エキュメニカル集会案内


ベルリンの壁崩壊と教会の働き

「1989年秋・ベルリンの壁崩壊と教会の働き
   ーその時聖書と祈りと歌が響いた」                                           
                             松山與志雄

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  「参考資料」
1.松山與志雄 「牧師自殺 波紋広がる」 キリスト新聞 1513号 1976年1   0月30日  1頁
2 松山與志雄 「旧東ドイツ・カールマルクス市(現在ツヴィッカウ)ルター教会での 青年伝道集会記録」1987年、およびルター教会牧師レーマン師の説教ノート と写真と集会録音 
    (紹介「ともに賛美する会」東支区機関誌「ひかり」1988年1月1日号3ー4頁)
3.グンドルフ・アンメ牧師講演記録東支区教師会主催1991年9月15日日本橋教会
4.Jurgen Ziemer Die Bibel als Sprachhilfe in:Pastoraltheologie 81. 280-291 Gottingen 1992(著者は旧東ドイツ時代ドレスデン・聖十字架(クロイツ)教会牧師
5.佐々木悟史 「東独の民主化を支えた教会 政治的危機に宗教のあり方を示す」 1990年 朝日新聞論壇 (佐々木師は当時日本基督教団西ドイツ派遣宣教師)
6.朝日新聞 「どこえ行く東欧 調停 教会の政府との橋渡し、市民との間の亀裂の芽も」1989年10月21日
7.同「東独の民主化運動は 教会が母代わりだった ケルン大司教の来日会見」 1989年
8.朝日新聞 アエラ 「デモ続く東ベルリン 言いたいことは山ほどある。しかし伝えるための紙がない」 1989年11月14日 66ー67頁
9.小塩節 「統一ドイツを中心としたヨーロッパの情勢」東京YMCA午餐会講演記録 1991年 4月24日 
 (同「信徒の友」2000年5月号21頁の報告記事中にも言及がある。)
10.毎日新聞 「黒岩徹の世界をのぞく アイデンティティーを求め」1996年9月

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       「講演に関連する東ドイツを中心とした年表」

1949年(昭和24年)ドイツ連邦共和国(西ドイツ・首都ボン)ドイツ民主共和国
 (東ドイツ・首都東ベルリン)成立
1961年8月13日(昭和36年)
  東ドイツベルリンの壁の構築を始める。高さ4メートル、全長160キロメートル、東独領内の西ベルリンを取り囲む。東西冷戦のシンボル的存在。約80人がこれを乗り越えて射殺された。
 1976年8月18日(昭和51年)東ドイツ・ハレ地区ツアイツのブルーセヴィッツ牧師が、政府の  キリスト者青年への差別政策に抗議して、焼身自殺。
 1985年(昭和60年)ソ連共産党書記長ゴルバチョフ、グラスノスチ(情報公開)、ペレストロイカ(改革)、自由選挙、市場原理を導入する。 
 1987年10月11日(昭和62年)東ドイツ・カールマルクス市ルター教会(牧師レーマン博士)での青年伝道集会に松山が参加。
 1988年10月9日 (昭和63年) 東ドイツ・ライプチヒで平和祈祷会始まる。
 1989年(平成元年) 東欧の改革が進む。 ポーランド「連帯」が勝利し、非共産党政権が誕生。ハンガリー共和国が誕生。
  1月13日 東ドイツ・ドレスデン十字架(クロイツ)教会で「平和フォーラム」が結成。5000人の青年が集まる。毎年1月13日に平和祈祷夕礼拝を行うことになる。夕礼拝のあと、「正義と平和と創造保全のためのエキュメニカル集会」も行われた。    
 8月以降 大量の東ドイツ国民が西ドイツに脱出を始める
  9月3日より数日間 ドレスデン駅で、西ドイツ脱出をはかる人々と警官・軍隊が衝突。死傷者もでる。
  9月8日 教会の仲介・斡旋によりドレスデン市長は対話に応じる。  当時、中心的に活躍したのは、ドレスデン十字架教会、ライプチヒ聖ニコライ教会、東ベルリン・ゲッセマネ教会など
 9月9日 ライプチヒ聖ニコライ教会毎週月曜に祈祷会  それ以後、ライプチヒの市内諸教会でも毎月一回祈祷会。
 9月25日 「秋の革命」 教会は非暴力で行うよう主張する。
  10月7日 東ドイツ建国40周年記念祝賀祭
 10月9日  ライプチヒ7万人規模のデモ 「無血革命」
  10月23日 ライプチヒ30万人デモ 「教会よ、ありがとう」のプラカードが。
 11月9日  ベルリンの壁崩壊 
1990年10月3日 (平成2年)東西ドイツ統一 
1991年 (平成3年)ソ連邦の解体 11の共和国による独立国家共同体(CIS)となる。
1991年(平成4年) ドイツ・プロテスタント教会による教会大会が開催される。  主題は「聖書はわたしたちを自由にする」


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1.「東ドイツ牧師焼身自殺事件」

 
 年表にあるように、1989年(平成元年)10月9日ベルリンの壁が崩壊するまで、特にその80年台に、東ドイツと教会との関係をよく示す事件が1976年(昭和51 年)におこった。東ドイツのブルーセヴィッツ牧師焼身自殺事件である。
 彼の牧会の目標は、東ドイツ社会主義国家体制への、教会員たちの抱いている敗北感と諦めをとりのぞくこと、会員の困窮、特にクリスチャン青少年の学校や職業生活面での困難を助けることに重点がおかれていた。彼の牧するリビハの教会では、ネオンの十字架がつき、会堂のまえには、「主のみ言葉は永遠」と書いた立看板が立ち、また「神なしでは世界は破産」と大書したプラカードを掲げて彼は町中を行進したという。二人の娘たちもまた教会を全面的に応援し、青年伝道集会では彼女たちの演奏するトランペットとギターの音がよくきかれた。
 焼身自殺の直接の動機が東ドイツにおけるクリスチャン児童や青少年への教育差別にあったことはあきらかであった。
 9月17日、東ドイツのハレで、教会大会がひらかれ、マグデブルグのクルチエ監督が二千人の聴衆をまえにして、社会主義体制における信仰の自由と個人の人権の確立を強調した。
 さらにクルチエ監督は、ブ牧師について言及し、かれは、決して狂人でも、また殉教者でもない、ただ一人のキリストの証人である事を力説し、それとともに、ブ牧師の身体を包んだ激しい炎にくらべれば、われわれの信仰の火がいかに弱いものであるかを告白し神の前に許しを請わねばならないと述べた。
 このブ牧師の焼身自殺とそれにひき続いておこった東ドイツ内外の抗議運動は、東ドイツ政府と与党に、これまでの教会政策の修正を余儀なくさせることになった。さらに
東西ドイツの教会の福音宣教活動にたいする反省と将来を再考する機会ともなった



2.「東ドイツの青年伝道集会、ひとつの例」
 この事件の11年後、そしてベルリンの壁崩壊の2年前、1987年(昭和62年)10月に、わたしは、東亜伝道局の招待で、東ドイツ・ドレスデン近郊の、カールマルクス市のルター教会で行われた青年伝道集会に参加する事ができた。
  伝道集会では、レーマン牧師はマタ19章16節以下の「金持ちの青年」をテキストに、社会主義国家のなかの優等生と言われた人々、とくに東ドイツの青年たちに「まだ欠けているものは何か」と問い、イエスの言葉を告げた。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富みを積むことになる。それからわたしに従いなさい」と。
 レーマン牧師は言う。イエスの答えは明瞭であり、簡潔であり、全くよく理解できる。イエスの答えは決して複雑ではなく、誤解しやすいものでもなく、安易なものでもない。
それを聞いて悲しみながら去る青年にたいし、イエスは決してこう言わなかった。
「ごめんなさい。わたしは少し大げさに言ったようだ。勿論すべてを売り払いなさいとは言わない。そうではなくて少しばかり、そうだ、半分、または1/3を売り払いなさい。そうすれば、わたしは了解する。」と。否、イエスはそういわなかった。イエスの要求は全く激しいものであった。そしてその要求を受け入れない者は、たとえ前途のある青年であってもイエスは去るままにさせた。イエスの要求に答えない者には、もはやなにも可能性は残されていない、と。
 東ドイツ社会主義国家体制への、教会員とくにクリスチヤン青年のの抱いている敗北感と諦めをとりのぞくことだけではなく、社会主義体制の中で育っている青年たちにたいしても、積極的に聖書の言葉を伝えようとしていた。
                     

3.1989年(平成元年)10月9日ライプチヒでの「無血革命」
 あわや第二の「天安門事件」かと思われた1989年秋、10月9日のライプチヒ7万人規模のデモは、まずライプチヒの市内4箇所の教会での平和祈祷会で始まった。
 午後5時、聖ニコライ教会の説教者はイザ45章20−24節ををもって人々に呼びかけた。
「国々から逃れて来た者は集まって、共に近づいて来るがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ、救う力のない神に祈る者。意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ、以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにない。・・。」
 説教者はいつもと同じように冷静に、聴衆に神の助けを指し示した。
 同じ時刻にトーマス教会の平和祈祷会では、聴衆は
「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(二テモ1・7)の言葉を聞いた。それに加えて箴言25章15節の
「忍耐強く対すれば、隊長も誘いに応じる」という実践的な示唆も与えられた。
 改革教会の説教者は、一コリ13章11節を引用して、
「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」
説教者は、今わたしたちは、成人となる道の途上にある。わたしたちの永遠の後見人と思われたものは、は今その役目を終わったのである、と述べた。
 聖ミカエル教会の説教者がイエスの一粒の麦の例えを語った。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。
 午後6時半すぎ、それぞれの平和祈祷会が終わって、人々が教会堂から出てきて、数万人もの人々が周辺広場に集まった時、彼らは両手ににろうそくをもっていた。石や棒ではなかった。そのため周囲の警官隊は手をだすことが出来ず、結局撤退し、流血は回避された。


4。
「1989年秋の平和祈祷会での聖書のはたらき 言葉による援助」
@東ドイツの人々は徹底的に沈黙の文化に生きるよう訓練された。それは社会全体の問題でもあったが、感情と恐れ、願望と希望とを公に言い表すという能力が人々に欠如していた。それに拍車をかけたのは、人々の言葉の崩壊と人間相互の不信頼である。
 そのため、そのような声なき人々に聖書をとおして言葉を与えるという力を教会が持っていたということは、非常に重要なことであった。さらに東ドイツでは、状況のなかで言葉を自由に発するということは、すでに政治的な力であった。また政治的な力となった。
 さらに驚くべき事はいつも聖書の飾らない率直な言葉が、正確に状況の問題を指摘していたことである。詩編137編
「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で。」
 を少なからぬ人々、とくに東ドイツの若者たちは、この詩編の記者のように実感していた。だからその際、バビロンと東ドイツとの状況の違いを指摘する必要は全くなかった。
 詩編の126編の「主がシオンのとらわれ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている者のよう になった。」 は、1989年の秋の日々に、不安で苦しみ、特に警察と秘密警察による逮捕と拷問の不安に苦しむ日々に、東ドイツの人々が感じ、希望していたことを、これ以上に正確に表現した言葉はほかに見いだせなかったに違いない。



A東ドイツは聖書にたいして寛容であった。しかしそれは聖書の意味を積極的に認めたというのではなくて、反対に聖書は社会的政治的になんらの影響を与えるものではないという認識からである。だから東ドイツ政府と与党は、教会を聖書だけに取り組ませることによって、教会は衰退すると考えていたのである。彼らは聖書はたんなる読む言葉であって、それが人々の命の言葉となり、声なき人々に声を与える言葉となることを知らなかった。しかし事実は、聖書はそれによって人々が自分自身を表現する言葉となり、自分自身を守る言葉となり、抵抗する言葉となり、悔い改めの言葉となり、そして人々にアッピールすう言葉となったのである。

B1989年秋の平和祈祷会では、稀なこと、すなわち聖書の言葉が東ドイツの現状としっかりと噛み合っていた。その理由は、説教者も聴衆もこの週間の日々、彼らが直面している現実のただ中で、聖書とともにあったからである。説教者は聖書を人々に伝えるために、言葉の美しさや釈義の巧みさを必要としなかった。ただ大多数の人々が、その時不安に怯え、また燃える思いで待ち焦がれている現実に、説教者たちが聖書とともにこれに直面することで十分であった。それは特別な瞬間であり、聖書自身が自分で語りはじめる時であった。状況を明らかにし、人々を励まし、事態を説明し、ゆくべき道を示すために、聖書は説教者たちによって人々にただ示されるだけでよかった。



Cしかし1989年秋の平和祈祷会は決して無から始まったのではなかった。それまで10年間以上の、あのブルーセヴィッツ牧師事件以来の、平和と正義についての聖書神学検討作業、教会協議会、青年伝道集会、そしてなによりも地域教会における地味で伝統的な聖書研究、研修会、家庭集会、教会学校教育の積み重ねによってである。それらをとおして生きた聖書の言葉が守られ続けられた結果である。

D1989年の秋の平和祈祷会は東ドイツの変革と、ひいてはベルリンの壁の崩壊を引き起こしたのではない。東ドイツの変革は政治的にみれば、おそかれはやかれ聖書なしでも起こったに違いないからである。しかしながら、1989年の秋の変革の時、聖書は彼らともにあった。インマヌエルが起こった。聖書をとおして、人々に言葉を与えて、助けることによって、神は本当に彼らとともにあった。
 デモ行進に参加し、教会堂の外で佇んでいた人がいみじくもこのように述懐したという。「わたしたちはその時、外にいて教会を尊敬のまなざしをもって見上げていた。教会から誰か出てきて、わたしたちにゆくべき道を示してくれるのを待っていたからである」
                                   以上

 (日本基督教団東京教区・東支区主催・新任教師歓迎会/講演会       日本基督教団富士見町教会200   0年5月1日(月)午後6時半よ    り・講演午後7時15分より)






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