ほどの大パーティーでした。
 丁度1年を経ましたが、田母神先輩の行動には同窓生の間でも賛否両論がありまして、各立場でいろいろ意見が述べられておりました。
 しかし同窓会など皆が集まる場所ではそのことに触れないのが礼儀と申しますか、会の趣旨をわきまえて行動するのが会を混乱させないですむということなのです。(たまにわきまえない方もおられますが)
 今回集まられた方々はまさに田母神先輩が困窮をきわめられているとき、そっと側に寄り添い「タモちゃん、大丈夫かい!」と彼を支え続けられた方へのお礼の夕べでした。
 お許しをいただいておりませんので、顔が判らないくらいに縮小した写真ですが、この会を「作業員」として裏方で支えられた同期生の先輩達です。受付をする人、VIPのエスコートをする人、プレゼンテーションを作成した人、「俺が一番ハンサムだから」と申し出て田母神先輩の横に並んで迎賓に任ずる同期生、お見送り時、全員が並んで記念品を皆様に手渡しながらまるで我がことのようにお礼を申し上げ、同期生がお見送りしておりました。記念館の職員も側で見ていて、案内、誘導等全くスムースで、「すばらしい会でしたね」と申しておりました。元司令官や学校長等を歴任された元空将達が喜々として作業員を務めているお姿はあまりに美しい「同期生の団結」でした
 苦境の時こそ、離れずに側に寄り添うのが同期生なのです。

学生会館
 昭和47年頃にPX等を集合させた学生会館を建設するという計画があり、当時4年生であった私が学生代表(学生会館設立準備委員長?)としてその構想段階から学校側の会議に参加することとなりました。
 なぜ私が選ばれたのか今となっては記憶に残っておりませんが、少なくとも防衛大学校の予算(防衛費)の約6億もあるこの建物の構想に学生の意見を取り入れるという開かれた気風は今となってもすばらしいものと思い出されます。
 会議はいつも私の授業が考慮され、私の授業後に開催されておりました。会議のテーマが事前に示され、それに対する学生側からの意見を述べさせていただくというものでした。
 この中に収容すべき、売店、喫茶室、食堂、理髪店、クリーニング、文化部の部室、会議室、和室、各種会議室、大ホール等の配置を決めていったわけです。
 学生の意見を集約すると共に、それを内部設計という段階に反映して貰うわけです。基本的なコンセプトを確定し、それの基づいて配置意見を述べるのでした。私には予算の制限など関係なく、あるべき姿に基づいて、各部長、課長の前で堂々と述べていた記憶があります。今となって思えば防大の高位高官であったその方達が暖かく私の意見に耳を傾けていただいておりました。時には夕食にも間に合わなくなって、日夕点呼免除をいただき、そのまま、高官の方の黒塗りの車で横須賀市内で夕食をご馳走になり、学校まで送っていただいた経験もあり、随分と大それた学生だったことでした。
 会議の雰囲気はすべからく私達学生の意見をいかに取り入れるかが焦点であったと記憶しております。予算の制限もあったでしょうに、それほどまでに学生を大事にする大学でありました。卒業2年後に完成した訳ですが、もう35年も経過した古い建物となっており、いつかは改修することとなるのでしょう。しかし私にとりましては思い出の建物なのです。
青春の日々(防衛大学校)