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訳書紹介 ビーリッツ著松山與志雄訳『教会暦』

ビーリッツ著松山與志雄訳
 『教会暦ー祝祭日の歴史と現在』教文館 2003年 
                                              定価3,500+税
ビーリッツ著「教会暦」                               松山與志雄

 本書の著者カールーハインリヒ・ビーリッツは一九三六年、ドイツ中西部のチューリンゲン森の近く、宗教改革で後世に名前を残したシュマルカルデンで生まれた。一九五五年からイエナ大学に学び、一九六一年から四年間、クワヘッセン州のプロテスタント教会の副牧師となる。一九六四年にはイエナ大学で、エーリッヒ・ヘルチュ教授の助手となり、現代典礼史に関する論文を提出して博士号を取得した。他方一九六四年からドイツのリューゲン島やバルト海の教会を歴任し、副牧師、牧師、教会監督を勤めた。そして一九七二年から一九八六年までは、ライプツィッヒの神学校の実践神学の教授となる。その後離婚し、しばらく教会の職務を辞してベルリンの出版社に勤務したあと、一九九〇年よりベルリンのフンボルト大学の上級助手、ついで宗教教育と実践神学の講師となり、一九九二年からはローシュトック大学教授となった。 

本書以外に論文としては、
 Ein Haus in der Zeit, Kirchenjahr und weltliches Jahr, ZGDP 
  9(1991)H.2,26-32.
 Die Ordnung des Lese- und Predigtperikopen in der dt. ev.
  Landeskirchen, LJ 41(1991)119-132.
 Lesungen, Der Gottesdienst, Grundlagen und Predigthilfen
  Zu den liturg. Stucken, hg.v. Hans-Christoph Schmidt-Lauber
/ Manfred Seitz, Stuttgart 1922, 106-116.
  Art. Kirchenjahr, ELThGZ(1993)1101-1104.
Das Kirchenjahr, in: Hrsg. von Hans-Christopf Schmidt-Lauber und Karl-Heinz Bieritz, Handbuch der Liturgik 1995 Vandenhoeck & Ruprecht 453-489. 
また共著 Karl-Heinrich Bieritz/Christoph Khaler で、 
  Art.  Haus (3) TRE 14 (1985) 478-492.
 同じく 共著 Klaus-Peter Jorns/Karl-Heinrich Bieritz で、 
  Art. Kirchenjahr. TRE 18(1985)575-599. 
  などがある。
本書ビーリッツ著「教会暦」(原題: Das Kirchenjahr, Feste, Gedenk-und Feiertage in Geschichte und Gegenwart.1994)は、紹介文によれば、一般の人々の記憶から消え去ってしまったかにみえる「教会暦」の重要性を、もう一度いきいきとよみがえらせるために、キリスト教祝祭の発展を歴史的にたどり、祝祭礼拝とそれにまつわる慣習についての情報を読者に伝えようとしている。そのためすべての教会教派の教職者や神学者はもちろんのこと、歴史学、民俗学、芸術史の専攻者や、さらにキリスト教史や文化史に関心を抱く一般信徒のための最良の手引書であるとしている。一九九四年の発行以来多くの版を重ね、一九九八年の最新版では三万二千部に達している。
このように本書が、多くの読者をひきつけた理由は第一に、「教会暦」について総合的的に、また客観的に、しかも重要な問題についてはかなり詳細に伝えようと試みている点である。本書の第三章の終わりに、「教会暦の区分展望」として、プロテスタント・ルター派教会とローマ・カトリック教会の教会暦比較図があり、さらに後続の章にもいくつかの比較図が用意されているが、これらは本書が、教会暦についてプロテスタント、カトリックの両領域にまたがっての広範な情報を客観的に提供しようとしていることを如実に示すものである。そもそも自分の教会の教会暦や祝日などはある程度承知していても、教会暦全体について考えたり、教えられたりする機会はそれほど多くはない。ましてや他教会教派の教会暦と比較してみるなどということは、ほとんど不可能事と言ってよい。本書はエキュメニカルな立場に立って、これらを可能にしているのであって、そこに多くの読者をひきつける理由があるに違いない。
第二に本書の根底には、教会暦についての著者のユニークな見方がある。一九九五年の論文で著者は、教会暦が、教会堂や聖堂と同様に、キリスト教会が二千年の歴史をとおして建設した「時の館(やかた)」であると述べている。

「教会は歴史の中で、多くの教会堂や大聖堂や修道院などを建ててきたように、教会はまた「教会暦」という「時の館(やかた)」を建設してきた。「時の館」はしばしば聖堂と比較される。そこには門や玄関があり、身廊や側廊、そして祭壇へと続く階段がある。しかし「時の館」の図面は、教会が引いたものではなく、基礎は教会が置いたものではない。基礎のすべてはすでに置かれていて、教会はそれを発見したに過ぎない。また使われている柱や壁の材料は、一部分は教会自身の工房から供給されたものである。しかしそれにもかかわらず建物は、独自の様相をしめしている。なぜなら何世代に渡って人々がそこに住むにふさわしいように整え、人々の必要と好みに応じてそれに何重にも継ぎ足し、構成してきたからである。さらに一般の建築が敷地や環境条件を考慮にいれなければならないように、この「時の館」の建築の際も、また一定の基準値、すなわち文明以前に、人間が所有していた時間感覚の影響を受けているのである。しかしまた人々は、何世代にもわたって敷地を開墾して、教会暦の重要性や意味にふさわしいものとしてきた。このように開拓された敷地の上に建てることによって、教会暦の館はさまざまな違った姿を示すものとなった。すなわち時についての種々異なる次元やさまざまな単位、義務づけられ、競合する教会暦やサイクルが、相互に重なり合う結果、資料や祝祭や祝祭日や断食は、全体として見るかぎり、非常に複雑な構造となり、相互にからみ合い、しかも技巧の粋をきわめた建築物となっている。」

このように教会暦を「時の館」と定義した著者は、本書においてまず人間の時の認識から叙述を開始している(第一章「時の中の生」)。人間の時の認識のために自然のリズム、すなわち宇宙的リズムと生物学的リズムがいかに影響を与えているかをのべたあと、自然のリズムの影響下にある人間の時間体験について、二つの根本的に相違した見方、すなわち循環的と目的志向的があることを指摘する( 頁)。そしてすぐに著者は聖書の時間体験へと読者を導く( 頁)。聖書の時間体験とは神の救済史であり、人間にとって開始と目的のある旅路であり、現在のなかに過去、「もうすでに」と未来、「まだ・・・ではない」を包含している。たとえてみれば海の「潮流」のようなものである。そして聖書の独自な時間体験の根底として、キリストの時―カイロスが、人間の時―クロノスに突入していることを指摘する( 頁)。
教会暦を「時の館」とすると、なにか強固で冷たい建物を想像しやすいが、実際はその内外を霊の風が自由に行き来する場所である(ヨハ三・八)。使徒たちが教え、相互の交わりをなし、パンを裂き、熱心に祈ったエルサレムのあの普段の家である(使二・四二)。五旬祭の日に、一同が集まっていると、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌がひとりびとりの上にとどまり、一同が聖霊によって満たされ、霊の語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、あの集まりのようなものである(使二・一以下)。著者によれば教会暦とは、人間の時―クロノスのなかで、キリストの時―カイロスに人々の参加を促す、「あくまでも人間的な手段」である( 頁)。このように著者は、従来の、暦学の一般的な説明や科学的解説や、また他方で教会教派それぞれの、教会暦解説の方法に固執せずに、端的に教会暦の根本とその独自な特色に焦点をしぼって、叙述をすすめてゆく。この事は第二章の「日と週」(  頁)で著者が時の区分を取り上げる際も、古代人が夜と昼に与えた違った意味を短く踏まえて、すぐに聖書の見方に進む。メソポタミヤ地方の週のリズムを踏み台として、イスラエルの週七日間リズムと安息日をとりあげ、さらに新しい強調点を持ったキリスト教週へと進む( 頁)。このように焦点をしぼった、直裁な叙述は「年」を取り扱う第三章でもみることができ、このことは全体を通して本書の大きな特徴のひとつとなっている。
第三に著者は、教会暦の根本が年間を通して、キリスト教独自の特徴を持つ「日曜日」の連鎖であると主張して(  頁)、わたしたちに覚醒を促していることである。著者によれば、キリスト教日曜日の持つ独自性は、たとえ日曜日が祝祭日や祝祭圏のもとに置かれたとしても、あるいは日曜日のために、救済史的、教義的、倫理的、実践的、社会的主題が掲げられたとしても、決して損なわれないし、変えられないし、また置き換えられないものである。なぜなら日曜日の中心は、殉教者ユスティノスの記録にあるように、神の言葉をのべ伝え、主の晩餐を祝うために教会員がともに集まることにあるからである。このような日曜日の独自な特徴を、著者はかずかずの聖書の証言を根拠に、日曜日の起源と歴史をたどり、日曜日祝祭を語ることによって裏付けている。その際、現代とくに顕著になった「主題祝日」にたいして著者がいくぶん否定的な考えを表明していることに注目したい( 頁)。またユスティノスのいう礼拝の二つの根本要素、すなわち「ひとつに結び付けられたみ言葉と会食の礼拝」について、著者は後者、すなわち会食の集まりにかなりの強調点を置いている印象を受ける(「週毎に祝う復活日、死をとおしていのちへの道」 頁以下)。前述の、一九五五年の論文によれば、自己の立場をさらに先鋭化させて、ヒッポリュトスの「奉献文」に表されているような、キリスト教礼拝の原初史、つまりキリストの死と復活を感謝し記念することこそが、日曜日の祝祭礼拝の中心であると述べている。いずれにせよ礼拝におけるみ言葉の宣教と会食の集まりの二つの根本を、ユスティノスのように二つの緊張関係で捉えるのか、ヒッポリュトスのように後者の聖晩餐に重きを置くか(船舶に例えれば「艫下がり」型)、前者のみ言葉の宣教に強調点を置くか(「船首下がり」型)、あるいはそのどちらの立場にもよくさない、ひとつの中心を選ぶべきかは、今後の礼拝論の進展に期して待ちたい。
本書の第二部復活圏(  頁)からは復活祭の起源と歴史と祝祭礼拝をはじめとして、叙述は降誕祭圏は勿論のこと、後続祝祭日や聖人祝日にまで広範囲におよぶ叙述のなかで、それぞれについての聖書配分や祈祷文、礼拝形式や慣習を詳細に記して、ほとんど解説を必要としない。
ここで一般の、とくにプロテスタントの読者にとってあまりなじみのない第二部第八章の「復活徹夜祭」(  頁)と、第4部の聖人祝日について短く解説しておきたい。
復活徹夜祭とは、東方正教会やローマ・カトリック教会で長い間伝統的に行われていた、復活日前夜の徹夜礼拝のことで、主としてキリストの死と復活を記念する礼拝と洗礼式と洗礼の記念、そして復活日早朝の聖晩餐の祝いで構成されている。一九五一年以来、ローマ・カトリック教会では、これを新たに守るようになり、プロテスタント教会もまた復活徹夜祭の導入に尽力を傾けている。復活徹夜祭が本来、年間で最も重要な礼拝であり、キリスト教祝祭の核心とされていた理由は、復活徹夜祭が復活祭の洗礼式と密接に結びついているからである。そして復活祭で洗礼を志願するものの選定と信仰問答による洗礼準備教育のために、実は四旬節が始まったと言っても過言ではない。このあたりの事情を本書は復活徹夜祭を含めて、かなり詳細に記述しており、これにはプロテスタント教界で今後大きな関心が集まるのではなかろうか。

 第4部聖人祝日については、本文中に詳細な解説があるとはいえ、日本の多くのキリスト教徒にとって聖人祝日については、なじみのあるものではない。本書にあるようなおびただしい聖人祝日と実践について、あるいはエキュメニカル聖人暦の存在について、私たちの認識はほとんど皆無に近いと言って間違いではない。ところが最近、ドイツプロテスタント教会実践神学者の間で、聖人祝日の意義を再認識しようとする傾向が見られる。その一人、R.ボーレンによれば、
「伝説(レゲンデ)とは、(キリスト教会にとって)模範となるべき出来事であり、神が歴史の中で業を行なわれる、その可能性を示唆している。伝説は三位一体の神の業の豊かな可能性への洞察を、歴史の持つ預言者的意味に付け加える。伝説は神の恩寵によって与えられた特別な才能という賜物を歴史的に物語ることによって、(神の)過去の業から未来の業への掛け橋をかけているのである。伝説は神の個人個人への祝福のわざを明らかに示そうとしている」(Rudolpf Bohren, Das Gott schon werde, Praktishce Theologie aus theologische Asthetik, 1975, Chr.Kaiser, Munchen. S.117)と述べている。.
最後に、本書の翻訳作業にあたっては次のような原則をたてた。  
@一、 本書中のカトリック教会用語の翻訳については、
日本カトリック典礼委員会編『ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則』一九八〇年 カトリック中央協議会発行
 および 
日本カトリック典礼司教委員会編『ミサ典礼書』一九七八年 カトリック中央協議会発行を、
 また本書中のルター派教会の用語は、
 日本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団監修『ルーテル教会式文(礼拝と書式)』二〇〇一年 日本福音ルーテル教会発行
 を参考にした。
  両教会間で名称は異なっているが、同一対象であることを示すために、本書には比較図がある。またこれらを補足するものとして、訳者による教会暦比較図を巻末に用意した。
  Aただし同一対象にたいして、教会によって異なる用語を併記する煩雑さを避けるために、すでにある程度一般に慣用語として定着しているものを、共通語として採用した場合がある。
 例 四旬節(断食節、受難節のかわりに)、聖晩餐(聖体拝領、聖餐、聖餐式のかわりに)など。 
  Bまた本書のより良き理解のために、両教会の現行用語よりも、原書にしたがって翻訳した方が良い、と判断して、これを採用したものがある。
 例 日曜日(主日のかわりに)。
 すでに日本で定着している用語については、適宜併記するようにした。
 例 しゅろの日曜日、洗足木曜日、イースター、ペンテコステ、アドベント、クリスマスなど。
原書にあって、その翻訳がまだ定着していないと判断したものについては、翻訳せずカタカナ表記にしたものがある。ただし日本の教会ですでにカタカナ表記を用いているものをのぞく。
 イントロイトゥス(Introitus)、ヴォトム(Votum)、カンティクム(Canticum),
C日本の両教会で表記が異なるもので、そのまま残した場合(ハレルヤとアレルヤ)と統一した場合(アニュス・デイ)とがある。     
このような原則を立てて訳出したが、例外もある。
本書を訳出するにあたって、教文館出版部渡部満氏と編集スタッフの方々に多大のご助力をいただいた。校正や索引の作成について、またとくに日本の教会が現用している典礼用語を積極的に採用するため、調査のうえ再度訳文を訂正、加筆する必要が生じた際、これらの方々の協力がなければ、本書の完成はほとんど不可能であった。しかし訳文については最終的に訳者にすべての責任がある。読書諸氏のご批判とご叱正を頂ければ幸いである。
                                       (同書 訳者あとがき より)


書評
「実践ガイド、教育用テキスト研究の手引きとして」
 
                                石井祥裕 

本書は、キリスト教の暦の成立と神学について、またその現在の形態についての全容を概説する書である。
著者力ール・ハインリッヒ・ビーリッツは、一九三六年生まれのドイツ・プロテスタント教会の礼拝学者で、現在ロストック大学教授。礼拝学の分野でのエキュメニカルな企画にも積極的に参加している著名な学者である。
一九九四年の初版以来、原著は、カトリック・プロテスタントを通じて格好の教会暦入門として広く読まれているとのことである。
著者が前書きで、専門研究者向けではなく、神学生や信徒、一般読者のために書いたと断っているとおり、その内容は、歴史に関していえば、現在の研究状況に基づく主要な説の要約であり、礼拝形態に関しては、主にローマ・カトリック教会の典礼書と、ドイツ福音合同教会および合同ドイツ福音ルーテル教会の礼拝書に基づく概略の紹介に努めている。 各事項に関する簡潔かつ的確な情報提供となっており、実践ガイドとして、教育用テキストとして、さらに研究手引き書としても広範闘に活用することができるだろう。
内容は次のように構成されている。
第一部「祝祭暦と祝祭日」は、@「時の中の生」、A「日と週」、B暦、C日曜日という章立てで、時問と人間、基本的なサイクルと人間生活についての一般的考察とキリスト教的時間観の本質性格を論じ、当初ユダヤ暦から派生して発展したキリスト教暦の独自性を考察し、その根幹をなす日曜日(主日)の意味・歴史・主日礼拝の概要が解説される。
以下、第二部「復活祭圏」では、復活祭、準備期間(四旬節)、聖週間・復活徹夜祭、復活節、聖霊降臨祭など、
第三部「降誕祭圏」として、降誕祭(クリスマス)、待降節(アドヴェント)、主の顕現・公現(エピファニー)などの祝祭期間および祝祭日、
第四部は使徒、マリア、聖人その他の祝祭日を扱っている。
第一部の「日と週」以降の個々の項目は、教会暦に関する百科全書的知識の体系的提示といえなくもないが、それらを神学的思索にとって興味深いものとさせるのは、キリスト教的な時間神学に触れた最初の「時の中の生」の章である。
著者は、そこで、クロノス(時間)とカイロス(不可逆的な神の介入の時)の区別に基づいて、教会暦の本質を要約する。
「キリスト教暦は、……クロノスの次元で、クロノスを手段として用いつつ、神のカイロスを明示し、カイロスを反映しようとする企てである。これは非常に困難な企てである」。    なぜなら、キリストの出来事は、本来は、この世の時間には収めきれないものだからである。しかし、キリスト教徒はクロノスとして体験する時間の中で生きている。
「教会暦は、キリストの出来事を現在化し、人々をしてキリストの出来事に関与させるため、必要な、徹底して人間的な手段である」。
このような観点から、教会暦の成立課程や祝祭形態を批判的、かつ積極的に受容し、現代的に具体化するための神学的視野が開けてくる。
多様な文化をまとう人間的な「時間」への、キリストの「時」の受肉の様として教会暦を捉えていくとき、そこには、文化の学問としての広がりをもった実践神学の重要分野が立ち現れるのである。
このような視点をしっかりと据えているという意味で、現代の諸教会が教会暦の刷新をもって目指している福音宣教、文化受容(インカルチュレーション)、多様性の中の一致の追求(エキュメニズム)といった諸課題に関しても、本書は豊かな示唆を与えてくれるだろう。
日本でも、この訳書を通じて、キリスト教暦についての共通理解が教会内外に広く浸透することが望まれる。諸教会の間の用語や訳語の違いは大きいが、その根底にあるものについて、読者は大きく目を開かせられるに違いない。
この寄与をもとに、教会暦の神学が深められていくことを期待したい。
(いしい・よしひろ=上智大学神学部講師)
(A5判・三六六頁・本体三五〇〇円〔税別〕・教文館〕
  
(キリスト教文書センター発行『本のひろば』第546号 2004年1月2−3頁)



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