青春の日々(防衛大学校)
学生隊(K君の記述その3)

真の偉大な人間とは、正直、親切、友情、そんな普通の道徳を堅固に守ることである。
学生舎での規則、慣習、慣行、少し多過ぎるようだったが、これことごとく我々の約束であった。
約束は往々にして破られる。
だが案ずるなかれ、堅固に守ろうとする努力に意義があるのだ。

上級生に怒鳴られたこともあった。
下級生のために胸を痛めたこともある。
喜びは分かち合い、苦しみは一人で噛み締めた。
ベッドで泣いたことも幾度かある。
だが苦しみの中で勝ち得た成長は大きい。
このほほえましさもその一つ。
朝から晩まで続けられるが・・・・・・。

学生長(長期勤務学生)の選考
 防大には学生長がおります。30名ほどのトップの小隊学生長、100名ほどのトップの中隊学生長、400名ほどのトップの大隊学生長、そして全学生のトップの学生隊学生長です。これが前期、中期、後期の3回選考されるわけです。1年、2年は小隊学生長付き(見習いみたいなもの)で、3学年からは小隊学生長付きから学生隊学生長付きまでを経験させます。
 これは防大生は卒業すれば、いずれ幹部として、リ−ダーとなるのですから当然のこととして、リ−ダーシップを学ばせているのです。
 私は2学年時、小隊学生長付きを経験した記憶があるのですが、3学年からは学生長という職務には縁がなくなりました。成績が下がったとか、組織に対して批判的態度を見せていたとか、校友会活動が不十分だったとか、きっと原因があるのでしょう。最後に322小隊の203号室部屋長をさせていただき、卒業いたしました。(しかしながら同室のY君は2浪のため、私より年齢が上ということで「会長」として君臨しておりました)
 卒業18年後に思いもよらず、3大隊首席指導教官を命ぜられ、平成3年8月、勇躍母校の土を踏むことができました。3大隊は私が3年間も所属した大隊であり、感慨深いものがありました。
 当時はバブル景気の最中で、任官拒否の嵐が吹きあふれる中での着任でした。任官指導が主要な仕事にもなりましたが(後日記述予定です)、学生長選考を少しふり返りたいと思います。
 秋頃だったと思いますが、大隊に所属する全指導教官が集まり、選考会議を開きました。古株の小隊指導教官が司会を務めて、学生隊学生長候補から順次小隊学生長に至るまで選考会議が開催されました。あまり述べられませんが人格、識見、成績、校友会活動等々が考慮されていたように思います。解ったことは決して私が学生長に選ばれることはなかったろうと理解できたことでした。
 ある時、4年生の学生から「大指は学生時代大隊学生長でしたか?」という質問を受けました。答えは「いや、部屋長しかできなかった」と答えたのでしたが、数日後の大隊指導官朝礼時、このことを全学生に紹介し、「しかしながら苦節18年、大隊学生長を指導する大隊首席指導教官として母校の土を踏んでいる。男子3日会わざれば刮目して見るべしとも言う。諸官達学生、夢と希望を持って進め!」と話しました。
 部屋長しかできなかったある学生が卒業時、「私も大指で帰ってきます!」と別れを告げて離校しましたが、私にとりまして、嬉しい一言でした。
基本教練(入校式)
 防衛大学校に入校すると、入校式までの5日間ほどが入校式典時の「起立!」「着席!」の動作、式典後のグランドでの上級生の行う観閲行進時の陪列時、「気をつけ!」「敬礼!」「休め!」の動作の訓練が徹底して行われます。 ご父兄はたった5日間で凛々しく動作に応ずる我が子を見て感激されるわけですが、当の本人達は「大学に入ったのにこの訓練は?」という疑問と戦いながらの5日間なのです。ただ、予想もしなかったであろう忙しさがその疑問すら忘れさせてくれるという一面もあります。
 そして入校式も終わると小銃の貸与式(理解はしていたものの本物の銃を受け取るのは驚きでもあるのです)があり、その後2週間ほど徹底した4学年教官による「基本教練」が続けられるのでした。 「気をつけ!」「敬礼!」「休め!」などの停止間の動作や、号令に応ずる徒歩行進、駆け足行進等でした。何も持たない訓練が主でしたが、これに小銃を持っての訓練が加わると更に複雑になるわけです。ただでさえ、極度の緊張から手足がバラバラになってしまう者が出てくる始末ですから、教える4学年も大変なわけです。一方4学年はこの1学年の教育が指導法の訓練となる訳なのでして、その全体を訓練担当しているのが指導教官なのでした。
 今から思うと本当に効率的な教育が為されていたのだと感心してしまいます。教えられる側の1学年も、教える側の4学年も、そして学生舎生活での意思疎通という観点から見ても、極めて効果的な訓練となっております。
 「気をつけ」時の60度という足の角度、一直線に引かれた白線、75センチの歩幅の位置、補助具やら石灰表示での訓練でした。1学年の緊張を取り除く方法、適度の休憩、着眼点の示し方、所謂「コツ」を体得させる術等々、長い自衛官生活の教育というのは全てこの入校時の「基本教練」からスタートしております。
 60才を迎えて民間人となった今でも、「姿勢が良いですね」と言われることがあり、若い頃の教育の重要性を感じます。また一方で、通勤途中での若い女性の姿勢が気になります。頭の位置、猫背、腕の振り、歩幅、足の外向き、内向きなど、訓練すれば美しい歩き方ができるのにと思ってしまうのです。ファッションモデルが歩く訓練を受けているのが理解できるわけです。
 防衛大学校の教育訓練は何一つ余分なものはないからこそ、57期生が入校した今でも当時のままの訓練が行われているのでしょう。伝統と言ってしまえば簡単ですが、荒削りの若者を高いレベルまで到達させる階段の第一段がこの訓練なのです。
入校時の身体検査
 自衛隊の採用試験には身体検査は付きものでして、防大も同じように身体検査が行われます。採用時の身体検査がと共にこうして4月1日に着校するとすぐに貸与物品の受領と共に、着校時の身体検査が行われます。
 2回も行われるのは理由があるからです。採用時の身体検査で合格していても、入校時の身体検査で不合格となることがあるからです。受験してから4,5ヶ月経っているのですからその間に病気になっている場合とか、女性の場合、妊娠している場合があるからです。
 計測されているわけではありませんが入校したばかりの1年生の体脂肪率は2年生以上のそれと比較してかなりの高率になっていると想像されます。高校時代受験勉強でスポーツからしばらく遠ざかっていた学生が入校するわけですので、高い体脂肪率なのです。8月休暇までの4ヶ月間は毎日、分刻みの生活、移動は駆け足、校友会活動、そして休暇前の8キロ遠泳で完全に身体は絞り込まれてたぶん全員が体脂肪率10パーセント前後になっているわけです。
 分刻みの生活が大変きつく感じられた1年生も、「慣れ」やら、「要領」を得ることにより、更にはこの身体の絞り込みによって、学生生活も苦痛ではなくなるわけです。
 私が指導官勤務の頃の話です。着校日、中隊指導官から医官からの話があるとの連絡を受け、医務室に伺ったところ、身長に応ずる体重基準からはずれる(オーバーしていると思われる)着校者でした。聞けばその着校者は某国立大学を中退して防大に来たようで、ここで不合格にすると、行くところが無くなるわけです。身長もあったのですが体重は90キロは優に超えているようでした。相当の肥満体になっているようでしたが本人の入校意思を確認し、医官に合格させるよう依頼したわけです。
 入校後上級生にその学生の一日を観察させたところ、自販機の清涼飲料(コーラ等)を1日10本以上飲んでいる旨の報告がありました。所謂ペットボトル症候群だったわけです。指導教官は1日1本のドリンクに限定させ、後は水筒を2本持たせて授業やら訓練に参加させました。
 7月末、4学年陸上要員の定期訓練担当だった私も4学年の訓練終了に伴い、富士演習場から防大に帰校させ、1学年の夏休み前の8キロ遠泳を視察することができました。8キロを完泳した中にその学生を見つけその見事な身体を見てたった4ヶ月ですがその学生の並々ならぬ苦労を察したわけです。聞けば体重は少し痩せたくらいでほとんど変わってないとのことでしたが、きっとその体脂肪率は激減したものと思われました。一度体重は落ちたものの、今度は筋肉がついたのです。校友会活動(アメフット)と8キロ遠泳までの各種訓練の賜物のお陰だったのでしょう。完泳したその学生の晴れ晴れとした笑顔が今も忘れられません。
学生隊(K君の記述から その4)
学舎が飽くなき青春の讃歌なら、横須賀の灯は歓喜の母体であろう。
それは憩いであった。
薄暗いライトの下、恋を語り、感傷に耽り、暫時の快楽に時間を忘れる。
今宵限りの付き合いと気さくなことを云った彼女。
琥珀色の液体がとめどもなく流れ込んだ。
ああ亦同じことをしてしまった。明日も頭が割れそうだろう。
俺は余程、不幸な星の下に生まれたんだな。何も言うまい。
俺は精一杯やったんだ。。逞しく、健やかに育ったんだ。
ダンスに明け、ダンスに暮れた、そんな奴もいた。
頑張れ、おまえも男だ。奴が出来るならお前も出来る。
少しレベルを落とし、、そおー そのくらい。もう少しだ。お前はいま持てない全女性を救いつつあるのだ。
良い奴と悪い奴
 防大の仲間は、まさに起居容儀を4年間共にした仲間であります。良いこともあり、悪いこともありました。苦しいときこそ側にいてくれる仲間は一生の友達であるとも云われますが、本当の苦しい経験を出来るのが防大の学生舎生活であると思います。
 普通の大学ではこの様な苦しい体験はできなかっただろうと思います。本当の苦しい経験はその時、人間の本性を見せてくれるのです。入校直後の大変な時期、カッター訓練の時、断効競技の時、ベッドも取れないくらい忙しい時、同じように忙しく、苦しいはずなのに黙って手を差しのべてくれた同期生や先輩はいつまでたっても良い奴(先輩)なのです。
 同期生のK君の話です。彼は真っ黒く汚れるアメフット部でしたから夕方はいつも時間がなく大変だったそうです。そんなとき、部屋長の4年生であるKMさんが1年のK君のベッドを取ってくれたことがあり、今でも陸自のKMさんを尊敬しているとのことでした。KMさんは良く存じ上げており、そのような一面を知ることとなってからKMさんを見る目が変わったことに気づかされました。まさか海自のK君から聞くとは思いませんでした。
 人間を「良い奴」と「普通の奴」と「悪い奴」に区分するとほとんどが「普通の奴」に区分されて「良い奴」などそれこそ聖人君主の類で一人もいなくなりますが、あえて「良い奴」と「悪い奴」の2区分にすると、結構「良い奴」ばかりになるのです。
 それは40年経った今も変わらないことに驚かされます。タバコをくれた奴、ベッドを取ってくれた奴、断効の時、背嚢を持ってくれた奴、文句も言わず正座や腕立てに付き合った奴、今もみんな良い奴ばかりです。
 だから私は今でも人を良い人と悪い人に区分するようにつとめております。そうすれば結構人の良いところが見えてくるようになり、そこを重視して接するようにすると、良い人付き合いが出来るようになり、良い人生が送れるような気がするのです。
陸海空要員希望
 10月の定期試験、11月の開校祭が終われば1学年にとっては最も重要な陸海空の要員希望が始まります。夏期の定期訓練期間中、1学年は陸海空の部隊を見学し、富士演習場で行われる総合火力演習を研修して、おぼろげながら陸海空の希望順番を決めなくてはなりません。
 私は単なる格好の良さから空を1番として、陸、海の順番にした記憶があります。海が最後になったのは海のない土地で育ったからで、また陸になればもしかしたら岡山の日本原駐屯地に勤務できるかも知れないと思ったからでした。結果的に陸となり、幹部候補生学校では職種は野戦特科に指定されたにもかかわらず、日本原はおろか、中部方面隊だけが勤務歴のない自衛隊生活となりました。(郷里に勤務する可能性があった私の帰りを待ち続けている両親はまだ健在で、きっとまだ帰りを待っているのでしょう)
 希望通りにならなかったからといって、希望は第2希望であったわけですから特段落ち込むこともなく2学年陸上要員に進級しました。思い出せば久留米の幹部候補生学校でも勤務地や職種は第5希望まで書かされたものでした。陸自は5個方面隊があり、卒業時、学校長は「全員、任地も職種も諸官達の希望通りで良かった」と訓示されたのでした。私達は何か狐につままれたような気持ちでした。
 指導教官時代、小隊指導官で着任したK君は防大入校したものの希望が叶わず、防大を辞めて九州のK大学(国立大学)に進学して再度自衛隊に入隊し、希望の要員となったのです。、防大勤務となったK君は結局、陸海空要員は違っても、陸海空共通職域の防大の教官で勤務したり、地方協力本部で勤務したり、防衛省で勤務したりで、たいした差はなかったわけです。また両親に無駄なお金を使わせてしまったと述懐しておりました。
 結構どの要員になっても気持ちの持ちようで楽しく勤務できるものです。
断効競技会
 防大生は年がら年中運動ばかりしております。運動の合間に勉強をすると申しても過言ではありません。私達の頃はこの断効競技会も1学年から4学年まで全員が参加で開校祭が終わるとすぐに断効競技の訓練が始まりました。カッター競技会、開校祭時の棒倒し競技会と、この断効競技会が当時の3大競技会でした。断効走は10人のグループ走で最後の学生のゴールが獲得タイムとなり、一人早く走っても意味がないのです。中隊約100人でレベル毎に8〜9個チームを作って合計タイムで優劣を競うわけです。
 開校祭が終わるとすぐに個人毎のタイムレースが行われて、そのタイムを参考に1分隊(早いチーム)から9分隊までに区分されます。私は毎年7分隊から5分隊のレベルでそう早いチームには入れませんでしたが、レベルが同じグループで練習ですので結構楽しめた競技会でした。特にグループ走ですので一番遅いものが基準となります。すなわち誰がバテるかが関心事です。自分でなければ心にも余裕が持て、更に余裕があれば仲間の背嚢(自衛隊リュックサック)持って走るのも優越感でした。更には日頃厳しい上級生も同じ分隊で走ることとなり、1年生がバテてしまったその厳しい指導をする4年生を応援するすることもあったりして、ちょっと違う一面を見ることが出来たのです。
小隊学生長で空手部キャップテンで同期の4学年に対しても厳しいO先輩は走ることは苦手だったらしく同じ分隊で練習しておりました。練習中も本番もさぼることなく練習に参加されていたO先輩に「Oさん!ファイト!」とかけ声をかけるのが嬉しくもありました。遅くても真摯に努力される姿は今でも忘れられないものなのです。
 10数年後私はCGS(陸自幹部学校指揮幕僚課程)学生で入校しました。同時にO先輩も入校され、更にO先輩が学生長として2年間一緒に学生生活を過ごし、更に学生としては同期生ですが学生長ですので10数年ぶりのO先輩の再度の指導を受けることとなりました。縁の深さを感じたわけです。
多彩な講義
 私が防大に入った時期は人社系はなく、全員理系でした。1年、2年は教養課程で3年から専攻が決定されて専門課程の履修が始まるのでした。当然1年の頃は高校時代の授業と違う大学らしさにとまどったり、驚いたりしたわけです。
 その中での記憶に残る思い出をご紹介いたします。
 入校してすぐの数学T(数学Tから数学Xまでありました)のM先生のことです。当時は1学年は昼の食事当番があり、当番になった学生は午前の授業終了後駆け足で食堂に行き、中隊100名分の食事を配食する作業があったのです。
 M先生は教育熱心で試験も厳しく、真剣に授業を聞くのでしたが当番の日は授業が延びたりすると当番になった学生は気が気ではありませんでした。先生が黒板に向かっている時を見計らって後方の席に陣取った数名の当番が教室から抜け出そうとしたとき、運悪くM先生に見つかってしまったのです。その時の先生の怒りは激しく、目には涙まで光っていたのを記憶しております。
 1年生はただ、配食が遅れて上級生の指導が怖いからのやむおえない行動だったのですが、先生の涙目は今も強烈に印象に残っております。
 次は西洋哲学のO先生の思い出です。O先生はその奇行が有名で、また沢山の参考書を学生に購入させることでも有名でした。学生は先輩から参考書を譲り受けたり、他大隊の学生から借りたりして先生の点検を免れようとしたのでした。私は運悪く他学生から借りているのがO先生にばれてしまい、おまけにその7,8冊の本が全て北寄りの作家として有名なB氏の本であったりしたことからそのことで反論したものですから、「本も読まないで非難するのか!」と先生の逆鱗に触れてしまったのです。当然成績は不可となり、単位は取れませんでした。ですから留年の条件(当時同系2科目或いは6単位)から、文系の授業は他の科目で不可を貰うわけにはゆきませんでした。
 奇行は牛乳を半分購入しようとしたとか、子供を電車の網棚に忘れたとか、直角の道路を斜めに渡ったとか(ピタゴラスの定理:合理的)、2回目以降の授業はエネルギー節約からテープレコーダーだったとか、一度も見たわけではありませんのでうわさ話で楽しんだものです。
水泳大会
 毎年夏休みが終わり、帰校直後に行われるのが水泳大会です。夏休み前には各大隊の水泳責任者からそれぞれの競技種目に応じ、出場選手が決められて訓練の合間や、授業後、少しの練習(効率的?)を行ってこの競技会に臨みます。
 私は水泳はあまり得意ではありませんでしたが1年生の時、選手がいないということで、私には不可能な200m自由形に出場するように命ぜられ、大変な思いを致しました。クロールで200mも泳げない私に責任者の4年生から申し渡されたのは「完泳しろ。最初から平泳ぎでよいので泳法を変えるな。失格になる。」とのことでした。とりあえず予選だけでも完泳すれば1点獲得できるとのことでした。
 スタートから平泳ぎでは当然ビリですが完泳して1点取ることに目的を絞り、恥ずかしくもありましたがゆったりと平泳ぎを続けました。途中で何人かがギブアップしているのが解りましたがひたすらゴールを目指したわけです。当然ゴールした者の中でビリだったはずですが1点を取るという目的は達せられたわけで責任者から「良し。良し。」言っていただき、安心したのもつかの間、私が決勝レースの選手名簿8人に入っているので大騒ぎでした。
 もう一度泳げと言われ、、驚いたわけです。聞けばギブアップしたり、途中で泳法が変わったりで最初から平泳ぎで泳ぎ続けた私が決勝の8人の中に残ったのでした。泳ぎ切れば後1点取れるので「完泳せよ!」と命ぜられた私は、更に恥ずかしいのですが、最初から平泳ぎで決勝を泳ぎ切りました。当然決勝は私以外全員がクロールでそれこそ50m以上離されてのゴールでした。
 50mや、100mの選手は結構いるのですが200mとなると出場する選手はいないわけで発言力のない1年生時のほろ苦い思いでです。
 水泳大会はビート板を足にはさみ手のみで泳いだり、ビート板を手に持ちバタ足だけの防大リレーや、ライフジャケットを着けたまま泳ぐ着泳リレー、水球、飛び込み、応援合戦があり、必ずいずれかに出番があります。
 この写真は3大隊首席指導教官時水泳大会で大隊優勝をした時、学生が胴上げしてこのままプールに「ドボン」と放り込まれたときのものです。優勝が見えてきたとき、先任海曹のK曹長が私の腕時計やポケットの財布、身分証明書などを預かりに来ました。すぐに胴上げの後はプールの中に放り込まれると気づきました。気持ちの良いものでした。
 「万歳!3大隊 ぼくらの大指!」と記してあり、私にとりまして、学生と一体化した記念の写真でもあります。
登山体験
 私の登山初体験はこの防大2学年時、陸上要員訓練の一環としての富士登山が初体験でした。前日の夜富士吉田登山口(5合目)から登山を開始し、早朝頂上に登頂して、御殿場登山口(砂走り)に下山しました。この写真は記憶にはないのですが、肩を組んで歌っているようでもあり、きっと校歌か逍遙歌を歌ったのでしょう。
 その後3学年の部隊訓練では第13普通科連隊の松本部隊(長野県)にお世話になり、学生2個班60名の大人数でしたが、ここでも山岳機動訓練ということで2泊3日の行程で上高地にキャンプして蝶ヶ岳(2677m)、槍ヶ岳(3180m)と強行軍で登山体験したのでした。
 部隊勤務となって組織として登山訓練を計画、実施する立場となり、安全管理やら大人数のロジスティックの大変さを知り、当時の計画された先輩諸兄のご苦労や支援をいただいた部隊隊員達のご苦労を知ることとなり、文句を言いながら気軽に参加していた学生気分を大いに反省させられたものです。
 卒業後、九州では韓国岳(1700m)やら高千穂山(1574m)を始めとして、転勤するたびにその地の名山を登頂して参りました。地元で近くの山に登る利点は当日の天候の良い日を選んで登山出来るということでした。突き抜けるような秋晴れの朝、「安達太良の空が本当の空」と言った高村智恵子に習って安達太良山に登山するのも良いものでした。
 新潟では火打山(2462m)に登り、山頂近くの知り合いの山小屋でお世話になりながら翌日は妙高山(2454m)に登頂するという計画でした。朝になると強烈な風雨に見舞われまして、地元の気軽さから「また来られるから」ということで妙高山登山を中止して下山しました。同宿の山岳ガイドを伴ったグループは、きっと百名山登山のツアーだったのでしょうが中止することなく登山を開始しました。
 先のトムラウシ山の遭難事故もツアーであり、計画したツアー会社は旅館の手配やら飛行機の予約やらで簡単に中止するのは困難であったのでしょう。
 私が防大指導教官時、2学年の夏の定期訓練を初めて北海道演習場を利用して定期訓練を行いました。学生の陸上要員希望が落ち込む中、何とか魅力ある定期訓練を実施したいということで始まったわけです。この中にも25キロ行軍の一環として、樽前山縦走を計画いたしました。初めての地域で200名余りの学生を、救急車の来られない山岳を縦走させるということで、かなりの綿密な計画を立てさせ、更には参加する教官、助教等全員が事前に縦走体験し、訓練予行を実施いたしました。準備を万全にしていたにもかかわらず、本番当日は8合目から上は、砂もとんでくる風雨に見舞われまして、ガスの発生により、2,3m先も見えない状況から、30名ほどの1個班が行方不明になりました。幸いに無線機は通じており、最悪の場合(中止、7師団への救出依頼)を想定しながらの1時間ほどでしたが、無事に主力に合流できた経験があります。
 防大から始まる各種の訓練体験は無駄なものは一つもありません。全てが意義があり、価値があるものなのです。
 また、登山は楽しいものなのですが、山は怖いものなのです。
清掃責任者
 学生舎の清掃は当然のことながら、居住している学生自ら担当します。自室は協力しながら(とは申しましても殆ど1年生の仕事)その部屋の学生が行い、公共場所(洗面所、廊下、便所、集会室、乾燥室等々)は当番が交代で命ぜられて行います。特に土曜日は厳重な掃除が行われており、不備を指摘されると再度清掃して、再点検を受けなくてはなりませんでした。
 1,2年生が清掃員で3年生が清掃責任者、そして週番の4年生が点検者です。点検者の中には礼装用白手袋を装着して、少しの汚れも見逃さない様な厳しい4年生もおられたのです。白手袋で窓ガラスの桟など擦られるたびにドキドキしたものです。
 私が便所清掃を担当していた時の思い出です。2年生と協力しながら清掃を終え、点検を受けることになりました。清掃時一度も顔を出さなかった3年生が責任者として立会して、点検が開始されました。ある和式の大便器を見て「清掃不備!やり直し!」と命ぜられた途端、責任者の3年生は「週番!綺麗です!」と言い、ノズルを押して水を便器に流し、その水を両手ですくい、ごくんと飲み干したのです。責任者は更に「美味しいです!」と週番に向かい、姿勢を正しました。「良し!合格!」の声に責任者の3年生は週番がその場から立ち去った後、「ご苦労!解散!」と一声かけてその場を立ち去ったのです。
 部下への絶大なる信頼と、結果に対して責任を取るという姿勢は私にとりまして入校直後の爽やかな良い思い出となっております。
親友
学生隊(K君の記述 その5)
真理を求める姿は美しい。
一心に机に向かい、瞳は微動だにしない。
内容は兎も角、その姿は美しかった。
先生の心、生徒知らず。
健やかに育つ秘訣はここにあるのだろう。
結局、真理は彼方に去ってしまったが、
それを求めつつ成長した4年間。
悔いのない4年間であった。

親友
 アルバムの中に、卒業間際になって「同期の桜」というテーマの写真の構想を練っておりましたが、どうしても沢山の同期生が参加してくれないと出来上がらないものとなったのです。皆、卒業研究の準備等で忙しくしており、集まってくれるかどうかが心配でしたがアルバム委員会のスタッフの呼びかけに応じてくれて、構想通りの姿(とにかく自由な服装)で集まってくれたわけです。中には防大ではあり得ないパジャマを着て参加してくれたいたずら好きな同期生もおりました。
 本館の屋上から数枚の写真を撮り、解散したのですが、これだけの目的のために時間を割いて集まってくれた同期生に今でも感謝しているのです。
 親友とは心から信頼できる友人のことであります。また、何もなくても、友の苦しさを察知して、そっと支えてくれるのが親友でもあります。逆境の時こそ、側に居てくれる者が、親友だと思うのです。
 そういう意味で苦しい体験をした小原台の青春時代に、共に汗を流した仲間の中に親友が生まれるのだと思っております。
開校祭
 今年も11月7日8日と開校祭が実施されます。私が学生の頃と少しも変わってないものは、観閲式、棒倒し、文化部展示、学生舎前で行われる模擬店等です。
 特に棒倒しは昔のままですが、私が指導教官の頃見聞きしたそれは随分と進化している棒倒しでした。棒持ち、サークル、遊撃、遊撃キラー、スクラム、特攻、上乗りなどは変わっていなかったものの、「棒倒し総長」が年度当初から選ばれ、それぞれのパート責任者とミーティングを重ねて、定期試験が終わればそれぞれパート毎の訓練が始まり、総合訓練を重ねて本番の必勝を目指すという、綿密なものでした。本番では表に現れませんが「偵察」というパートもあり、訓練を重ねる対戦相手の情報収集を担任する任務です。本番近くになると日が暮れるのも早く、安全管理の観点から事務室の助教に協力して貰い、トラックのライトで照明の援助も致しました。彼らは勝つために真剣に頼んでくるのです。たった2分間ほどの時間ですが、練りに練った戦術があるのでして、決してその仕組みが明かされることはありません。
 毎晩、深夜まで行われているミーティングを見ていると、いつ勉強するんだと疑いたくなるくらいでしたが、これが青春なのです。
 優勝すれば棒倒し総長を先頭に各大隊学生舎前を気勢を上げながら練り歩く(走る)のです。残念にも負けた大隊はそれを妨害することなく、むしろ敬意を表するくらいの礼儀を持って迎えます。
 私には私が棒倒しに出た記憶が一度もないのです。きっと1年生の頃はひ弱な学生でしたので選ばれず、2年からはクラブ(写真部で、報道の腕章)の関係から出ることはなかったのでしょう。
 愚息は1年の時、一度だけ出場しておりました。2年からはクラブ(アメフト部)の関係からか、出場しておりません。本番では責任者から檄を入れられ、それに答える我が子を見て、更に1回戦で敗退して学生舎の前で皆と共に涙しながら来年の勝利を誓い合う姿を見て、大いなる青春を感じることが出来ました。
 私の自宅近くにも東京理科大キャンパスがあり、毎年学園祭が行われておりますが、防大ほど父兄の方は見かけません。昔から防大には父兄が多くご来校されておりましたが、それは防大が異文化の世界だからでしょう。今の世の中にないか、失い欠けている何かが残っているようにも思えるのです。父兄の方々も我が青春を楽しまれているのかも知れませんね。
TSO@防大開校祭
 最近、防大生の父兄のブログを読ませていただいていると、開校祭でのTSOのステージが話題になっており、丁度私が首席指導教官の頃始まったものですからその始まりについてご紹介してみます。
 TSOは平成3年の夏休み前の3大隊の納涼演芸大会が初披露でした。  最初のメンバーは38期生I君、A君,S君の3名でスタートでした。(現在は2佐クラスとなり、防衛省本省でご活躍中です)
 TSOはT(チーム)、S(サンバ)、O(お嫁)の略で由来はインスピレーションだそうです。
 私の年代ですと郷ひろみの「お嫁サンバ」が浮かびます。きっと関係があるかも知れません。
 当時は開校祭は当然として、新入生歓迎会、カーター競技会壮行会、水泳大会、年末のクリスマス会等々、あらゆる行事でパフォーマンスを披露してくれました。
 私が初めて見たのは平成3年の開校祭で何とエッチでくだけたパフォーマンスだと感心したものでした。このとき、「防大生としてふさわしくない!」と解散を命じていたならば、きっと今はないものと想像いたします。当時の3大隊は「爆闘隊」というメンバーもあり、結構明るくて団結力もあり、各種競技会にも優勝していたことから、止めさせるという判断はありませんでした。 その後、彼らの下対番(39期生)S君とK君が加入し、(或いは対番であるが故に無理矢理か)活動を広げました。ところがK君が留年となり、4大隊に行き、普及したわけです。ですからK君の留年後の努力が今の「4大隊TSO」存続の原点でもあります。ちなみにK君のその後は防大研究科(大学院修士課程)を終了し、更には東京理科大の研修も終えられた優秀な自衛隊幹部となられております。ご縁は続くもので私が新潟地連部長(地方本部長)の時、K君の結婚式にも夫婦で参列させていただきました。 
 首席指導教官の時の開校祭で、当時小学6年生であった次男がこのTSOのステージを見て防大に進みたいと申したのも良い思い出です。私は「楽しい開校祭はこの日だけで後の364日は大変な日が続く」と愚息を指導したのですが、結局進学し、また途中でギブアップすることなく、今も航空自衛官として頑張ってくれております。
 当時の写真があればよいのですがあいにく写真が見つかりません。当時のメンバーとも交流がありますので、入手したいと思います。写真は大事に沢山写しておくものですね。またこの内容は正確を期すために市ヶ谷勤務中のKI君を通じて、リーダーだったI君から確認したので、間違いなく内容は事実です。
 あのときのふざけたメンバーが陸海空の主要幹部となり、活躍している姿を見れば、指導教官冥利に尽きるというものです。
 写真は当時のTSOと現代(2009年)のTSOメンバーです。当時の写真は初代メンバーK君からいただきました。