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讃美歌21の検討と評価

讃美歌21の検討と評価

「教会は将来の讃美歌を考慮することを課題としながら現行「讃美歌」の補足として試用する」
                              1997年 松山與志雄

 この季節に郊外を歩くと金木犀(きんもくせい)が新しい葉をだしているのをみかけ る。興味深いのは新しく出てきた葉の下に古い葉が人間のひげのようにさがっていて、新しい葉がしっかりと定着するまでは枯れないし地上にも落ちない。このように新旧の葉の交替が確実に行なわれているから常緑樹だとある人が言ったが私は本当だと思った。教会の歌もおなじように新しい歌が古い歌にかわって地域教会と礼拝会衆とキリスト者の生活にしっかりと定着するまでは古い歌の存在意義は失われない。また無理矢理にその存在意義を奪ってはならない。
思い出すのはドイツに啓蒙主義や合理主義が吹き荒れていた十八世紀にヨーハン・ベルンハルト・バーセドーらの運動に刺激されて「わかりやすく状況にふさわしい歌」をモットーにおびただしい教会の新しい歌が誕生した時のことである。古い歌が改変され、また多くの「古い」とされた歌がー その中には重要な歌も少なくなかったのであるがー新しい歌によって追放された。ドイツ福音主義教会歌の歴史に暗い影をおとす事件である。
ところがこの当時生まれた新しい歌は現在まったく消滅してしまった。この反省から福音主義教会は新しい教会の歌は古い歌をまず補足するものであって、ただちに古い歌にとって替わるものではないこと、そして新旧歌の交替が現実となるためには、神学と教会と審美的観点から軽率のそしりを招かないために責任ある団体をもうけこれによって注意を払いつつ時間をかけて検討すること、そしてその結果を地域教会と礼拝会衆に発表して教会全体の同意と承認を得るという手続きを確立したのである。
 話は英国教会の祈祷書のことになるが一八七二年に改訂された英国教会祈祷書第二版はイギリス国会で二度も否決されてしまったものである。しかしそれにもかかわらず一九六六年のカンタベリー大主教会議がこれ承認して教会での使用が開始された。いまだに請願をつづける教会の忍耐もさることながら国会の決議をくつがえしてまでも主教の許可をえて祈祷書を用いている礼拝会衆の力強さをまざまざと見せつける話である。

「『讃美歌21』についての私の結論と提案」
 今年の三月末にやっと手にしてからひとつひとつ自分で歌い検討もした。また教区や支区の牧師や信徒の集まりでも話し合ってみた。私は今次のような結論と提案に達してい る。これをまず述べてから内容にはいってみたい。

一、教団の地域教会は現行の「讃美歌」を補足するものとして「讃美歌21」を試用してみる。「讃美歌21」はその内容からみて一九九二年の「改訂讃美歌試用版」の続編である。理由は先の「試用版」で発表された歌の一部の再度の改訂と「試用版」では発表されなかった約四百曲の改訂試案からなっているからである。だから地域教会は「改訂試用 版」にとった対応と同様であってよい。ただ望むらくは二度の「試用版」の発行を契機として、地域教会も讃美歌の将来を考えることを重要な優先課題として真摯にうけとめるべきである。

二、私の提案 まず新しい讃美歌を導入すると同様に礼拝後の讃美歌練習の練習曲目に含めたり、聖歌隊がある所では聖歌隊が礼拝聖歌をあらかじめ歌ったり、教会内の小グループで勉強会を開いたりして試用してみる。つぎに主日礼拝で通常歌われる三つの歌、すなわち礼拝のはじめと説教前と説教後の歌に現行「讃美歌」と平行して「讃美歌21」所載の歌を選んでみる。このような小さな一歩から始めるのは教会に不必要な混乱が生じるのを回避するためである。

三、役員会や長老会などで「将来の讃美歌を考える」という課題のもとで礼拝会衆の感想や意見を定期的に収集し記録しておく。教会に礼拝委員会や音楽委員会があればこのための労をとる。支区や分区や教区も「将来の讃美歌を考える」という課題のもとに地域教会の意見や提案を適宜収集し蓄積しておく。その際関係ある諸団体は必要とあれば賛否両論をふくむ極端な立場を公平厳正に調停することに努めたい。

「『讃美歌21』をみて」
 紙数が限られているし他の人々の感想もあることであるか私は「讃美歌21」の「まえがき」と「「この歌集の使いか」から問題点とそれに関連する試案の歌をいくつかひろって地域教会が将来の讃美歌を考える一助としたい。

四、「まえがき」は詩編一〇二編一九節の引用で始まり教会の歌の穏当な定義がある。つぎに日本の賛美歌の簡単な歴史があり、戦後の現行「讃美歌」(一九五四年)「讃美歌第二編」(一九六七年)の発行にふれる。ここで「まえがき」の筆者が述べてはいないが 「讃美歌第二編」の直後一九六八年に日本基督教団に機構改正の議がおこって、これまで独立していた讃美歌委員会が教団出版局の傘下にはいったのである。この機構改正は教団讃美歌の歴史に少なからぬ影響をあたえたのであって機構改正の長所はこれによって讃美歌委員会の構成人材を自由に広く集めることができ、活動も予算も独立委員会とは違った余裕を持ち、「礼拝と音楽」というユニークな雑誌を委員会の研究機関として約三〇年の継続的な改訂作業を続けることができたのである。機構改正の短所は従来あった教区代表よりなる讃美歌委員長会議がこれによって消滅し、これ以後発行された讃美歌に関するものは教団出版局の出版物(つまり教団総会の承認を必要としない)のひとつとなったことである。問題はこのような状況下で「讃美歌21」についてのこれからの地域教会の意見と提案、賛否両論を公平厳正に讃美歌委員会が受けとめる事が出来るだろうかということである。悲観楽観の両論あるなかで私は「讃美歌21」をみる限りある程度楽観してい る。というのは「改訂讃美歌試用版」の検討の際に出された伴奏楽譜の併記、一部の歌詞試案の再度の改変、現行「讃美歌」の平行出版が今回認められたように見えるからであ る。しかし教団出版局といえども利益を度外視して成り立つ団体であるとは考えられな い。したがってこの自重と忍耐がいつまで続くかが心配である。これにはひとへに地域教会が将来の讃美歌を自分の問題としてどれほど真摯に受けとめるかどうかにかかってい る。また前述したドイツ福音主義教会の例にならって将来の讃 美歌問題を公平かつ迅速に検討調停協議する責任ある団体の設置が必要かもしれない。

 「まえがきーなぜいま改訂なのか」では現行「讃美歌」が「教会の現実と使命にふさわしくないものを多く含んでいるとの自覚が」深まり、「内外からも批判を受けるようになり」そこで一九七〇年から「根本的な見直し」を委員会は始めたと述べている。これは日本基督教団九州教区宣教部がまとめた「つげまつらまほしー讃美歌歌詞にみる問題語句・表現」(一九九一年)にみられるようないわば地域教会サイドからの讃美歌批判と提言をさしているのであろう。委員会がこれらを真摯に受けとめ問題語句や歌詞の「読み替え 表」を作成するばかりでなく、これを機会に将来の讃美歌をめざしての本格的な改訂作業に踏み切ったことは高く評価すべきである。ただそのあとに記されている「讃美歌21」の編集視点なるものをみると委員会の意向が表に出て地域教会と礼拝会衆への配慮がいささか欠けているように思えるのである。ちなみに最近出版されたドイツ福音主義教会の歌集「福音主義歌集」の編纂のための七つの原則の第一条は次のようになっている。

「教会歌集は神への多様な賛美に(会衆を)を招くものでなければならない。教会歌集を手に取るものは誰でもそのなかにイエス・キリストの教会と会員の生活を見いだし、それによって共に参加しともに祝いともに喜ぶように励まされねばならない」    (Musik und Kirche 1995.5.S.248)
 
地域教会の礼拝会衆を「多様な神への賛美」 に招きいれ 賛美へと励ますという歌集の当然の目的をただ当然の事とはしないで歌集編纂の原則の第一条に明記するところに、地域教会と礼拝会衆に方向をさだめその課題に積極的に取り組もうとする意気込みをより強く感じるのである。

五、つぎに「この歌集の使い方」の項であるが歌の配列につ いて述べている。私はこの配列は現行「讃美歌」の配列より格段に進歩したもので歌の選択には巻末の完備した「関連賛美歌一覧表」とともに非常に便利になったと考えている。問題があるとすれば「T礼拝」項目の小分類とそれににふくまれた歌であろう。これは「新しい式文 試案と解説」(本文では副題が欠けている)の「主日礼拝順序U」の構造を基本に配列しているとのことであるが、まだ試案段階である主日礼拝順序を「強制するものではありません」と断ってはいるが、これを基本において歌を配列していることに難色をしめす教会や学校が少なくないのではないか。たとえば改革派の伝統をもつ教会にとっては「アドユトリウム」 (『私たちの助けは天地を造られた主の御名による』)が必要なのではないか。「礼拝 文」では「主の祈り」「十戒」「信仰告白」などが並べられていて礼拝会衆には便利であるがなぜ「日本基督教団信仰告白」が記載されていないのであろうか。

 「3・歌詞について」は恐らく地域教会が将来の賛美歌を考えるにあたって一番論議の生じる所であろう。「現代の会衆が理解できる言葉としてできるだけ口語化を試み」「難解語、差別語、不快語、国家神道用語等は避けるように」「原歌詞を尊重して訳出」に努めたことにたいしては高く評価するものである。同時にここで次のような問題が争点になるかも知れない。

@新作や新訳の歌詞で表現がより多義的でより包括的な歌詞であればあるほど歌らしくなるという問題。模範は旧約の詩編である。

A新作や新訳で歌詞のもつイメージの適確さのほうが理解しやすい語句の使用よりもわかりやすいということ。

B現代の歌詞といえども韻律法や押韻は必要であること。 
ないものは格調がない(香りがない)。

C歌の本質は長くなくて短いこと。四節以上の歌は長すぎて会衆は負担を感じる。ただし賛歌(Hymnus)や詩編歌は例外である。

D従来の作詞・訳詞の改変の際は前述の「難解語、差別語、不快語、国家神道用語等」以外で語句や言い回しが多少古くさくなじみがなくても、普通に正しく理解できるものは改変しないで残すということ。

E従来の歌詞の改変は語句やスタイルの点でできる限り目立たないで最小限度にとどめ従来の讃美歌の歌詞をできるだけ残すこと。

六、曲について「5・楽譜の表記について」のなかではふれられてはいないが従来の歌詞だけではなく従来の曲も大幅に改変されている。曲の差し替えはともかくとしても従来の歌の旋律の改変は影響が大きい。改変は特にドイツコラールに集中しており手本は前述のドイツ「福音主義歌集」などに依拠しているようである。その理由は想像するに原歌詞・原曲主義や古音楽演奏法また伝統的なカンタータ、オラトリオ、オルガン曲への接近をはかるためであろう。ところがドイツ「福音主義歌集」の発行の際もコラール旋律の改変については教会音楽家の間に非常に激しい議論がつづいていていまだに決着がつかないでいる。このような未解決の問題があるのに折角定着した日本の讃美歌の旋律を恣意的とおもえるほど改変することにどれほどの理由があるのであろうか。ここでの争点は

@歌詞は現代的にと主張し曲は伝統的にというのは歌集全体の方針に矛盾していないだろうか。

A私たちはたとえ借り物だからといってドイツ人が歌うように厳密に歌わなければならない理由はどこにもない。これまでに定着した多くの旋律形に日本の教会はコンプレックスをもたなければならないどんな理由があるのか。

B改変しなければならない必然的な理由を詳細に検討する。 余談であるがかって私が旅行団の一人としてルターのヴィッテンベルク城教会の門前で現行「讃美歌」二六七番「かみはわがやぐら」を歌った時スエーデンの旅行団と一緒になった。そしてお互いに立派に「かみはわがやぐら」を一緒に斉唱ができたことを喜びあったことを思い出すのである。
 最後に触れておかねばならないもうひとつの事は「讃美歌21」に比較的頻繁に登場する「単旋律聖歌」のことである。これについての争点として、

C私の知るかぎりでは「讃美歌第二編」にある「単旋律聖歌」は礼拝会衆が最も歌わなかった部類に属している。ましてや第二バチカン公会議の決定にそって日本カトリック教会が著名な作曲家で信徒である高田三郎氏に委託して日本語の特質にそくした見事な典礼聖歌が誕生しており、カトリック教会内外で愛唱され、高い評価を得ている現状からみて、このような日本語「単旋律聖歌」に将来性はあるのであろうか。
 
 結論をくりかえせば地域教会は現行「讃美歌」の補足として適宜「讃美歌21」を試用すればよい。「讃美歌21」は現行「讃美歌」にとってかわるものではない。ただこれを契機に地域教会は賛美歌の将来について考えることを課題として担い、地道な道を歩みながら検討し結論へと進むべきである。教会の歌は決して天から降っては来ないからであ る。
                                        以上

               (『福音と世界』1997年6月号より転載一部修正)


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『讃美歌21』の検討と評価ー 教団教会歌集の将来を考えつつ『讃美歌21』をどう評価するか
                        
                      1999年   松山與志雄


1はじめに

 「讃美歌21」が一九九七年二月に出版されてから早くも二年が経過した。わたしは「21」の教会での試用期間は―「21」の使用にたいして肯定的か否定的か、積極的か消極的か、あるいは無関心かはともかくとしても―I
最終段階に入ったと考えている。これからは否定・肯定に関わらず、歌詞の削除や改訂、曲の改訂や新採用の歌、典礼歌や礼拝文、そしてなによりも将来の教団教会歌集の編集方法について、諸教会の意見や判断や提言を
広く集める時期に到達したと考えている。賛歌学者バイゼ(Byse)は、すでに半世紀まえに、教会歌集の適・不適の判断の場所は教会であることを主張している。

同じくマーレンホルツ(Mahrenholz)は「礼拝で使用することによって、聖霊によって集められた教会が、教会歌の採用・不採用の決断をする事は教会の権利である」と言っている。その意味でもこの試用の二年間はまことに貴重な機会であった。

すでに早々と礼拝への導入を決めた教会の中には、二年目をむかえた今日、本当に今後も「21」を継続するかどうかの決断に迫られている所があるかもしれない。というのはその決断は予想していたよりも容易なものではなく、時間もかかるからである。試用期間を終わってこれから「21」に切り替えようと考えている教会では、切り替える根拠を明確に挙げて、役員会や
一般教会員の承認を得なければならないであろう。ある教会員は、今度の教会総会で提案されると言っていた。もしそうなると、教会もこれまで猛烈に展開した「21」キャンペーンの歌い文句に、ただ便乗するだけでは許されないであろう。マーレンホルツの言葉を待つまでもなく、個々の教会の主体的な判断や選択が求められるからである。

またこれまで「21」にたいして全くの無関心や拒否を示してきた教会も、その例外ではない。礼拝の歌は、聖書に次ぐ準聖典ともいうべきものであり、とくにプロテスタント教会にとっては、会衆の礼拝参加のもっとも重要な手段である。現行の「讃美歌」の全面的な改訂版を自負して、教会内外にそれを標榜している「21」たいして、教会はもはや、知らぬ存ぜぬで押し通すことはできないであろう。発行後すでに二年を経過した今、そのような態度は、教会としての怠慢の誹りを受けるだけではなく、もしも採用しないならば、採用しない理由をはっきりと示すように、関心のある教会員から要求されるに違
いない。このように否定や肯定をそのままにしておくことは、「21」問題が教会内の一つの火種となって、教職者の進退や役員会や長老会や教会内の紛争を引き起す因子のひとつともなりかねない。

わたしはある時、「21」の推進派と見られる牧師の教会葬儀に参列して、葬儀の歌が故人の愛唱歌を含めてすべて現行の「讃美歌」でとおしているのを見て、別に驚かなかった。予想した事態であった。また推進派と反対派会員の板挟みにあって困りはてた牧師が、「21」を教会備え付け用とし、礼拝会衆には「讃美歌」を持ってくるように求めたのを聞いた時も決して驚かなかった。それはすでに福音派の伝統をくむ教団教会が、「讃美歌」と「聖歌」を併用しているのにヒントを得ただけにすぎないからである。しかしこのような歌集の多路線狂義は、とりあえずの便宜的なもので、根本的な解決にはならないことが明らかである。はやかれおそかれ教会はどちらかを選択しなければならなくなる。

というのは「21」は「讃美歌」や「聖歌」と比べてかなり異質な歌集であって、根本的に「21」が持っている排他性が、他歌集との併存を許さないからである、否、許さないように作られているのである。わたしの観察によれば、「讃美歌」「第二編」「ともにうたおう」とともに「21」を併用して使用している教会では、是々非々(良い歌は良い、悪い歌は悪い)が比較的率直に表明されるのだが、「21」に全面的に切り替えた教会では、是々非々ができない。これは「21」が良い歌集だからというのではなくて、「21」が、よほど今までの教会歌集と比べて異質であるためと見ている。だから彼らはこれまでの「讃美歌」や「第二編」によい歌があったとしても、もう後には振りかえって見ようとしない。讃美歌の伝統の継承が異質な「21」によって断たれてしまったからである。

極言すれば「21」は、これまで教団教会が培ってきた「讃美歌」の伝統の継承ではなく解体であり、「讃美歌」の改訂とは「21」の表向きの看板であって、実質は全く別の教会歌集の形成を意図して誕生したものであるとわたしは見ている。「讃美歌21」の題名も暗にそのことを示そうとしているのではないか。
わたしは一九九七年の本誌六月号に、「現行『讃美歌」の補足として「21」を試用する-将来の讃美歌を考えることを課題として担いながら」の小論を発表した。そこでの結論は、教会は「讃美歌」の補足として「21」を試用すればよい。「21」は「讃美歌」に取って代わるものではない、つまり教会は切り替えには慎重を要すると主張したのである。試用二年目の現在、わたしのこの
結論は変わっていない。

むしろ前述したように、「21」が根本的にこれまでの「讃美歌」伝統の解体、継承の拒否であり、全く別の教会歌集を目指しているものであるかぎり、それは日本経済がバブルであった時代の「すべ
てを破壊し新しく建設する」、つまり破壊と建設一辺倒のイデオロギ―的亡霊を、編集委員会自身から全く清算していないためではないかと思っている。これが「21」を「讃美歌」の補足として、つまり第四編として試用してはみるが、わたしが二十一世紀の未来の教団の教会歌集とは見ない理由である。
以下にその根拠として「21」における「讃美歌」歌詞の削除と改訂について、次に曲の改訂、新採用の歌、典礼歌、礼拝文、最後に将来の教団歌集の編集方法について短く触れてみたい。

その前に「21」は教団教会でどれだけ用いられているか読者は強い関心を持っておられるに違いない。近いうちに教団出版局は正確な数字を発表するかもしれないが、まだ発表がないので、不正確さを承知の上で、わたしが
つかんでいる大体の状況をお知らせしよう。全国の教団教会では、「21」の使用に賛成・反対は五分五分のようである。また都市教会に比べると、地方教会は賛成が反対よりも多い。全国の教会をよく訪ねている関係者の話である。しかし「21」に本当に切り替えた教会は、「讃美歌」との併用を含めて、50パーセントをもっと下回るようである。

とくに東京教区内の諸教会の使用率は、もっと低い。東京教区のいくつかの支区を見る限りこれは当たっている。しかし今後どう変化するかは予断を許さない。しかしながらもしもこの観察が正しいとすれぱ、発行後二年を経て教団教会は、「21」に対する一応の判断と選択を下したと考えて間違いない。

繰り返すが、これからは「21」に対して肯定的か否定的かの如何に関わらず、将来の教会歌集のために、各教会が主体的に「21」についての判断や意見や提言を明確に表明して、これをできる限り広く集めて、将来の教会
歌集編纂のための資料とすることが重要である。これからが正念場である。そのためには一向に共通の土俵にのらず、ただいたずらに賛成・反対の声を自己陣営の中だけでぶちあげているのではフェアーでなく、実りも少な
い。思い切って賛成・反対の境界を取り払って、諸教会の判断や意見や提言を一つに集めてこそ、歌の作者(或いは訳者)と歌集編集者と使用者である教会とがともに参加する双方向型編集(後述)の道も開けてくる。このままなにもしないでいると、「21」の編集委員会の一方通行型の編集方針はそのままで、教会の「21」にたいする賛成や反対の声はますます強くなるばかり、下手をすると、教会歌に関して教団は分裂する事態をも引き起こしかねない状態である。

2 「21」の「讃美歌」歌詞の削除について
現在「21」の賛成・反対がもっとも激しく対立しているのは、「21」発行で初めて明らかになった「讃美歌」の歌詞改訂である。しかし実はそれ以上に問題を投げかけるのが「讃美歌」の歌の削除である。削除の全容が明らかにされないので、問題の指摘はまだ散発的であるが、削除は「21」が「讃美歌」の継承か解体かを判断するための重要な指標である。

常識的に考えても理解に苦しむのは、「讃美歌」の改訂と銘をうつならぱ、「21」編集委員会は何故あらかじめ、「讃美歌」から「21」に残す歌と削除する歌とをリストにして、教団教会の意見や提言を聴こうとしなかったのであろうか。部分的にはやったのかもしれないが、全体教会のためには最も重要なステップであるこれを省略して、しかも一九九二年の「改訂讃美歌試用版」には発表せず、一九九七年の「21」で初めて、しかも取り返のつかないかたちで発表したのであろうか(発表といっても、削除の全貌をつかむためには、以下のような個人的努力がなお必要なのであるが)。

これが少なからず教会の失望と批判と憤激の原因となっている。枚挙をおしまないで、ここに削除された歌詞の番号をリストアッブしてみることにする。これは「21」添付の「番号対照表」から、わたしが自分で作ったものである。
もしも間違いがあれば、ご容赦願って次回に訂正する。

削除リスト
 
1.3 .5.6.8.13.17.21.25.27.28.29.31.32.33.34.35.40.41.43.44.45.46.47.50.52.57.59.60.63.64.65.69.71.72.74.78.81.83.84.86.87.91.92.93.104.105.116.117.120.123.126.127.128.10.131. 133.134.135.141.143.144.145.149.152.155.158.159.160.165.167.168.170.171.173.175.176.179.180.182.184.185.186.188.189.192.193.194.196.201.203.204.207.208.209.210.212.214.215.216.219.220.221.222.223.226.227.229.230.231.232.233.235.236.237.239.242.245.246.248.249.250.251.252.253.254.255.256.261.264.265.269.274.275.277.278.279.283.284.287.289.291.293.295.296.297.299.300.303.305.306.307.308.309.311.314.315.317.318.319.323.324.325.327.328.329.330.331.335.336.337.341.342.345.348.350.351.356.357.359.360.362.364.365.366.367.368.369.371.372.373.377.378.379.380.382.383.384.386.387.389.390.393.394.395.396.397.398.399.400.401.402.406.407.408.409.410.412.414.415.416.417.418.421.424.426.427.430.431.432.433.434.435.436.437.438.439.441.442.443.444.445.446.447.451.454.455.456.457.458.459.460.462.463.464.465.466.467.468.469.471.472.473.474.475.476.478.479.480.482.483.484.485.486.487.489.490.491.492.493.495.496.497.498.500.501.503.504.505.506.507.508.509.510.511.512.513.514.516.517.518.519.520.521.522.523.524.525.526.527.528.529.530.531.532.533.535.538.540.542.543.549.550.551.552.553.554.555.556.557.558.559.561.563.564.565.566.

削除数は三百三十七曲で「讃美歌」全体を五百六十七曲とすると、その約60パーセント、全体の五分の三を「21」編集委員会は削除している。歌集からの削除とは、ひとつの歌にとって死を意味する。もはや礼拝で働きを失って使われない、或いは使われてはならないものとして、歌に死刑を宣告したのも同然である。聞く所によると、削除した「讃美歌」の相当多数は、新しく発行される「聖歌」のなかに入れる取り決めがあるという。真偽のほどはわからないが、そのため「21」より新「聖歌」のほうが、将来販売数を増やすのではないかと、真面目顔で心配する牧師がいた。

それはともかくとして、「讃美歌」の五分の三を削除するというのは重大である(普通、削除は四分の一が継承のための最大許容数であると言われる)。後述する歌詞の改討の実態とあわせて、「21」が「讃美歌」の継承ではなく、
解体を目指していることを暗に証拠だてるものである。もしも読者の教会が「賛美し歌う教会」であるなら、主日の礼拝ごとにふさわしい歌を会衆とともに判断し、選び、歌い、また練習に励んでいるならぱ、事の重大さを少しでも予感するならば、上記のリストにある幾つかの削除された歌がなんであるかを、ご自身で見て、聞いて、歌って体験されるのが一番早道である。

「なつかしのメロディ追放」の元気で陽気な掛け声のもとで、あまりにも早く死刑宣告を受けた数々の歌の、声なき声に耳を傾けるべきであるように思う。しかし最大の問題は「21」編集委員会が削除の全貌を明らかにしないだけではなく、削除の理由、或いは削除の基準を詳しく公表しないことである。
公表したのは前記の「なつかしのメロディ」云々であって、しかもこれは新聞やマスコミに対してであり、教団教会に対して向けられたものではなかったように思う(間違っていたらいつでも訂正する)。

最近ある集まりで、自由に聖句をきめて、それにふさわしい、しかも自分の教会の集まりで歌える歌を選んでもらったところ、次のような結果がでた。

「21」で削除した「讃美歌」の歌でここに挙げら れ たのは-158「あめには御使 喜びうたえ」 203「しずけくやすけき かみのみまえ」222「あめなるつかいのうたはこの世にみちあふれて」222「みそらたかく統ぶるならず」308 「祈りは口より いでこずとも」317 「ガリラヤの湖畔、山みどりに」348「ならびもなく とうとき御名の」361「主にありてぞ われは生くる」458 「再び主イェスのくだります日」483 「主とともならん とこしなえに」527 「わがよろこび、わがのぞみ」532 「ひとたびは死にし身も 主によりていま生きぬ」

  これは一例であるが、教団教会の多くが「21」で多数の「讃美歌」が削除されているのを、まだ本当に知らないいのではないか。「讃美歌」の継承の問題とともに、それから もっと論議を重ねなければならない問題がここにあるように思う。


3 「21」における「讃美歌」歌詞の改変状況について


 
 
前回(4月号)では「21」における「讃美歌」歌詞削除の実際について述べたが、次に「讃美歌」歌詞改変の状況を見てみよう。「21」が、讃美歌歌詞をかなり改変していることは既に衆知の事実であるが、実際にどの程度改変しているのか、明らかではない。それで「讃美歌」と「21」の歌詞をそれぞれ比較しながら、改変状況を探ってみた。作業のために、歌詞改変の度合いを測る
基準を次のように定めた。

@小改変(各讃美歌歌詞について1〜4箇所程度の改変)、
A中改変(改変箇所が5箇所以上あるもの)、
B大改変(全体にわたって改変があるもの)、
C全面的改変(改訳/改作とみられるものを含む)。

改変歌詞が原歌詞と比べて節数が増減したり、節の順序が違ったりする場合は、全体又は一部を改訳したものと仮定して「全面的改変」に入れた。

@「21」で「讃美歌」歌詞がオリジナルのまま残されいるものは9編しかない。

(以下初めの番号は「讃美歌」、かっこ付きは「21」の番号)
119(252)、121(280)、217(404)、244(437)、260(449)、292(462),301(155),404(466),461(484)。

ただし漢字転換やルビ、平仮名や符号などの多少の改変は無視する。

A次に小改変(1〜4箇所の改変)は21編。

例えば30(211)、38(214)、48(496)、……などであ
る。

B中改変(5箇所以上の改変)は32編。

例えば23(210)、49(219)、51(220)、……など。

C大改変(全体にわたっての改変)は33編。

例えば7(17)、10(149)、18(2)、……など.

Dところが全面的改変(改訳/改作と見なされるものを
含む)になると129編と、飛躍的に多くなる。

例えば 2(11)、4、5(148)、9(7)、12(152)、…
…などがそれである。

その結果改変された「讃美歌」歌詞の総計は215編に達する。

4「讃美歌の曲の改変について

「讃美歌」の曲も「21」で改変されている。どのよう
に改変されているかを知る手掛かりとして、歌詞の場合
と同様に、ただもっと簡単な基準を次のように設けてみ
た。
@小改変(会衆が歌う際にほとんど障害とならないよ
うな改変、移調、旋律や和声のわずかな改変や原曲
を変えない程度の編曲など)

A中改変(会衆が初めて歌うためには練習を必要とす
る程度の改変、拍子、リズム、旋律、フレーズなど
の改変、編曲など)

B曲の変更(別の曲に差し替えたため、時間をかけた
練習を必要とする)。

@「讃美歌」曲がオリジナルのまま残されているものは
159曲ある。
例えば 7(17)、11(492)、15(16)…などである。

A「讃美歌」曲の小改変は18曲。
9(7)、12(152)、18(2)、…・など。

B中改変は23曲。
2(11)、10(149)、14(170)、…・など。

C曲の変更差し替えは26曲。
58(500)、76(355)、82(381)……など。

歌詞改変の徹底さと数の多さにくらべると、曲の改変
は拍子抜けするほど少ない。

むしろ歌詞改変のラディカルさにくらべ、曲の改変は保守的で、さらに復古的でさえある。これでは21世紀の教会歌として非常な物足りなさを感じる。少なくとも和声付けやリズムに、改変された歌詞にふさわしい新鮮な現代的な編曲が必要でなかったのか。しかしあるいは編集委員会は、ラディカルに改変した歌詞を会衆が歌うためには、曲の保守性こそむしろ望ましいとかんがえたかもしれない。
しかし場合によっては曲の必要な改変を怠っているために、かえって歌いにくくなった歌も少なくない。いずれにしても従来の讃美歌曲にたいする音楽面での処理の不十分さを痛感する。

5 新採用の歌
「讃美歌」の歌詞以外で、「21」で新しく採用した歌詞は全体で369編ある。内訳は、@「讃美歌第二編」よりのもの63編。

第二編1(18)、第二編135(43-3)、第105(50)
…など。

A「ともにうたおう」より14編、

「ともにうたおう」22(5)、「同」5(57}、同29
(86)、…など。

B「こどもさんびか」より15編、

「こどもさんびか」103(60)、「同」116(64)、「同」100
(189)…など。

C「21」ではじめて採用された新しい歌詞は277編。

1、9、10、14……などである。

したがって新採用の歌369編のうち、従来の「讃美歌第二編」「ともにうたおう」「こどもさんぴか」よりのものがあわせて92編で、新採用歌全体の約四分の一.新しい歌詞が四の三を占めている。

このバランスは後述するように、従来の歌を継承しつつ、新しい歌を加える際の数の理想的バランスとしてはほど遠いが、バランスを失した削除や改変と比較すれば、「21」の継続性がいくらか見える所である。
歌詞削除や改変の場合にもこのような配慮かあったら問題ははるかに少なかったと思う.

「21」の新しい歌で、良いと思ったものをアトランダ
ムにあげてみると、

119,134,199,304,318,232,337,419,
472,487,509,570、……など。

また「21」の5、131.171 はローマカトリック教会の「典礼聖歌」にあるものであり、また57、162,409,446は同教会の司祭や信徒の協力による作品である。エキュメニカルな場所で共通に歌える歌として、今後も変わらずに親しまれる歌となるであろう。

テゼー共同体の歌、26、38、421-1、43-1、46、48、49、112、331も同様である。

6 提言
以上「21」について、「讃美歌」「讃美歌第二編」「ともにうたおう」「こどもさんびか」と比較しながら、「21」編集の実際を見てきた。限られた誌面のために詳細は割愛した。さて私がこれらから感じたことを率直に申し上げて、将来の教団教会歌集編集への提言とさせていただきたい。

@誰でも「21」における「讃美歌」の削除と改変の多さには驚く。既に前回で述べたように、削除数は「讃美歌」全体の五分の三に達している。さらに今回見たように「讃美歌」歌詞の改変では、「小改変」から「全面的改変」(改作、改訳を見られるものを含む)までを合計すると約五分の二で、「21」編集委員会は、削除した残りの歌詞を殆ど全部改変したことになる。改変を受けずオリジナルのまま残された歌詞がただ9編とは、まことに徹底した改変ぶりである。このために「21」は「讃美歌」を継承するどころか解体、あるいは「讃美歌」の破壊であると言っても、決して大げさな表現ではない。教団教会
の教職者や信徒の中には、「21」によって信仰の基盤、あるいは信仰の故郷が失われたかのように言うのは、いわれがないわけではない。この結果を見れぱ、むしろ当然のように思う。ただ上述した讃美歌曲の改変に見る

「21」の保守性と復古性が問題を見にくくしているきらいがある。A改変の根拠として、「21」のラディカルな改変は「聖書の口語訳化のようなものである。したがってそれに伴う必然的な痛みは我慢すべきである」という人がいる。しかしこれは教会歌集の本質を見すごした暴論である。たしかに教会歌集の編集は、詩篇に見られるような、聖書の編集と似ている面がある。しかし両者の根本的な相違も明らかであって、聖書は教会の聖典として、すでに編集過程を完了しており、本文の削除や改変は原則としてあり得ない。

しかし教会歌集は新しい編集ごとに教会歌をあらためて収集、選択、改変、新歌の採用を行う。さらに試用版を作成して地域教会による試用と検討を経て、成果を再度編集に反映させ、最終的には教団教会総会の承認を得て
成立するものである。その際削除と改変については、ある歌は礼拝の固有文(礼拝ごとに変わらない礼拝文)となっている様なものもあり、準聖典として、その削除・改変には非常な慎重さを必要とする今回の「21」のような、従来の教会歌「讃美歌」の大胆な削除と歌詞の平均的な「口語訳化」は、多くの間題をはらんでおり、地域教会の検討と、また最終的には全教団教会の承認を必要とするものであるとわたしは考えている。

B教会歌編集の三大担い手は「賛歌学の経験(experimentia)と「教会の権限(compentia)と「個人の貢献(voluntas)」である(リーバークネヒト)。教会の権限行使のなかで最も重要なものは、教会歌集がこれまでの教会歌の伝統に根ざしつつ、未来にたいして開いたものであるかどうかを決断決定することにある。つまり新旧のバランスをどうとるかの間題である。

「21」とほとんど同時期に改訂を行ったドイツ福音主義教会歌集(EG)の編集では、それまでの教会歌集(EKG)の歌詞の四分の一を削除し、四分の三を残している。

スイスのドイツ語圏プロテスタント教会歌集の改変もまことに地味なものであった。それでもK・バルトは不必要な現代化として、不満をあからさまに表明している(「教会教義学」W/2、「愛の行為」901ぺージ以下)。したがって「21」も、今後地域教会の検討や提言を入れて、削除、改変の構成比率を、現在の教会状況に最も適切なバランスにまで回復することが必要なのではないか。少なくとも将来の教団教会歌集の編集にあたっては、この点についても慎重な配慮が必要である。その際編集委員会が教団地域諸教会の検討と決断を先取りするようなことは厳に慎むぺきであろう。

C「口語訳化」の問題について、「讃美歌」と「讃美歌第二編」歌詞検討作業で、指導的な立場にあった故由木康牧師は重要なヒントを残している。「讃美歌第二編」第16番の「おかのうえで木にあげられ』は、同第1番の「こころを高くあげよう」とならんで、口語訳化の傑作と称されている。
由木牧師の訳詞の特徴をあげると、言葉が文学体で、象徴言語が豊かに使われ、韻律があり、表現がドラマティックで、内容は聖書に則し福音的である。

文学体と言うのは、歌詞が口語であっても文学の香りを失わず、詩としても格調があり、韻もふんでいることを指す。訳詞をみると「負われた」と「救いだ」、「なられた」と「力だ」、「死なれた」と「希望だ」、「絶望」と「希望」と韻をふんでいる。「木」は、十字架をあらわす象徴語として、自分の名前が「由木康」、すなわち「木に由って康し」から好んで用いた。「木にあげられ」「傷を負われた」「恥と悩みを引き受け」{なぶりものとなる」「見捨てられて死なれた」ではキリストの贖罪と救いのわざがダイナミックに、しかもわかりやすく的確に表現されている。

また場面の転換も見事で、1節の「丘の上で」で、読者の視点を十字架に集め、「その苦しみこそわたしの救いだ」で、作者自身に引き寄せ、二節の「はじとなやみ みなひきうけ」で、再び受難週のキリストの苦難へと返し、「そのはずかしめは わたしの力だ」で再び作者に引きもどしながら、読者までも十字架の出来事の中へと巻き込んでゆく。3節の「いたましくも神と人に みすてられて主は死なれた」で、作者は読者とともに十字架の出来事のクライマックスから埋葬までを、一緒にたどり、結論として、百人隊長たちの「本当に、この人は神の子だった」の告白にあわせるように、作者も読者も全ての信仰者とともに「その絶望こそ、わたしの希望だ」と歌う。

これは聖書の福音に即して感動的でさえある。由木牧師は口語訳化の例として、これをわたしたちのために残したのであると思う。「21」所載の同じ原歌詞の口語訳(301)を比較しながらみると、この口語訳がどの程度のものであるか容易に判断できる。しかし今日、たとえ由木牧師に匹敵するような教会歌作者や訳者を得ることができたとしても、歌集全体にわたる平均的な口語訳化は、ほとんど不可能であろう。教会歌の歌詞は、聖書に則しつつ、それぞれが歴史的、文学的、芸術的個性を持ち、固有の特徴をよく表しているのであって、これを「21」が敢行したような平均的な口語訳化では、それぞれの特徴を失わせ、貧弱化を招くことになる。

前述したEKG改訂が試みているように、「21」でも日本の教会歌の歴史を区分して特徴をつかみ、言語の変遷から止むを得ない場合に限って改変を行い、礼拝会衆になじんで広く知れわたった歌詞・訳詞はできる限り残して、平均的な口語訳化は避けるべきであった。

「21」で新しく採用した歌の中には良いものが少なくない。それだけに歌集構成の新旧パランスを大きく失してしまったことは、まことに残念なことである。
しかし今後、地域教会の検討と提言がさらに集められて、これを「21」の編集に生かす道は、決して閉ざされてはいないし、またそうであることを強く希望する。
そこではじめて従来の一方通行的な教会歌の編集から、教会歌の作者や訳者や編集者と地域教会の教職者と信徒、聖歌隊とオルガニストと讃美歌指導者を含めた教会歌の相互作用的(インタラクティヴ)編集が始まるものと信じている。
                                      (終り)
(『福音と世界』新教出版社 1999年4月および6月号より転載。一部字句の訂正)


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