エキュメニカル集会案内


H.リリンク『J.S.バッハ 生涯と作品

H.リリンク  『復活の音楽 J.S.バッハ 生涯と教会音楽作品』
        「復活の音楽」
               
                   ヘルムート・リリンク著
                       松山與志雄訳





何代にもわたって音楽家をこの世に送り出した家系のひとりとして、ヨーハン・セバスティァン・バッハは、一六八五年三月二十一日、アイゼナッハに生まれた。彼は初等教育.及び音楽の教育を、身近な地方小都市、町村から受けた。大学にはゆかず、彼はあらゆる知識を、聞いたことを書き取り、学ぶべき作品を書き写して、独学で習得したのであった。

「ヨーハン・セバスティアン・バッハの修学旅行」
短い期間ではあったが、バッハは、ハンブルクヘの修学旅行をこころみている。そこで彼は高齢のオルガニスト、ヤン・アーダムス・ラインケン(一六二三―一七二二)を知り、またリューベックでは、ディートリヒ・ブクステフーデ(一六三七頃―一七〇七)の多彩な活動を見聞したのである。
バッハの音楽家としての活動はチューリンゲンとザクセン地方である。すなわち、アルンシュタット(一七〇三-一七〇七)、ミュールハウゼン(一七〇七ー一七〇八)、ヴァイマル(一七〇八-一七一七)、ケーテン(一七一七-一七二三)とライプツィヒ(一七二三―一七五〇)である。
バッハは、宮廷音楽家をしていたケーテン時代をのぞいては、ほとんどいつも、教会音楽家としての職務についていた。
かの修学旅行の目的は、職務にかかわる決定を、バッハ自身でくだすところにあった、とみることができる。若い音楽家バッハは、北ドイツ地方の、高齢で偉大な教会音楽家たちから多くをまなんだ。ラインケンとブクステフーデの二人のオルガニストがその人たちである。
プクステフーデは、教会音楽家であると同時に、リューベックのマリア教会で定期的にひらかれた有名な「夕べの音楽」の主催者でもあった。この夕べの音楽で、ブクステフーデは自分の作品を演奏したのである。
この夕べの音楽から、バッハの、ミュールハウゼンでの辞職願のなかにある、彼のライフワークの綱領ともみられる言葉への、直接のつながりをみいだすことができるのではなかろうか。彼は

「秩序づけられた教会音楽」の必要性について述べているのである。
アルンシュタットから.ミュールハウゼンヘの転居、また、なによりもミュールハウゼシからヴァイマルヘの転居は、バッハの新しく作曲される作品に、演奏の機会とまたかずかずの刺激とを与えた。

「ヴァイマル時代」
ヴァイマルでは、バッハは最初、一七〇八年から一七一三年まで、宮廷オルガニストであった。すでにオルガン作品や、また、なかでも一七一四年以来開始された、定期的創作によるカンタータ作品には、イタリアの作曲家たちの影響がみられる。とくに、バッハが、それをオルガンのために編曲し、またその構造は、力ンタータの多くの楽章に影響をあたえたアントニオ・ヴィヴアルディーの協秦曲、さらに当時最高潮のイタリア歌劇と、歌詞と緊密にむすびついたアフェクト 語法は、バッハをとらえてはなさなかったのである。
イタリア音楽に対する、このような深い関心にも拘わらず、バッハがイタリアヘの修学旅行を企てず、また、彼のヴァィマル時代に、コンチェルト・グロッソのイタリアの音楽や歌劇にも手をそめなかったところに、人はバッハの一層の教会音楽への職業的決断の証しをみるにちがいない。すべてのイタリア音楽の影響は、オルガンとカンタータ作品のなかにみいだされる。

「ケーテン時代」
六年間のケーテン時代のバッハは、教会音楽については、なんらの責任を負ってはいなかった。世俗カンタータをほかにすると、創作の重点は、もっぱら器楽曲におかれていた。各々の楽器のための作品から、室内楽曲、さらには管弦楽曲まで、バッハの作曲領域は広く、かつ多彩をきわめた。イタリア音楽にたいするバッハの関心は、数多くの管弦楽作品、なかんずく「ブランデンブルク協奏曲」において結実した。当時の、フランス舞踊音楽の影響は、「管弦楽組曲」の作品にとくに顕著である。
秩序づけられた教会音楽第三番目の注目すべき職業上の決断は、一七二三年になされる。ケーテンの宮廷音楽監督として、音楽界の位としては最高位にあったバッハが、ライプツィヒの、教会音楽監督の職務を引き受けたということ、しかもその職務は、テーレマンとグラウプナーの辞退のあとでバッハに提示されたものであるということは、教会音楽にたいするバッハの信念の発露とみなすことができる。



「ライプツッヒ時代」
ライプツィヒにおいてはじめて、一七〇八年に述べられた「秩序づけられた教会音楽」という綱領が、ンの完全な実現をみることとなったのである。かくてバッハ自身の音楽として、すっかり消化されたあらゆる音楽様式をたくみに使いこなすことによって、カンタータとオラトリオが成立することになる。ヴァイマル時代「オルガン小曲集」の主題とびらのところに書かれた、「いと高き神にのみ栄光を帰し、それによって隣人を訓戒する」という、二重の箇条は、日曜日ごとの実際上の課題であった.
ヨーハン・ゼバスティアン・バッハの価値と特にその意義についての問いは、この生誕三〇〇年の記念すべき年に、当然のことながら何度も何度もとりあげられている。'意義の問いにたいする一般的な答えとして、いかなる前提なしに、誰でもが直接経験できるバッハの音楽のなかにある「秩序性」.をあげたい。

「バッハ音楽の持つ秩序性」
バッハの音楽を聞く人は誰でも、その音楽の構造全体に内在する思考の明晰さに魅惑される。しかしこの秩序性という特質は、決して音楽創造に必要な想像力を圧迫するものではなく、寧ろその創造的想像力のなくてならぬ部分なのである。

「同時代音楽の集大成」
バッハの意義についての第二番目の答えは、バッハがほかの人々とは違って、バッハ以前の音楽様式の諸傾向を過ぎ去ったものとし、また、彼と同時代の音楽を、バッハの音楽作品のなかで集大成している点である。

「バッハ後の音楽への甚大な影響」
第三番日の答えは、バッハは、その作品を通じて、バッハのあとに成立し、また創造された音楽にたいして、根本的な影響を与えていることである。音楽の歴史において今日まで、バッハを無視できる作曲家、あるいは演奏家は未だ存在しない。
 

「生涯のテーマであった礼拝」
バッハの意義についての特別な答えは、バッハのライフ・ワークの主題のなかにあると私は考えている。今日、多くの人々にとって、教会とその礼拝とは、昔の世代が示したような、中心的た関心事とはなっていない。しかしながらこのことは、信仰、希望、そして愛についての、キリスト教の使信にたいして、人々が根本的に輿味を喪失していることを意味していると私は思わない。冷静に観察すれば、多分、バッハの音楽は、このキリスト教の使信を正面きって問題にする場を与えてくれているのである。その際、その場の無拘束性という特徴は、教派的な反発を引き起こさないですむ。しかしこのバッハのキリスト教の根本主題との論争こそ、非常に興味をそそる点であり、ここで今それを示唆することができればと望んでいる。

「オルガンコラール」
作曲の初期の段階から、パヅハは既にオルガンコラールという形式と取りくんでいる。このオルガンコラールという様式によって、バッハは豊かな伝統をうけつぐことができた。
オルガンコラールという伝統は、オランダの「オルガニストの教師」ヤン・ピーテルス・スヴェーリンク(一五六二―一六二一)がはじめたもので、その弟子たち、なかでもサムエル・シャイト(一五八七―一六五四)が受け継ぎ、そしてディートリヒ・ブクステフーデ(一六三七―七〇七)にいたるものである。すでに非常に多様な発展をバッハの時代に示していたのは、オルガンコラール伝統中の種々の形式の模範である。バッハは、実瞭には新しい作曲形式を発展させずに、この豊かな伝統を継承したのである
しかしながらバッハ、或る意味でオルガンコラールの先駆者たちを凌駕していたのであった。コラール旋律に結びつけられた歌詞の意味と情緒とは、バッハのコラール編曲という作業では、決定的な影響をはたした。その最も顕著な例は、バッハによって企画されたオルガンコラール集とオルガンコラールの連作とである。 

「オルガン小曲集」
ヴァイマル時代に成立した「オルガン小曲集」の四五曲は、教会暦にしたがっている。初期パロヅクの修辞定型の巧みな使用は、歌詞にふくまれている意味の直接の描写、例えば上昇や下降などの描写を可能にしたのであるが、一方、喜ぴ、嘆き、苦しみなどのような、アフェクト(情緒)の伝達をも可能にしたのである。しかしながらバッハは、コラールの歌詞をたんに描写するのみならず、それよりはるかに進んで、意味内容を説明しつつ、音楽にそれを反映するようにつとめているのである。「おお人よ、汝の大いなる罪を悲しめ」(BWV622)の祝祭的でしかも静けさをたたえた受難の黙想でも、また「アダムの堕落によりすべては朽ちぬ」(BWV637)の教理的徹底さにおいても、或いは「主たる神よ、いざ天のとびらを關きたまえ」(BWV617)のシメオンの描写の神のみもとへの憧れにおいても、いずれの揚合でもバッハは、筆舌につくしがたい内容を音楽によって表現しようと、心を砕いているのである。

「大コラール編曲の連作」
「クラヴィーア練習曲集第三部」は、その大がかりなコラール編曲の連作のため、バッハの作曲年代後期における、ヴァイマル時代の「オルガン小曲集」にたいする、対(つい)とみなすことができよう。今回、非常に少なくなったのは、歌詞の意味の直接模写である。ここでは、いわゆる「オルガン・ミサ」の様式で、ちょうどルターの教理間答が行っているように、キリスト教信仰の根本的な立場が表明されているのである。「オルガン小曲集」の小画像とはちがい、大建築にも比較できるような修辞定型が、大がかりな主題設定に対応している。その傑作のひとつは、「深き淵より、われ汝に呼ばわる」(BWV686-687)という岐格な多声楽曲である。これは、二声の足鍵盤をふくむオルガン・プレノ の六声部楽曲で、比較を絶するような卓越した表現力をもって、罪の告白とざんげとを描写しているのである。

非常にちがっているのは、「天にましますわれらの父よ」(BWV737〕の編曲である。旋律をカノンとして取り扱っているのは、キリストによっておしえられた主の祈りが、キリスト教信仰の教理的根本であることをあらわしているようにみえる。しかしながらカノンの祈りの音楽が、決してなだらかな流れではない。その複雑たリズムと、音程とがよく示しているように、バッハは、ここで自分の問題と祈りの内容との格闘を試みているのである。
教会暦の祝祭日のためにバッハのオラトリオは、ほとんど例外なしに、通常の日躍日および祝日のためのカンタータという頭域をこえた、より大がかりな祝祭日の礼拝のための教会音楽なのである。なぜなら、一七二四年、および一七二七年の受難週・聖金曜日に初演された二つの受難曲、および一七二五年、あるいは一七三五年に初演された復活日オラトリオ、一七三四年あるいは一七三五年に初演されたクリスマス・オラトリオ、そして一七二五年の昇天日オラトリオはいずれも、これらの祝祭日の特別な意味を人々に伝えたい、とする考慮が、それぞれの祝祭日の福音書記事の音楽化の出発点となっている。
バッハがいかに徹底して、この意図の実現をはかったかということは、オラトリオが今日、礼拝式から、また教会の礼拝堂から切り離されたとしても、いぜんとしてそれぞれが属している教会暦の時の時徴をひびかせているのを、私たちが体験していることからもわかる。
バッハは、福音書の記事を、迫力のある強い調子で、受難曲中の劇的に高潮したところで描写しようとつとめているが、また他方では、自由詩やコラールの歌詞に音楽をつけることによって、それぞれの出来事を単純に追ってゆくのではなしに、その出来事の意味の解釈が、オラトリオの中心的な内容となるように配慮がほどこされているのである。

「バッハの受難曲」
オラトリオのそれぞれは、まぎれもない特徴をあらわしている。劇的な「ヨハネ受難曲」は、受難週の聖金曜日から復活日をはっきりとさし示す神学によって、「マタイ受難曲」とはまったく違った目標設定をおこなっている。「マタイ受難曲」は、キリストの十字架の道行きの、それぞれの場所と悲しみにみちたキリストの埋葬にたいする、比類のない優れた黙想が中心をなしているのである。
ほかの三つのオラトリオのいずれにもさきだって、世俗力ンタータは、いまや新しい宗教的環境の中に組入れられている。しかしある別の歌詞のために作曲された音楽をもう.一度使用することは、言葉と音楽の関係を皮相的なものとすることにはならない。復活日と昇天日のオラトリオは、固有の特徴とそれぞれの祝祭日の主題に即した明確な内容とをそなえている。丁度それは、キリスト降誕の記事によって、互いに緊密にむすぴつけられた「クリスマス・オラトリオ」の六曲のカンタータの場合と同様である。

「ロ短調ミサ曲」
ただひとつ、バッハの指揮で演奏されるためには書かれなかったオラトリオの作品は、「ロ短調ミサ」(BWV232)である。バッハは、一七三三年、キリエとグロリアとをドレスデンの宮廷に献呈した。彼の晩年になって、バッハはこのミサ曲を完成した。その楽曲の多くは、以前に作曲されたカンタータの転用で、その他は新しく書き下ろしたものである。バッハはこのミサを決して自分で聞くことはなかった。
用いられた様式のひながたの多様なこと、またミサ本文の解釈の深遠さにおいて、「ロ短調ミサ」は、彼の生涯の仕事の総決算である。バッハはキリスト教信仰の根本問題にたいして、一つの立場にたっている。「われ信ず」の客観的な解釈から、思案しつつ手探りで進むような「死者のよみがえりを待ちのぞむ」、そして「聖霊とともに」.のはげしい歓喜まで、バッハの理解のひろさと深さとは貫徹しているのである。音楽史に登場する作品のなかで、キリスト教信仰と教会とを、このように広くしかも根本的にとらえたものが、一体全体ほかにあるであろうか。

「バッハのカンタータ」
オラトリオの作曲と演奏とは、バッハの毎日の活動にとって例外的なことであった。これにたいしてカンタータの作曲と演奏とは、ミュールハウゼンの最初の創作時期からあとのライプツィヒ時代にいたるまで、必要事であった。力ンタータの作曲がもっとも多く作曲された時期は、一七二三年から一.七二七年である。キリスト降誕日や、復活日のまえの教会音楽が演奏されない週を除外すれば、バッハは毎日曜の礼拝で、その日のために作曲されたカンタータを演奏したのであった。

その揚合.ハッハは、既に作曲したカンタータを演奏することができたはずである。しかしながら、この時期に演奏された作品の殆ど大部分は、新しく創られたものである。驚くべきことは、このような短い期間に創作されたカンタータの数の多さにあるのではなく、むしろオラトリオに優るとも劣らない、作品の質の高さにある。

約三〇〇の力ンタータを.バッハは創造したが、そのうちの二〇〇曲が現存している。たぷんこのカンタータ作品の多さが、今日、バッハを愛し、また音集を愛する人々の、この巨大な作品集団にとりくませる根拠の一つとなっているにちがい.ない。

バッハのカンタータが、いままで比較的にあまり知られてこなかったのは、歌詞の特徴によるところがおおきい。その歌詞は、今日の私たちには、しばしば大げさすぎて、月並みで、なかには苦笑を禁じえない様に思えるものも少なくなく、またその神学はいろいろな意味で内容に乏しく、むしろ平凡である。しかしバッハの想像力は、このような歌詞のうえで燃えあがったのである。歌詞の言葉の選択は、音楽の動機や主題の形成を直接よびおこす契機となり、その思考過程はおおきな音楽構造のための基礎となったのである。

礼拝の一部として力ンタータは、日曜日および祝日の主題と関係を持っていたのは当然なことである。とくに明確にさだめられたのは、このようにして作曲された三大祝祭日、キリスト降誕日、復活日、聖霊降臨日、そしてその他の教会祝日、および市参事会員交替礼拝のためのカンタータである。教会暦の普通の日曜日のために作曲され、礼拝の聖書日課の使徒書と福音書とに関連するカンタータの大きなグループに、バッハはある特定の主題をもうけようとする関心があったことがわかってきている。

「特定の主題」
そのような主題の第一は、「信仰」と「疑い」という問題の設定である。バッハの前に作曲された教会音楽、たとえばハインリヒ・シュッツの作品などとは違い、バッハの立場は、決して始めから肯定的なものではたい。だからカンタータ「われ信ず、尊き主よ、信仰なきわれをたすけたまえ」(BWV109)で、レシタチーヴォとテノールのアリアの疑いと不信仰の描写が非常に現実的なので、これにたいして、次の楽章にもうけられた反対の立場は、自分の立場を主張するために、非常な努力が必要であった。

バッハが特別に配慮した第二番目の領域は、入間の神にたいする深い個人的な関係である。イエスは、旧約聖書の雅歌の思想を基礎に、魂の花婿とみなされている。この両者間の対話のために、バッハは一連の二重唱力ンタータを献呈している。そこでは、ソプラノが魂の役を受け持ち、キリストの声は古い教会音楽の伝統にしたがって、バス声部によって歌われるのである。
二重唱カンタータ、BWV57「試練に耐うる人は幸いたり」の、二人の独唱者たちの、対立しまた協調する感動的な対話、またバッハがこの魂と魂の花婿との対話を、より大きな編成の作品のなかでもちいたものでは、例えば力ンタータBWV21「わがうちに憂いは満ちぬ」、まいはBWV140の「めざめよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」などがある。

第三番目の重要な主題は、ほかならぬバッハの力ンタータ作品全体を通してみいだすことのできる主題、人間のはかなさ、死ぬこと、そして死そのものを克服する企てである。この根本的で、中心的な問題とたたかう必然性は、バッハの日常、あるいはバッハの時代の生活のなかに、丁度今日の私たちと同様に、文字通り存在していた。バッハの二〇人の子供たちのうち、一一人はバッハの存命中に死んだのである。死と死ぬことに.ついて考えをめぐらす、そのことが非常に多くのカンタータの主題となっている。

またほかの問題を掲げているカンタータ作品ですら、個々の楽章のなかにこの死の主題をもっているものがある。

「バッハの全作品に見られる共通の立場」
バッハの二つの立場が、すべての作品に共通してあることがあきらかになってきている。
その一つは、人間存在の有限性をその全体とそのすべての厳しさとをもって、描写することである。しかもその際、これを和らげる対立の立場を設けることをしないのである。
例えば、力ンタータBWV26の「ああいかにはかなき、ああいかにむなしきかな」のような揚合である。

バッハのもう一つの立場は、キリストの復活を通して、私たち人間の復活も保障されると見ているのである。魂ー花婿の秘儀から、死はまもなく来る。死は、慕いこがれる思いをもって、その到来を待たれている。なぜなら死は、キリストとの一致を来たらすからである。それゆえに、多くのバッハの葬送カンタータにおいては、告別の鐘が弦のピティカートによって、カンタータBWV198「哀悼頌」のようではなく、むしろ率直に喜ばしく、奏でられるのである。このうえもなく卓越した仕方で、バッハはこの死への憧れを、力γタータBWV95「キリストこそわが命」のテノールのアリア「憧れのときよ、早くきたれ」で描写している。
それゆえに、バッハのカンタータ作品は、たんにバッハ自身が定めた「秩序正しい教会音楽」という努力の結果なのではない。神学の立場の描写ということを遥かに越えて、バヅハは、人間の根本的問題を把握するようにつとめただけではなく、問題解決のための、思考の場を与えようとしているのである。
この生誕三〇〇年が一つの刺激となって、バッハのカンタータ作品の広範な、しかも未だ開拓されていない分野に意欲をもって取り組むことが、バッハの理解、また私たち自身の理解のためにも、益するところがおおきいと考えている。
                                    終



最近のバッハ研究の展望 
  松山與志雄 1981年 

 ベルリーン市のウンター・デン・リンデン通りとシュプレー河の交差するところ、ドイツ歴史博物館の裏手に、ひっそりとマキシム・ゴーリキー劇場がある。1829年3月11日、ここでフェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディの指揮で、J.S.バッハの<マタイ受難曲>が再演されたことは有名である。
 
 しかしながら1729年4月13日の、受難週・聖金曜日に、ライプツィッヒのトーマス教会で演奏された<マタイ受難曲>が、「全く誰からも注目されずに」(A・シュヴァイッァー)、百年後になってはじめて、ベルリーン・ジングアカデミーによって世界に紹介されるようになった背景には、同アカデミーの主宰者、C・F・ツェルターの教会音楽、とくにバッハの音楽への彼の関心の深さもさることながら、その根本に、彼の絶えざる、音楽作品の分析と批判という努力が、ここに実をむすんだことを見のがしてはならない。
 彼はメンデルスゾーンの師であり、またベルリーン音楽大学・教会音楽科の設立(1828年)にも貢献している。
さらに彼は当時の「一般音楽新聞」紙上で、F.ロホリッツ、J.Fr.ライヒャルト、C.M.フォン・ヴェーバー、E.T.A.ホフマン、R.シューマンらとともに、当時としては高度な音楽作品の分析と批判を執筆していた。その作品分析の記事は、平均して全体の31パーセントを占めていたという。同じ時代の、R.シューマン自身が主宰する「新音楽新聞」でも、作品分析と批判は、その内容の中心を占めていた。
 音楽の分析と批判について、シューマンはベルリオーズの交響曲の批評のなかで、次のように述べている。「この交響曲が考察のために提供する、種々な素材は、今後わかりにくくなりやすい。それで私は、素材をそれぞれの部分にわけ〜しばしば、説明のためには、ある部分を他から借用してこなければならないがー検討するのが一番よいと思う。

 ある音楽作品を検討するための観点とは、 まず形式(全体、部分、楽段、楽節)と書法(和声、旋律、楽曲作法、その成果、様式)、作曲家が表現したいと願う理念と、形式・素材・理念を統轄する精神、この四つである」。
 ここでは、音楽分析と批判について、シューマンとはまったく対照的な、E.T.A.ホフマン、あるいはH.クレッチュマー、H.リーマン、H.シェンカー、H.メルスマンなどを、歴史的に逐一たどることはできないが、しかしながら18世紀以来、一般化してきたこの作品分析の手法と、それに基づく音楽の研究とは、現代ではたんに音楽学の領域だけではなく、音楽生活の種々な領域で、新聞、雑誌の音楽批評、音楽教育で、以前とは比較にならぬほど、重要な意味をもつものとなったている。

「現代のJ.S.バッハ.研究」

W・ブランケンブルクは、その編著『J.S.バッハ』(1970年)の冒頭で、バッハ没後二百年目にあたった1950年以後、約20年間にわたってなされた、種々のバッハ研究の総括をこころみている。彼は文献を、
@バッハの全体像、とくに当時の思想的、また音楽的発展とバッハとの関係について、
Aバッハの生涯の各部分について、
Bバッハの種々な作曲技法、および音楽様式について、
  の三つに大別している。

 このブランケンブルクの分類から想像できるように、現代、とくに1950年以後のバッハ研究の主流は、作品分析を主体とした歴史研究である。そしてその研究の目的は、それがたんなる歴史主義や、擬古主義や、またスノビズムの危険におちいることなしに、J.S.バッハ作品の、「現代に責任のある解釈」を目指すところにある点で、教会音楽にとっても、重要な意義をもっている。

「秩序ある教会音楽」

前述したブランケンブルクの書物の中にある、M・ゲックの「バッハ芸術の究極目的」(翻訳は、角倉一郎監修・バッハ叢書第1巻・1976年にあり)は、上記分類のA(バッハの生涯の各部分について)に属し、非常に啓発されることの多い研究である。
バッハは1708年、ヴァイマル宮廷に伺候を希望して、ミュールハウゼンの市参事会に退職を願いでる。
  そのときバッハは、彼の音楽の究極目的は「神の栄光を讃美するための秩序ある教会音楽」にあることをあきらかにした。M・ゲックの研究は、従来の、ルター派正統主義の立場からの、いささか頑な解釈を打ち破って、バッハの言葉を「信仰告白として」ではなく、もっと現実的な、バッハの「生涯と創造活動の原則」であることを、その生涯を追いつつ、あきらかにしたところに特色がある。

 たとえば、バッハは1714年ヴァイマルで、宮廷楽団の楽長として、カンタータを毎月作曲する際、バッハの音楽の秩序正しさ、その「計画性」は、外面的なすすめかた、すなわち完全なカンタータの一年間分―年間計画といってよいであろうがーを、初めから考慮していた、という点からあきらかである。しかしそれにもまして重要なのは、その外面に対する内容的な面、すなわちバッハは、ヴァイマルでは、新型式のマドリガル・カンタータを考えている。すなわち、従来の、伝統を重視し、典礼的考慮を義務づけた教会カンタータを、歌謡風な、叙情的で自由な、感情を主体とする調べにあわせ、新しい熱烈な、敬虔主義の内面性と暖かみが、イタリアの独唱カンタータの優美さと出会う、そのような新しいカンタータを目標としてかかげたのであった。

 ここでバッハが試みていることは、量よりも質の問題である。つまり教会音楽として意義のある、新しい体質への努力であり、そしてそのような新しい質をそなえた新しい音楽様式を確立するために、あらかじめ定めた基本線にそって、あらゆる可能性を計画的に試み、「根底をあますところなく掘り起こし」(1801年の「一般音楽新聞」)、その結果、「彼のうちにはなに、ひとつ中途半端なものがなく、すべてが完全で、永遠の時代のために」(R・シューマン)書かれたものとなったのである。このことはケーテン時代の「オルガン小曲集」(BWV599-644)をみれば、一層あきらかになることである。

 このM・ゲックの興味深い論文のほかに、ブランケンブルクが、バッハ研究の第二部門(上記A)にあげているものは、Fr.ブルーメ、H.T・デヴィッド、R. エラー、A.デュル、G・フォン・ダーデルセン、F.ツァンダーがある。とくに、A・デュルらの、ライプツィッヒ時代のカンタータの成立年代に関する研究は、世界の耳目をひくセンセーショナルなものであって、その結果は、W・ノイマンの『J.S.バッハのカンタータの手引き』(1967年)のなかで、従来の定説がまったく書きあらためられることになった。

「J.S.バッハのパロディ手法」

 ブランケンブルクの第3部門「バッハの作曲技法と様式問題」では、現代の研究は、バッハのパロディ手法に焦点がおかれている。Fr.スメントは、バッハの結婚カンタータ「正しき者には光が」(195番)と「神はわれらの革新なり」(197番)は、ともにその第2部の音楽が、すでに作曲された作品の転用であることをあきらかにし、バッハがこのようなパロディ手法をもちいるのは、時間と労力の節約のためだけではなく、これによってバッハは非常に高度な芸術音楽をつくりだしたのであるとしている。

 このスメントの研究のほかにも、ブランケンブルク、A.デュル、W.ノイマン、L.フィッシャー、M.ゲックが同様に、バッハのパロディ手法について書いている点からも、この問題について関心が集まっていることは明らかである。
 そもそも、パロディ手法(すでに作曲された多声楽章に、新しい歌詞をつけること)、あるいはコントラ・ファクトゥール(単旋律に新しい歌詞を付ける)は、編曲手法のひとつとして、教会音楽では、とくに伝統的に愛用されてきたものである。

 またバッハの音楽的表現法については、A.シュミッツとH.H.エッグブレヒトが、またR.シュテーグリッヒがバッハ音楽の歌謡風な特質、W・ゲールステンベルヒの拍子とその組織の研究、H.ツェンクの「平均律クラヴィーア」(翻訳が前述、バッハ叢書第9巻にあり)、E.シェンクの「音楽のささげもの」など、いずれも歴史的かつ音楽分析的研究でありながら、現代のバッハ演奏の解釈に、重要な示唆を与えるものである。

「バハの全体象・その歴史的位置」

 H.ベッセラ…の「開拓者としてのバッハ」(バッハ叢書第1巻)は、ブランケンブルクの前述した分類の@に入るもので、その研究は有名なA.シュヴァイツァーの「バッハはひとつの終りである。彼より何物も出でず、一切はただバッハに集まるのみ」に反撃を加え、バッハが、フィーリップ・エマーヌエル・バッハを経て、古典派につらなるものであることをあきらかにした。またブランケンブルクは「バッハと啓蒙主義」(バッハ叢書第9巻)で、「バッハの有名な言葉―すべての音楽と同様に、通奏低音の目的と究極原因」は「神の栄光を賛美すること」と「人間の心情を楽しませること」ーは、確実にバッハに帰すべき言葉ではなく、その一部が、1690年のヴォルフガンク・カスパル・プリンツの書物のなかにみられるし、また、このバッハの言葉は、たとえルター正統主義の立場からであることはまちがいないにしても、当時の理性を信仰と対立させず、両者が協調可能だとする啓蒙主義の影響下にあることを指摘している。

 このように現代の作品分析を主体とした歴史研究は、多角的ではあるが、具体的で、しかも現代の人々に身近なバッハ像を、提供しようとしている。バッハの解釈という観点からみて、現代の人間実存にふれ、バッハの意義をあきらかにすることは、バッハの非神話化とみなすことが可能かもしれない。しかしそれによって次第にあきらかとなってくるバッハ像は、教会音楽にとっても、従来のような硬化した、無味乾燥なそれとはちがって、一段と魅力あるものとして、うつってくるように思えてしかたがない。     以上
 
  (季刊『新教』第40号 1981年春季号より転載、一部修正)


トップへ
戻る