エキュメニカル集会案内


訳書紹介 ナーゲル著松山與志雄訳『キリスト教礼拝史』

W.ナーゲル著 松山与志雄訳 『キリスト教礼拝史』 
教文館 1998年 A5版 352頁 3700円+税
「批評と紹介・礼拝と学ぶための不可欠な文献」    加藤常昭
力作である。何よりも訳書として力作である。あまり力を入れすぎて読者に不親切になる訳書もあるが、これは、そうではない。訳文は全体として読みやすい。原著は文庫判の大きさで、精々二百頁余、二千年のキリスト教会の礼拝の複雑な歴史の簡潔な叙述であり、決して訳しやすいものではない。事典項目のように凝縮しており、それを読み解いて日本語に移すのは容易ではない。それをやり遂げた訳者の力量を窺うことができる。十年にわたる訳業であった由、その労を評価したい。
著者ヴィルヘルム・ナーゲルは、旧東ドイツの東北端にあったグライフスヴァルト大学の実践神学の教授であった人。三十年以上も前に、この地に本部を持つポンメルン領邦教会のクルムマッハー監督に招かれて滞在したとき、ナーゲル教授の自宅、また教室を訪ね、充実した対話を交わした。厳しい教会闘争を戦い抜き、また東独政府との戦いのさなかにあった、ルター派の伝統が存在化したような、しかも、まことに温厚な人柄は忘れがたいものである。その人が、ゲッシェン叢書の一冊として礼拝史を書いた。初版は一九六二年刊行。訳書の底本は一九七〇年刊行の再版であり、第ニヴァチカン公会議以降のカトリック教会に関する項目も付け如えられている。新約聖書における礼拝から始まり現代に至る教会の歴史の緊密な叙述である。訳書は、原文にはない小見出しをつけ、読みやすくしており、成功している。また巻末に訳者独自の視点で作成し、行き届いた「礼拝用語小辞典」を付しており、これも便利である。
日本における礼拝学(典礼学)研究は、カトリックにおいては活発であり、実りも豊かである。その指導的位置にあるひとりの神父が、近頃はプロテスタントの牧師たちの礼拝研究のお手伝いもするようになったと語られたことがある。それは結構なことであるが、プロテスタント側の礼拝研究の貧しさは恥ずかしいことである。そのなかで教会音楽の専門的研究者であり演奏者でもある訳者が、長くベルリンに滞在してドイツ礼拝学の核心に触れ、帰国後も伝道にいそしみながら研究を重ね、そのひとつの成果を世に問うたのである。ちょうど、日本における礼拝研究の先駆である由木康先生の代表的著書『礼拝学概論』が新教出版社によって復刊され、喜んでいるところに、この信頼できる訳書が加えられ、われわれの間でも高まりつつある礼拝に対する関心が、しっかりした学びに根をおろすものとなる道が拓かれたのである。礼拝の学びは、何よりも礼拝史研究に始まる。西欧におけるその学問的成果はおびただしいものである。それを踏まえたナーゲルの、この書物は、礼拝に関心を持つ者にとって不可欠の文献である。
もとより、ドイツのルター派教会に生きる人びとのための教科書であるから、その視点からの取捨選択がなされており、英国教会の祈祷書は論じるが、スコットランド教会の改革派的礼拝やピューリタンによる礼拝改革は論じられず、ましてアメリカの教会のことなどは全く論じられない。またドイツの教会の礼拝式がどれほど整っていようが、礼拝出席者の少ない現実をどのように説明し、現代にふさわしい新しい礼拝を、どのように模索しているかなどということは語られない。こうしたことは、著者とは全く異なる日本の教会に生きるわれわれの課題でもあり、また訳者が今度は自著をもって問うべきことであろう。
われわれの未成熟のしるしでしかないが、礼拝用語の定訳が少ない。そのために訳者も苦労したと思う。こういうところでも、われわれの共同の学びが進められるひとつの里程標になる訳書であると思う。しかし、語学的な過ちではないが、評者とは理解が異なる訳語がないわけではない。たとえば、「公同」という訳語がある(一五二頁、小辞典一二頁など)。しかし、ドイツ語は、「私的」に対応する「公的」という意味のものであって、公同という日本語から思い起こされる「カトーリッシュ」という意味はない。日本では一般に主日における教会の礼拝を「公同礼拝」と呼ぶことがある。礼拝が公同の信条を基礎とする、その意味で公同的なものであるのは当然であるが、ここは、日本基督教団信仰告白が「公の礼拝を守り」と言っていることを大切にしたい。英語で言えば「パブリックな礼拝」ということである。改革者たちは(この礼拝の公的であることを重んじ、東独の教会もまたこのことをめぐって政府と戦った。しかし、日本の教会がわきまえること少ないところである。一八一頁のカルヴァンのリタージーの紹介のなかにも「公同の執り成しの祈り」という表現がある。この原語は、カルヴァンのとりなしの祈りが驚くほど深く広いことを評価する「包括的な」という意味の言葉である。改革教会の伝統を受け継ぐはずのわれわれの教会がほとんど学び損ねているとりなしの祈りの豊かさをナーゲル教授も評価しているのであろう。その他、「州教会」ではなく、現代の教会についても「領邦教会」の訳語のほうがよいし、「カルヴァンは司祭ではなかったので」とすべきであろう(一八O頁)。贅言をお許し頂きたい。貴重な労作を無駄にしたくないための提言である。この出版を心から喜ぶことに変わりはない。(かとう・つねあき=プロテスタント神学者)
 (『本のひろば』第482号 1998年11月号 日本キリスト教書籍販売会社 財団キリスト教文書センター発行 14−15頁より転載)


『キリスト教礼拝史』Wナーゲル著松山與志雄訳     編集部
教文館 定価(本体三七〇〇円+税)

この夏の新刊で、プロテスタントの立場からまとめられたキリスト教礼拝史(典礼史)の通史の邦訳である(底本は一九七〇年の原著第二版)。著者ヴィリアム・ナーゲルはドイツ・ルター教会の実践神学者で、この書は、実際にルター教会の最近の礼拝刷新にも影響を与えているという。
本書が扱っている内容を紹介することで、十分この邦訳の意義を示せるだろう。はじめに、@新約聖書の礼拝、A使徒後時代の礼拝、B初期カトリック(三世紀のヒッポリュトス、テルトゥリァヌス、キプリアヌス、オリゲネスの時代)と、広義の初代教会が扱われる。次に、四世紀以降の各言語圏ごとの典礼様式の形成をC東方教会、特にDビザンティン典礼、E西方教会と見ていく。そしてFローマ.ミサの形成とその後のカトリックの典礼のトリエント公会議時代までの経過を概観して、G伝統となったミサの式次第を解説する。ここまでで全体の約半分を占める。ユングマンの『古代キリスト教典礼史』(平凡社)や『ミサ』(オリエンス宗教研究所)で扱われている内容とも重なり、双方を併せて読むと立体的な歴史理解が得られるだろう。
後半は宗教改革以後の歴史が扱われる。まず、Hルターの改革による礼拝、I改革派教会の礼拝としてツヴィングリとカルヴァン派の礼拝、J英国教会(聖公会)の礼拝と各派の礼拝改革が概観される。続いて、十七〜十八世紀のK敬虔主義と啓蒙主義による典礼伝統の崩壊、十七―十八世紀末以降のL福音主義教会の礼拝の刷新、そしてMカトリックの典礼運動から第ニバチカン公会議による刷新までが概観される。特に、プロテスタントの教会における近代の礼拝刷新については、まとまった概説の少ない分野であり、その意味で、本書は貴重な寄与となるだろう。最後に時祷(カトリックでの聖務日課または教会の祈り)、教会暦について簡単な歴史的な概観がなされている。
典礼の歴史を学ぶための書物が最近日本でもこのように増えてきたことはまことに喜ばしい。エキュメニカルな相互理解を進めさせてくれるとともに、キリスト教の根源への洞察を深める糧となるだろう。基本的な用語の解説も付されており、礼拝や典礼に関心をもつ読者への便宜が図られている。(A5判三五五ぺージ) 
(月刊「福音宣教」オリエンス宗教研究所発行・一九九八年十一月号より)

ブックレビュー
『キリスト教礼拝史』W・ナーゲル著松山與志雄訳
教文館一九九八年 A5判 三五〇頁 三七〇〇円(本体)

教会音楽の専門家、テゼー共同体紹介者の松山與志雄氏の優れた翻訳により礼拝の学びに不可欠な良書がまた一つ加えられた。W・ナーゲル看『キリスト教礼拝史』(William Nagel:Geschichte des christlichen Gottesdienst, 1970, ゲッシェン叢書)である。本書の登場を賞賛し歓迎したい。礼拝を学ぶ上で総合的で簡潔な礼拝通史が与えられたからである。本書は新約聖書から現代まで、古代中世のミサ典礼、東方典礼、ルター、聖公会、ローマ・カトリックに至る礼拝史を要領よく簡潔に総括している点で、優れた礼拝史の教科書であると断言しうる。ただし著者ヴィリアム・ナーゲルは旧東独ルター派教会実践神学者(グライフスヴァルト大学実践神学教授)であるためか、古カトリック教会そしてルターの礼拝改革に重点が置かれ、ツヴィングリとカルヴァンにはわずかに触れるだけでスコットランドやアメリカの改革長老教会の礼拝については言及されていない。
礼拝学や礼拝史を学ぶための優れた教科書がなく、神学校でも指導者は困窮を余儀なくされているはずである。生きたキリスト教の証は礼拝にある。礼拝史の学びの貧困は礼拝そのものの貧困と誤謬を招き、ついには教会形成を著しく阻害し不健全にする。畢竟、礼拝史の基本書の欠如は神学教育においても教会形成においても致命傷となる。こうしたプロテスタント病は現在も実に深刻で今なお癒されてはいないが、ようやく我が国でも礼拝の暗黒時代に終わりを告げる希望の兆しが見え始めた。礼拝の学びを豊かにする出版が相次いだ(ヘイゲマン『礼拝を新たに』、ウィリモン『礼拝論入門』など)。この兆しは海外における優れた典礼研究の業績に依存するところが大きい。カトリックでは力ーゼル、ヴァルナッハ、ユングマンらによる秘義神学の功績、スコットランドやアメリカの改革長老教会式文の大改訂は推進され、聖餐を中心とする本来の礼拝を健全に正しく回復することに成功しており、わけても「聖餐の祈り」の記念奉献回復は重大と言える。
訳語に言及すれば適切な訳語が充てられ信頼に値する。キリスト教関連、特に礼拝関連の訳語には多くの課題があり、その典型が礼拝の中核である「サクラメント」である。意味不明な従来の「聖礼典」を捨て、力タカナ書きの「サクラメント」が採用された。これが最善であるか迷うが、「秘跡」が随所に採用されている。語源は「ミュステリオン」だから、「秘跡」は適訳と思う。また「聖別の祈り」とされた聖餐の祈りは「奉献の祈り」または「エウカリスティアの祈り」として、あるいは「ミサ奉献文」として歴史的に訳し分けられ、聖餐の祈りの構成を典礼史に応じて明確に紹介している。
巻末「礼拝用語小辞典」は訳者の力作で簡潔で分かりやすく読者のよい助けとなる。
最後に礼拝学や礼拝史を論ずる場合、聖書に遡る礼拝用語の概念規定は決定的な意味を占める。礼拝用語の使用はすでに後期ユダヤ教の時代から大問題であったが、七十人訳聖書成立においてギリシャ語用語が採用されるに至り、どの語に置き換え訳すか、一層重要になった。原始教会や古カトリック教会は七十人訳の影響を強く受け、レイトゥルギア、プロスクネオー、ラトレイア等の用語は旧約から礼拝史全体を貫通する最重要概念である。その一部が「解説とあとがき」で触れられている点は注目に値する。独語のため、礼拝(Gottesdienst)と典礼(Liturgie)の概念を、人から神に上向するアナバーシスと神から人に下降するカタバーシスの概念によって捉え直し解説している点は興味深い。
(日本基督教団 福岡渡辺通教会牧師 磯部 理一郎)





キリスト教礼拝と祈りの歴史              
  松山與志雄  1984年


第1回


はじめに

毎年十二月になると、日々の祈り・家庭礼拝、メディテーションなどに用いる、いわゆる「霊想書」のたぐいが売れゆきを伸ばすと聞く。クリスマス・プレゼントとして、また新年への霊的な備えとしてふさわしいからというのであろう。それではキリスト教の礼拝についての書物はどうであろうか。霊的武装というのであれば、こちらは祈りに優るとも劣らない重要なことであると思うが、しかし礼拝の書物が売れゆきを伸ばすなどとは、あまり聞かない。礼拝はもっぱら神学者や牧師にまかせるのがよいとでも考えられているのであろうか。あるいはこの現象は、現在キリスト教界の中に潜在しているところのーと私は考えるのだが-礼拝と祈りの分離を示すひとつの兆候ではないであろうか。

 そのことは、これら「霊想書」と呼ばれる書物の内容を一瞥しても、ある程度うかがい知ることができる。個人的な日々の祈りにしても、また家庭礼拝の聖書日課にしても、短い奨励をまとめた日々の霊想のたぐいにしても、あるひとつの計画に基づいて全体が編纂されている。そして皮肉なことであるが、それらがよくまとめられていればいるほど、それ自体が自己完結しているためであろうか、私たちが祈るよう求められている、現実の教会のため、とくに主日礼拝のために具体的に祈る余地がとぼしくなる。あるいは反対に、

礼拝の、毎日の祈りからの分離という点が指摘されねばならない。「霊想書」が売れるというのは、私たちの主日の礼拝のなかに-会衆が望んでいる真実の祈りがとぼしいために、会衆自身がこの様な「霊想書」をもって補おうとする努力のあらわれと見ることはできないであろうか。

 個人的なことになるが、私が教会の礼拝の準備のなかで、大事なことと思っていることのひとつに、会員や求道者の日々の祈りを具体的に知り、できるだけ正確に把握することである。ところが実際は、会員の具体的な祈りを知る機会にとぼしく労苦することが多い。とりなしの祈りとはいうものの、本当は、会員のために祈るというよりも、たんなる紋切り形か、十年一日のごとく、同じ言葉を繰りかえす、真実のとぼしいものであることを告白せねばならない。

 以上が、この連載の表題を、「キリスト教礼拝と祈りの歴史」とした大体の趣旨である。ではなぜ私たちが礼拝と祈りという、二本の柱を立てて、考えてゆかねばならないのか、その場合、礼拝とは何か、祈りとは何であるか。これらのことをこれから考えてゆきたいと思う。

「イスラエルの民の礼拝と捕囚の経験」

 バビロニヤ捕囚(紀元前587ー538)が、その後のイスラエル国民の礼拝と祈りに、いかに大きな影響を与えたかは、想像するにかたくない。捕囚のイスラエル人たちは、バビロンにおいて、異邦宗教の礼拝、祈り、信仰とその生活をまのあたりにした。彼らは彼らの唯一神信仰にとっては想像もつかないような、魔術的な異教の実際にふれた。神殿や犠牲を捧げる場所を秘かに訪ね、バビロンの、銅や石で造られた神の像や芸術作品を、半ば嫌悪の情から、半ば驚きをもって眺めたにちがいない。

 この経験は、イスラエルの民が、捕囚から解放されて、故国に帰り、第二神殿の建設に着工し(紀元前520年)、完成した時(515年)、その礼拝と祈りのありかたに多大の示唆を与えることとなったのである。

 また他方では、バビロニアの捕囚の経験は、イスラエル人をして、神への祈りとみ言葉を聴くことへの、激しい願望を燃えたたせた。エゼキエル書によれば、イスラエルの民の長老たちは、預言者のもとを訪れて、神の言葉について熱心にたずね、聖なる教えを非常な意欲をもって学んだことである。

「シナゴグ礼拝の成立」

 捕囚後、エルサレム第二神殿の建設とならんで重要なのは、シナゴグと呼ばれる地域の礼拝所と、それを支える共同体の成立である。エルサレム第二神殿は、イスラエルの民が、バビロニヤ捕囚より帰還して、ペルシャ王クロスの許可を得て、ゼルバベルの指導のもとで完成したものであるが、シナゴグは、神の言葉を学び、祈りをささげる場所として、二四にわけられた地方区に、それぞれ置かれることとなる。このシナゴグでは、犠牲の祭儀は行われなかった。犠牲の祭儀はもっぱらエルサレム神殿の礼拝にのみ限られていた。

 このシナゴグ礼拝の起源は、先にも少しふれたように、バビロニヤ捕囚時代にさかのぼることができるのであって、異国の地で、礼拝と祈りとみ言葉のために人びとが集った。その集会が模範となったのである。興味深いのはこのシナゴグとエルサレム第二神殿との間には、非常に密接な関係がたもたれていたことである。二十四の各地方区に存在するシナゴグ共同体は、毎年二回、一週悶の単位で、彼らの代表をエルサレム神殿に送り、そこで日毎に行われている犠牲の祭儀に参加させたのであった。そしてその際、代表を送りだした地方のシナゴグでは、同じ時に人びとを集め、創世記第1章を朗読し、エルサレム神殿と、彼らの代表者と、またそこで行われている礼拝とを、彼らの祈りのうちに覚えたのであった。

「神殿礼拝の改革と信徒の祈り」

 この神殿礼拝とシナゴグ礼拝での祈りの密接な関係は、ルカによる福音書1章5節以下の、ザカリヤとその妻、エリサベツの記事からもよく推察することができる。ザカリヤが洗礼者ヨハネの誕生の近いことを、み使いから知らされたのは、彼がエルサレム神殿で、当番として神のみまえで祭司の務めをしていた時であった。そして故郷にいる彼の妻は、シナゴグ礼拝で、人々とともに、讃美と祈りのうちに、ザカリヤたちの神殿での務めを覚えていたのである。この祈りの交わりのうちで、洗礼者ヨハネの誕生という神の不思議なわざが成就したのである。

 ここでエルサレム第二神殿の建設と関連して、その神殿礼拝の改革にも一言ふれておかねばならないであろう。第一に、この時期にエルサレムをのぞく、イスラエルのすべての「高き所」と「聖所」とが廃止されたことである。

 第二に、イスラエルの民が「地の実の初物」をたずさえて神の前に置き、神を礼拝する時、祭司ではなくて、信徒自身が、祈りを神の前にささげることを許されるようになったとみられることである(申命記26章13節以下)。

 神殿礼拝における信徒の、祈りによるこのような参加が許されるようになったということは、前述した、祈りとみ言葉を学ぶ場所としてのシナゴグの設立と同様、預言者の教えの影響、とくにバビロニヤ捕囚の際の経験の結果である。

「わたしの先祖は、滅びゆく一(いち)アラム人であり、わずかな人をともなってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。・・・」(申26章5節)

 ちなみにこの申命記26章5節以下に記されている祈りと讃美の言葉は、イスラエルの祈りの最も古いもののひとつであって、その起源は第一神殿の時代の末期頃と推定されている。

 それではこのエルサレム第二神殿における礼拝と、イスラエルの全国に散在するシナゴグ礼拝との関係をどのような言葉で表現したら、一番適当であろうか。前者を中心、後者を、その中心をかこむ周辺的な存在とするのはあやまりである。なぜなら、前者のエルサレム神殿の犠牲礼拝に対して、後者のシナゴグ礼拝は、そのような犠牲の祭儀をまったくふくまない、もっぱら祈りとみ言葉を中心としたものであるから、両者は質的に違っているのである。

さらに、シナゴグ礼拝成立の根本である神に近づくことは、祭司だけではなくて、誰でも、高貴な者も、一般の人も、なんらの仲介者はなしに可能であるという、預言者の教えにもとづいているのであるから、

「二つの極としての神殿礼拝とシナゴグ礼拝」

その点からエルサレム第二神殿の礼拝とシナゴグ礼拝との間には、ある緊張と対立があることを否定することはできない。だから両者の関係は、中心と周辺というよりは、むしろ楕円の二つの極のようなものである。しかしながらこの二つの極は、たんに緊張対立するばかりではない。前述したように、地方のシナゴグ代表が時を定めて、エルサレム第二神殿の礼拝の務めをはたす事を通して、両者間に密接な交わりがあることを見逃してはならない。両者は決して閉ざされた極ではなく、相互に開かれているのである。

それではなぜ質的に違っているのに、どうして両者間の交わりが可能なのであろうか。それはイスラエルの民の唯一の神に対する信仰、同時に、シオンの都、エルサレムをめぐっての、イスラエルの歴史を通じて啓示される神、そしてまた、各地方の現実のただなかで働きたもう神に対する信仰告白が、その根本にあるからである。歴史を通じてご自分を啓示し、地域的現実の中で働きたもう唯一の神こそが、この様な質的に違った礼拝をひとつとならしめている根源である。

「異邦人伝道者のパウロの祈り」

私はこの点で、エルサレムと、ローマで象徴される異邦人伝道のはざまに立って、たえずその双方に関わりを持ち続けようとした使徒パウロを思い起す。

パウロの異邦人伝道の根本は、人間は自分の行為によってではなく、ただ神に信頼することによって救いに到達することができるという確信である。しかしながら同時に、神が歴史のなかで、いつ、どこで、どのように働いたかに注目することも重要であった。パウロはそのため、エルサレム教会の意義を認め、異邦人キリスト者たちの献金をたずさえて、代表者たちとともにエルサレムに上京したのである。私はここに、第二神殿とシナゴグ礼拝との交わりとまったく共通したものを見出すのである。(続く)





第2回

「初代教会の礼拝」

 初代教会の礼拝初代教会(紀元一○○年頃まで)の礼拝について、新約聖書は私たちにとっていろいろと大切な点を、伝えてくれる。その意味で新約聖書は、この時代の礼拝研究にとって、欠くことのできないものである。

 たとえば使徒言行録をあげれば、神殿の礼拝(二・四六、三・一以下、五・四二、二一・二六)、シナゴグでの礼拝(九・二〇、一三・五、一四、一七・一〇、一七、一八・一九)そして家の礼拝(一・一三、二・四二、四六)などである。新約聖書以外の資料としては、紀元一五〇年頃までのキリスト教に関係のある文書、たとえば「教訓」(ディダケー)、ユスティノスの「護教論」、そして総督プリニウスが、皇帝トラヤヌスに書いた「手紙」などがそれである。

 しかし新約聖書が私たちに示してくれるものは、初代教会の礼拝の大切な点、特長、あるいは特色というべきものであって、当時の礼拝の実際や発展の経過について、明確な像を教えるものではない。ましてや、現代の私たちが共通にまもるべき、基準的な礼拝様式などといったものを伝えてはいない。この自由さが、礼拝の研究に、さまざまの仮説を立てることのできる余地を与え、その仮定の上に立つ、種々の違った研究成果を産み出す結果となった。

 紀元一―二世紀の礼拝についての研究が用いる仮説を大別すれば二種類ある。
ひとつは、新約聖書は、後世の発達した礼拝様式の根本となる、核のようなものを含んでいるとする仮定である。これは、従来までは、ローマ・カトリック系の礼拝学者に多い。  これに対して、後世の礼拝の発展は堕落であり、新約聖書には、この誤った礼拝を正す基準となるべきものがあるとする立場である。これは主としてプロテスタントの礼拝研究者に多い。その結果、礼拝史における新約聖書のとりあつかいにも二通りの方法がある。つまり前者は、新約聖書における礼拝の研究から始めて、新約後の時代へと移ってゆくのにたいして、後者は、ある時代の具体的な、特定の礼拝様式の研究から、新約聖書へと逆行するのである。G・P・ヴェター、A・アルノルドは前者、H・リーツマン、A・ユングマンなどは後者、O・クルマン(『原始キリスト教と礼拝』、訳書あり)は、その中間をゆくものである。

 O・クルマンは、初代教会の礼拝を新約聖書などを用いて研究するにあたって、この時代の礼拝の種々の構成要素を、そのまま、結びつきのあまり良くないままで(決して体系化することなしに)ひとつひとつをまとめるように試みている。この「キリスト教礼拝と祈りの歴史」も同じ立場をとっている。

 礼拝史研究の将来に期待されることは、礼拝の歴史が「教義学的、教会史的、神学論争的にあっかわれることではなく、むしろ礼拝として」(L・フェント)とりあっかわれることである。そしてできるならば、礼拝史の研究が、教会教派を越えた共通の学問のひとつとして、エキュメニヵルな共同のわざとして進められることであろう。その反対に、自分の教会や教派の伝統から、一歩も出ず、もっぱら自己の立場の正当化にのみ意欲を燃やす礼拝史や礼拝学の不毛さを、私たちは深く認識する必要がある。

 これは礼拝史全体について言えることではあるがL・フェントは、V・ヴァイタの「ルターの礼拝の神学」(岸千年訳)を、ベルノイヒナー教会改革運動(一九二三年以降)の著作と比較して、前者には、礼拝学の貢献する余地がまだ多くあることを指摘しているのは正しい。

「イエスと礼拝」

 初代教会の礼拝について学ぶ前に、まず、イエスの当時の礼拝についての言葉や態度に注目しておくことは、重要なことであろう。初代教会の礼拝は、当時のユダヤ教の祭儀から深い影響を与えられたことは事実であるけれども、その新しさは、イエスの人格とその働きに寄る所が最も大きいからである。

 まず新約聖書が示している所によれば、イエスは、あとで述べるように、当時のユダヤ教の祭儀にたいして、批判的な立場を持たれてはいるが、しかしご自身を、この礼拝生活から遠ざけるようなことはされず、それを守り、それに参加されている。



 イエスはシナゴグの礼拝に出席され、聖書を読まれている(ルヵ四・一六以下)。いやされた病人にたいして、モーセの命じたものをささげるよう命ぜられている(マルコ一・四四)。イエスはすべての町々村々をめぐり歩いて諸会堂で教えておられる(マタイ九・三五)。ユダヤ教のしきたり通りに、イエスは食前の祈りをささげられている(マタイ一四・一九)。除酵祭の過越の食事を弟子たちと守られている(ルカニニ・七以下)。

 しかしながら、主の祈り(マタイ六・九〜一三、ルカ一一・二ー四)、主の晩餐(マルコ一四・二二ー二四、マタイ二六・二六ー二八、ルカ二二・一二−二〇)および洗礼(マタイ二八・一九、マルコ一六・一六)は、初代教会の礼拝の新しい要素として、その起源をイエスご自身に帰することができよう。

 またイエスは、当時のユダヤ教の、さまざまな祭儀の乱用をいましめられ、その際、旧約聖書の預言者たちの批判の言葉を引用された。「神が好むのは、あわれみであって、いけにえではない」(マタイ九・一三)。預言者ホゼアの言葉によって、イエスは、当時のユダヤ教の礼拝が、日常生活を置きざりにし、一般の人びとの日常の行動と、かけはなれた存在であることを指摘されている。

 イエスは、マタイ九・九で、収税所に座っているマタイをみて「私に従ってきなさい」といわれた。これは礼拝をふくめた、私たちの信仰生活の根本が、日常的な継続性にあることを示しておられるのである。礼拝は「座っている」ことではなしに、イエスに従って、日ごとに歩むことであり、それはまさに日常生活の中で日々行われるべきものである。

 また一〇節では、イエスが、取税人や罪人たちと食事をともにしておられたと書いているが、「ともに食事をする」の根本は、それが「与え、あずかり、そしてひとつとなる」ということにある。イエスは、礼拝の中心は、そこで神の恵みが与えられ、人びとが皆ともにそれにあずかり、それを通して、ひとつとされていくところにあることを教えられているのである。

 さらに「イエスが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(二二節)といわれている。礼拝は、神がイエスを通して、罪人を招き救うという新しいわざに参加することである。私たちは礼拝を通じて、この神の救の働きに、ともに参画するよう招かれている。私たちはただ集まるために招かれるのではない。ともに集まり、神の事業へと参加するよう招かれているのである。

「初代教会の礼拝」

 使徒言行録二章四二節によれば、そこに礼拝の四つの主要要素が挙げられている。すなわち「教え」、信徒の交わり」、「パンさき」、そして「祈り」である。これらにさらに「信仰告白」と「うた」がつけくわえられるならば、当時の教会の主要な部分がとりあげられたことになり、礼拝の特長をもつかむことができるのではなかろうか。

「教え」
 使徒たちの説教と、聖書や手紙の朗読をさす。イエスは会堂でも、神殿でも、家でもまた野原、湖畔でも教えられた。使徒たちもイエスにならって、ある意味では場所を選ばずに説教を行ったと考えられる。使徒たちの説教の内容では、旧約聖書から現在、そして来るべきキリストの再臨にいたるまでの、神の救いのわざの真実であることが、自由に語られている(使徒言行録二・一四−三六)。

「説教」
 説教とは、聖書の言葉を解釈し、聴衆に関係づけて、その内容が説きあかされ、礼拝の構成要素のひとつとして礼拝式のなかに組み入れられている、福音の自由な宣教をいう。
 聖書の朗読では、旧約聖書のほかに、使徒たちの手紙が会衆の前で読まれた。パウロの手紙は、あきらかに、当時の教会の礼拝で読まれることを期待している(コロサイ四・一六)。この聖書の朗読のあと、シナゴグ礼拝にならって、いま読まれたものを、会衆にわかりやすくあらためて書きなおされた、一種の注釈が読まれたらしい。

「聖書日課」
 日曜日また週日の礼拝の聖書朗読の箇所を定めたもの。一般に二種類、つまり使徒書と福音書とがあり、その際、使徒書には旧約聖書の箇所が含まれる。聖書日課による聖書朗読は、初代教会が、ユダヤ教から受け継いだ伝統のひとつである。
                                    

第3回

「信徒の交わり」

このような「教え」は、キリスト教徒たちの規則的で、しかも頻繁に開かれる集会でなされたのである。使徒言行録は、集会を「信徒の交わり」と呼んでいる。また初代教会の集まりを「集会(エクレシア)」(使七・三八)とも呼んでいる。それは自分たちの集まりを、出エジプトのイスラエル人たちが、荒野でまもった「集会」になぞらえることによって、それが新しく神によって選ばれた者たちの集いであることを示そうとしたのである。  それでは「信徒の交わり」は、どのような特長をあらわしているのであろうか。それは次に述べる、初代教会の礼拝の、いろいろな構成要素のなかで、具体的に明らかにされているのであるが、まとめてみると、共同性、日常性、多様性、そして、そのすべての根本にあるキリストの交わりの神秘、の四点であると考える。

初代教会の信徒たちが、神殿やシナゴグ礼拝に出席したばかりでなく、信徒個人の家に集って、集会を持ったことは(使二・四六、一二・一二、一六・四〇、二〇・九、1コリ一六・一九)、その「信徒の交わり」がいかに緊密であったかを示す証拠でもある。また彼らは週日しばしば、夕方、食事の前後に集まり、安息日は(多分安息日の礼拝のあと)特別にキリスト教徒だけ集まって夜を徹して語りあった。時代が少しあとになると、日曜日の早朝、あるいは午前に集まって、集会を持つようになる。これは、初代教会の「信徒の交わり」の共同性、日常性、そして多様性のあらわれとみることができよう。しかしこの「信徒の交わり」の根本は、まず第一に、信徒相互の協力や協調にあるのではなく、復活のキリストの臨在と交わりという神秘にある。ふたりまたは三人がキリストの名によって集まっている所では、それがいつ、またどこであっても、キリストがそこに来られ(マタイ一八・二〇)、父とみ子イエス・キリストとの交わりに(1ヨハネ一・三)私たちを招き、あずからせるのである。だから私たちは、初代教会の「信徒の交わり」の、豊かな共同性、日常性、多様性の特長にもかかわらず、キリストの臨在と交わりという、神秘を決して見逃してはならない。

J・ジェリノーの意見をご紹介したい。彼によれば、礼拝に仕える者は、教職であれ、オルガニストであれ、誰でも、礼拝の会衆にたいしてだけではなく、礼拝会衆の「交わり」に仕えるのでなくてはならないと主張する。その際、会衆が、性別、年令、教育、環境、家庭など、さまざまの点で異なっている少数派グループ(マイノリティ)の集まりであることを認識する必要がある。そしてそのようなグループの集まりである礼拝会衆のもっている豊かな可能性と限界、特長や短所などをよくみきわめた上で、礼拝に仕えるための準備をすべきであると。
もし礼拝を、ただ機械のように、会衆の交わりとはなんの関係もなくすすめるとするならば、それは退屈きわまりないものであるばかりではなく、キリスト教の礼拝の本質にも反する。すべての人びとのための礼拝と言いながら、実際は誰のためでもない。会衆の交わりに役立たないものとなる恐れがあると彼は警告する。

「パンさき」

「パソさき」とは、初代教会がその当初から、イエスによって定められた儀式「主の晩餐」の別名である。この「パンさき」の式は、共同でまもる食事との密接な関連のなかで行われた。コリント人への第一の手紙一一章二三節以下によれば、キリスト教徒たちの集会での食事は、まず「パンさき」の式、つぎに会食があり、そのあと「祝福の杯」の式があった。
使徒パウロによれば、「パンさき」の式は、@感謝(二三ー二四)、Aパンさき(二四)、B説明(二四)、Cすすめすすめ(二四)、そして食事があり、終りに杯の式として同じょうに、@感謝(二五)、A説明(二五)、Bすすめ(二五)からなる。

使徒パウロは、この「パンさき」の秩序と意義とを、彼のエルサレム滞在の時に学んだのであり、その伝統は、イエスご自身にまでさかのぼることができるとしている(1コリント一一・二三)。

「パンさき」が、その式の中でもたれる「杯」の式とともに、ユダヤ教の「過越の食事」を模範としていることはあぎらかである。しかしながら、初代教会の「パンさき」は、週日に、信徒個人の家々で、夕食とともに守られたのに対し、後者の「過越の食事」は一年に一度である。それ故、「パンさき」と「過越の食事」とは、その当初から、まったく分離したものであったに違いない。またパウロは、エルサレム以外に、アラビヤやダマスコに滞在したことがあるので(ガラテヤ一・一七)、前述した「パンさき」は、エルサレムの伝統とは違ったものではないかと主張する学者がある。D・クルマンは『ディダケー』(後述)にある伝統を、より古いものと考えている。

この「パンさき」は、初代教会の「信徒の交わり」の中心であって、「パンさき」の集まりこそ、キリスト教徒たちにとって、神の住みたもう新しい神殿であり(1ペテロ二・五)、その際キリストの臨在と、キリストとの交わりとを、「心の腰に帯を締め、身を慎」んで、いささかも疑わずに待ち望んだのである(1ペテロ一・一三)。
「パンさき」に対して、前述した「教え」はシナゴグ礼拝で、そして日ごとの共同の祈りは、神殿で、キリスト教徒たちは忠実にまもったのであるが、そのことは「教え」や「祈り」の重要性を少しもそこなうものではなかった。ところが、紀元七〇年のエルサレム神殿が破壊された後は、従来の神殿での祈りが、キリスト教徒の集会の中に、組み入れられることになる。さらに彼らが、ユダヤ教徒たちから迫害を受け、シナゴグでの礼拝を許されなくなると、シナゴグ礼拝での「聖書朗読」「説教」などを、ふたたび従来の集会にいれるかわりに、日曜日の朝に移して、この礼拝に「パンさき」を、「祈り」とともに加えたのではないかと考えられている。
この日曜日の朝の礼拝の開設にあたっては、キリストが「第八日目」、すなわち日曜日の朝、復活されたということに、その理由を求めることができよう。またキリストは「世の光」であり、「光の日」としての日曜日を、キリストを讃える礼拝をもって始めることはまことにふさわしいことであったに違いない。

「洗礼」

初代教会の「洗礼」の式は、@教理の教育、A洗礼を受けるのに、本人がさしっかえがあるかどうかをあきらかにするための試問、B信仰告白、そしてC洗礼者は、受洗志願者とともに水に入り、キリストの名を呼んで、洗礼志願者を水に沈めるか、あるいは水で洗う。D水から一緒にあがり、E受洗者の上に手を置いて祈り、F洗礼の証人となった人たちの間に受洗者を立たせる(1テモテ六・一二)から成りたっている。

人は自分ひとりでキリスト教徒になることはできない。「洗礼をさずける人」と「洗礼の証人」が必要である(洗礼の共同体)。洗礼の際に用いるものは、「水」または「流水」である(日常性)。そして洗礼はキリストによって(ロマ六・三)、あるいは主イエスの名によって(使徒八・一六)行われるのは、人は洗礼によって「キリストとともに葬られ、同時に、キリストを死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされ」るからである(コロサイ二・一二、ロマ六・四)(キリストの交わりの神秘)。



カタコンベ(地下礼拝堂)入口 第2世紀


第4回

「使徒後および初期力トリック教会の礼拝と祈り」

紀元100から300年までの、いわゆる使徒後、および初期カトリック教会の礼拝と祈りとを概観するためには、その背景となるこの時期の教会の歴史をふりかえってみなければならない。

これについての詳細は荒井献編集の「使徒教父文書」・聖書の世界・別巻4・新約U・講談社版(一九七四年)のなかで、荒井氏が(九頁以下で)のべられている。歴史的に重要と思われるものをひろえば、
@キリスト教とユダヤ人ないしユダヤ教との関係、
Aキリスト教とローマ帝国との関係である。

 @の点で、キリスト教は、紀元132−135年の「バルコクバの乱」ーユダヤ人の対ローマ闘争―をきっかけに、ユダヤ教から次第にはなれてゆき、キリスト教としての独自の道を歩みはじめる。
Aについては、キリスト教は、ローマ帝国の迫害にたいして殉教をもって信徒の自由を守り、また異端ともはげしく戦う。キリスト教はこのような状況のなかで、その伝統的な正しい信仰を守りぬくため、「信仰告白」を確立する。

私たちの「使徒信条」の原型といわれる「古ローマ信条」は、紀元二世紀末にできたのであるが、それは教会が、このような伝統的な信仰を守るための努力のあらわれである。この同じ努力は、この時代、教会が、初代教会の礼拝の根本を正しく受けつぎ、さまざまな状況にそくしてこれを整備してゆくことのなかにもみることができる。

使徒後および初期カトリック教会は、初代教会から、「み言葉」と「洗礼」と「聖餐」という、礼拝の三つの根本要素を確実に受けついだ。そしてこの根本要素は、この三〇〇年を通じて変らなかったということは、私たちにとって大きな驚きである。ただそれぞれの要素は、たとえば「み言葉」は「説教」「祈り」「うた」を、「洗礼」は「按手」「祝福」「断食」「塗油」「罪の告白」を、「聖餐」は「感謝の祈り」を発展させたのである。またその解釈や理論においては、種々の立場があった。

教会の礼拝が「み言葉」と「洗礼」と「聖餐」という根本において、統一が保たれたということは注目にあたいする。この時期は、キリスト教は地中海岸沿岸の、ローマ帝国の領土のすみずみに、急速にひろまった。しかしその礼拝は、どこの場所でも、手リスト教徒にとっては、なじみのあるものであったのである。ヒエロポリスのアベルキオスの墓碑には、キリスト教の礼拝は、どこでも根本的な相違はなかったと記されている。当時の教会の代表的人物であったユスティノス、テルトゥリアヌス、キプリアヌス、イレナイオス、オリゲネス、ヒッポリュトス、またグノーシス派との間にも、洗礼や聖餐について、はっきりとした一致点が見出だされる。

この時代の教会の礼拝と祈りを知るための重要な文献としては、@クレメンスの第一の手紙、Aディダケー、?殉教者ユスティノスの第一弁証論、Cヒッポリュトスの「使徒的伝承」などがある。

「クレメンスの第{の手紙」ローマの主教クレメンスが紀元九五ー九六年頃、コリント教会に送った手紙。

「ディダケー」、「十二使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓」が正式の標題。紀元一世紀末、ないし二世紀初頭、異邦人キリスト教徒のため、教会の秩序について記したもので、教理問答のあと、洗礼、聖餐、断食と祈りについての指示がある。
「殉教者ユスティノスの第一護教論」、一五五年頃に書かれ、当時のキリスト教に帰せられたさまざまの批難を弁護し、キリスト教徒の生活と信仰と礼拝について述べている。

「ヒッポリュトスの使徒的伝承」、著者はローマの長老の中で最も重要な人物である。使徒からの伝承として伝わっており、しかもローマですでに用いられている礼拝の秩序について記している。紀元二二〇年頃のもの。

一、「み言葉」

それでは、これらの文献を通して示される当時の教会の礼拝を概観してみょう。

「説教」ディダケー四章で、キリスト教徒は集会に集まり、聖なるみ言葉を聞く。人はこのみ言葉を語る人を憶えなければならないことをすすめている。

「わが子よ。あなたに神の言葉を語る人を日夜憶え(ヘブル一三・七)、その人を主のように尊敬しなさい。主のことについて語られるところ、そこに主がおられるからである。」(荒井献編・前掲書二一)

イエスのみ言葉を私たちが忘れないようにと、クレメンス第一の手紙は警告している。

特に、主イエスが柔和と忍耐を教えて語られたそのお言葉を忘れないでいよう。彼はこう言われた、「君たちが憐みを受けるように、君たちも憐み深くあれ。ひとを許せ、君たちが許されるためだ。君たちが行う通りに、君たちは行ない返される。君たちが与える通りに、君たちは与えられよう。君たちが裁く通りに、君たちは裁かれよう。君たちが親切にする通りに、君たちは親切にされるだろう。君たちが測るそのはかりで君たちは測られるであろう……。」(前掲書六四)

f
「教会教育」受洗志願者たちの準備としての教会教育(カテケシス)は、きわめて古い時代から教会に存在しており、しかも非常に重要視された。ユスティノスの第一弁証論では、次のように述べられている。

「告知された真理を会得し、信じ、この真理に従って生きることを約束した人たちは、断食をして神に祈り、罪の赦しを乞うよう教えられる」(61・2)(J・L・ロジエ編・キリスト教史・第一巻・一五二)

つまり洗礼を受けるためには、人は二つの段階を経なけれぽならないのであって、まずカテケシスを受け、キリスト教徒としての生き方を学び、それに生きることを決意した人は次の段階、つまり断食と祈りを始めとする洗礼の直接の準備に入るのである。

この第一段階のカテケシスの内容は、キリスト教の教義と道徳とである。教義のカテケシスは、その主要点が「信仰告白」として定式化された。前述したように今日の「使徒信条」は二世紀末の「古ローマ信条」の発展したものであり、さらにその「古ローマ信条」の原型は、「イグナティオスの手紙―トラレスのキリスト者へー」のなかに見出だされる。

「・・・イエスはダビデの裔(すえ)、マリャから真実に生まれ、食べ飲み、ポンティウス・ピラトゥスのもとに真実に追害され、真実に十字架につけられて死んだのです。それは天と地と地下の諸霊の眼前で起ったことなのです。彼はまた真実に死者の中から甦ったのです。彼の父が甦らせたのです。彼の父は同じように私達彼を信ずる者をも、キリスト・イエスにあって復活させるでしょう(2コリント四・一四)。キリストなしに私たちには真の生命(ロマ八・一一)はないのです(九)。(前掲書・一二ニー一二三)

道徳に関するカテケシスの例としては、ディダケー一章以下の「二つの道」の教えがあげられる。(前掲書・一九以下参照のこと)。






 カタコンベの壁面に描かれた魚と十字架の鎖のシンボル 2世紀



二、洗礼

カテケシスを終了した受洗志願者は、洗礼のための直接の準備に入る。受洗の前日、あるいはその二日前から洗礼をさずける者と有志と一緒に断食に入る。当日は「流れる水」、または水のある所におもむき、洗礼者によって「父と子と聖霊の名をもって」、三度水の中に沈められる。水がない場合は、「父と子と聖霊の名をもって」三度、頭に水をそそがれる。この洗礼の様式の点では、ディダゲーとユスティノスの第→弁証論は根本的に一致している。
「ヘルマスの牧者」(著者はローマ市民で、その著作年代は二世紀中期)によれば、洗礼は「封印」であって、人はこの封印を受けて始めて生命を受けることができるのであると。

「なぜなら人間は、神の<子>の名を受ける以前には、死人なのだから。封印を受けると、死の相を捨て去り、再び命を受ける。だから封印は水である。人は死人として水に入り、生ける者として水から上る。彼らにもこの封印が宣教され、彼らは、神の国に入るために、これを受けたのである」。(前掲書・二九四)

水からあがった受洗者は、兄弟姉妹たちの待機している所に導かれる。そこで彼らは受洗者のため、また人びとのためにとりなしの祈りをささげる。祈りのあと、互いに挨拶をかわし、それから聖餐式に参加するのである。



第5回

三、聖餐式

ディダケー(十二使徒の教え、前回参照)の第九と第一〇章には、コリント人への第1の手紙第9と第10章の「主の晩餐」とはやや異なる、聖餐式の様式が述べられている。

「聖餐については、次のように感謝しなさい。最初に杯について。『わたしたちの父よ。あなたが、あなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた、あなたの僕ダビデの聖なるぶどうの木について、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠に(ありますように)』。
パンについて。『わたしたちの父よ。あなたがあなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた生命と知識とについて、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠に(ありますように)』

満腹した後、次のように祈りなさい。
『聖なる父よ。あなたがわたしたちの心の中にお住まわせになったあなたの聖なるみ名と、あなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた知識と信仰と不死とについて、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠に(ありますように)。………恵みが来ますように。………ダビデの神にホサナ(マタイニ一・九)。聖なる人は来るように。聖でない人は悔い改めなさい。マラナ・タ(1コリント一六・二二)、アーメン』。・・・・」L(荒井献編・使徒教父文書・二四)

ディダケーの言及している聖餐式は、杯の式・感謝の祈りーパンさきの式・感謝の祈りー共同の食事―食事後の祈りーりなしの祈りーマラナ・ターーアーメンという構造を示している。特長としてコリント第一の手紙一のような、制定語(二三ー二五節)がここにはない。「制定蕩開」の朗読がない理由は、もし人びとが、共同の食事全体を、制定話が述べている精神をもって守るならば、とくにそれを朗読する必要がないからではなかろうかという意見がある(L・フェント)。

食後の祈り、とりなしの祈りに続いて「マラナ・タ」(われらの主よ、きたりませ。ー主よ、来て下さい《共同訳》)があることにも注目すべきであろう。

L・フヱントは、この「マラナ・タ」の所で、当時、聖餐の分与が行われたのではないかと考えている。会衆はここで、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)の約束にしたがって、復活の主が来られて、彼らの間に現臨されることを信じ、また終末における主の再臨を祈り願う。O・クルマンはこの「マラナ・タ」の祈りに、原始キリスト教の独自性をみている。ディダケーにある他の祈りは、ユダヤ教の中に、その類似の例を見出すことができるからである。

ディダケーで、聖餐式が洗礼を授けられた入たちにのみに許されていたことは、疑問の余地はまったくない。
「主の名によって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである(マタイ七・六)。(上掲書二四)

ディダケーの第一四章では、日曜日の「パンさき」のことが言及されている。「主の日毎に集まって、あなたがたの供え物が清くあるよう、先ずあなたがたの罪過を告白した上で、パンをさき、感謝を献げなさい。その友人と争っているものはすべて、和解するまでは、あなたがたと一緒に集まってはならない。それは、あなたがたの供え物が汚されないためである(マタイ五・二三、二四)。」(上掲書二六)

「主の日ごとに集まって」というのであるから、この日曜日の集まり(早朝または夕)は、普段の、週日の集会とは区別されていることがわかる。「主の日」は、初代のキリスト教徒にとってキリストの復活日である。私たちが現在まもるように、一年に一回の復活日・イースターではなくして、毎日曜日が復活日なのである。したがって、キリスト復活日に持たれるこの集会は、教会共同体全体として、重要な意義を持っていることは当然であろう。とくに使徒後、および初期カトリック教会時代に、キリスト教徒とユダヤ教徒との対立が明確になり、キリスト教徒は会堂シナゴグから追放という扱いを受けるようになれば、この日曜日の集まりは、この共同体にとって、文字通り生死にかかわるものとなったことは、容易に想像できる。

ディダケーの一四章で、「パンさき」と「感謝」のまえに、これに参加する者たちが、神の前に清い供物となるため、「罪の告白」をなし、隣入との「和解」をすることをすすめているのは、この集まりの共同体的性格をよく物語る。同時にこの集まりが、たんに聖餐式の場合だけではないこと、むしろ聖餐式は、「罪の告白」や「和解と執り成しの祈り」とともに守られるべきであることを教えている点、注目に値する。というのは、たんに従来の週日の夕に守られていた聖餐式が、日曜日の朝に移されただけではなく、むしろ、キリスト教徒たちが、シナゴグより追放された頃から、日曜日の朝に、「聖書の朗読」と「説教」のための集まりが設けられ、これに「パンさき=聖餐式」が加えられたと考えられるからである。ディダケーの記事は、このことを示唆しているようにみえる。もしこの経過が、歴史的にも正しいものであるとすれば、エルサレム神殿の破壊後、キリスト教徒が伝統的に守っていた「日ごとの祈り」が、彼らの日曜日と週日の集会にとりいれられた過程も、同様であったことが想像される。すなわち「日ごとの祈り」は、「聖書の朗読」と「説教」の枠内に組みいれられたのである。

このようにして「聖書の朗読」―「説教」―「祈り」ー「(洗礼)聖餐式」というこの基本構造と順序が成立した。この基本構造が、いかにキリスト教礼拝にとって根本的なものであるかは、その要素のひとつだけとりあげて、はたして礼拝が成立するかどうかを考えてみることによっても、よく理解できると思う。まさにひとつだけではキリスト教の礼拝は成立しないのである。したがって時折耳にする「聖餐礼拝(説教がない)」、あるいは讃美歌または教会音楽による礼拝、市民クリスマス礼拝(いずれも礼拝の基本構造があいまいな場合が少なくない)といったものの持つ問題性は、ここらあたりにあるのではなかろうか。

四、日曜日の礼拝について

殉教者ユスティノスの「第一弁証論」(前回参照)によれば、当時のローマでの(あるいはギリシャでの)教会の日曜礼拝の様子を、かなり正確につかむことができる。
それによると、日曜日の礼拝では、まず福音(使徒たちの覚え書など)や預言者などの聖なる書物が朗読され、つぎに説教かあって、読まれた教えに従うように「すすめ」がある。そのあと会員は起立して、ともに祈りをささげる。全員で共同の祈りを祈るか、あるいは司式者がする祈りを、少しずつ会衆がくり返す。祈りのあと、パンとぶどう酒と水とが運びこまれる。そして司式者は祈りと感謝とをささげ、会衆はこれにアーメンと答える。そして聖餐が出席者にくばられる。欠席した人びとには執事がそれを届ける。献金が集められ、司会者のそばに置かれる。
ユスティノスの述べている日曜日の礼拝は、このようにディダケーにくらべて、構造的にも、よりしっかりしていて、共同体の礼拝としての成長と発展をよく示しているように思う。聖書朗読も説教も、祈りと奉献と聖餐式も、また献金もすべてその場所を得て、不必要なくり返しがない。司会者と会衆との担当する部分もはっきりしていて、「起立」などの細かい指示もある。そして前述したように、「聖書朗読」ー「説教」ー「祈り」-「聖餐式」という根本構造が明確である。問題は、従来から聖餐式とともに守られた「共同の食事」はどうなったかである。このユスティノスの礼拝の「聖餐式」では、「共同の食事」は、切り離されていて存在していない。この「聖餐式」と「共同の食事」との分離は、さきのディダケーの一四章の、日曜日の「パンさき」にすでにみることができるとする意見もある。

このように、使徒後、初期カトリック教会は、洗礼、み言葉、聖餐式という礼拝の根本について、共通なものを維持してきたのであるが、その根本と実際についての解釈については、種々の立場があった。
@非神秘化 これは、あらゆる儀式、犠牲の観念、また礼典主義からの脱却をはかろうとする立場である。預言者の精神をもって、ユダヤ教や異邦宗教の犠牲の礼拝を批難し、すべてを祈祷と、正しい倫理的生活とに還元する。
A教理化 キリスト教礼拝の根本を体得し、実践して、各自の教理を体系化する立場である。彼らの絶えず念頭から去らないテーマは、異邦宗教の礼拝の根本には、その誤りにもかかわらず、神を慕うあつい願望がある。キリスト教の礼拝は、この願望を完全にみたすものである。彼らは礼拝より出発し、また礼拝にたえずたち返った。
B実利追求の立場、すべて礼拝について、それは私たちにとってどのような利益を与えるかを問う。洗礼、按手礼、聖餐式、告解、説教など、すべては、それがもたらす現実の利益が関心の対象となる。これはもしかするとある人々にとっては、魅力のある考え方であるかもしれないが、魔術的、呪術的なものを求める傾向を助長する点で、非常に危険な立場であったことであろう。



第六回


四世紀より中世末までの教会の礼拝と祈り

 紀元三一三年、キリスト教はローマ帝国の国教となる。今までのように、各人の自由な意志から教会に集まる自由教会から、ローマ国民であれば、誰でも強制的にその会員となる国民教会への転換は、キリスト教の礼拝と祈りの生活に、根本的な影響を与えたことはいうまでもない。

 ・キリスト教の象徴が、はじめて通貨に刻印される(紀元三一五年)。「十字  架」が、ローマ帝国のシンボルの「太陽」につけくわえられる(三二〇年)。  異教のしるしが貨幣から姿を消す(三二三年)。
 ・日曜日の労働について制限する、最初の法律が発布される(三二一年)。
 ・礼拝の場所が増加する。ローマではバジリカ式の会堂が四〇以上。(聖   ペテロ・パジリカー現在のヴァティカンの聖ペテロ・大聖堂の前身。三二   六年)。ローマ皇帝とその家族によって、壮大な建物が礼拝堂として寄贈  されたり、または新しく建築される。
 ・コンスタンティヌス大帝自身、洗礼を受け(三三七年)、その子女にキリス  ト教教育をほどこす。臣下たちもそれにならう。・キリスト教徒が、ローマ  帝国の組織の要職につくようになる。ローマ執政官職(三二三年)、市長  官(三二五年)、行政長官(三二九年)など。
 ・ローマ神殿での売春制度が、キリスト教によって追放される(三五〇    年)。
 ・ローマの「不滅の太陽」の誕生日、「冬至」の祭りであった十二月二五日  が、かわりにクリスとなる(三五四年)。
 ・ウルフィラによる聖書のゴート語への翻訳(三五〇年)(ラテン語聖書は、   すでに一九五年にイタラ訳がある。礼拝用語は、ローマでは四世紀ま   で、ギリシア語であった。)
 ・詩篇調による讃歌の新しい歌い方が、ミラノの司教アンブロシウスによっ  て導入される(三八六年)。

 これからでもわかるように、キリスト教会は、紀元三一三年を契機として、その伝道と生活とを妨げていた外的な障害が除かれ、全く予想もつかなかった、新しい局面に入る。その結果、キリスト教への改宗者は増加し、伝道は飛躍的に発展し、キリスト教会堂はいたるところで建設され、礼拝の会衆は増加し、神学活動は活発化する。かずかずの迫害と苦難、とくにその直前に行われたディオクレティアヌスの組織的迫害(三〇三年―三〇四年)にたいしても、決して棄教することなく、これを立派に耐えぬいたキリスト教徒たちにとって、この大転換を迎えることは、いかに大きな喜びであったであろうか。

 しかしながら外部の障害はとり除かれたけれども、内部の、とくに異端によってこうむったキリスト教会の痛手は、まだ癒されてはおらず、その修復と教会の新しい形成のためには、教会はさらに多くの忍耐と努力とを必要とした。
 
 第一回コンスタンティノポリス教会公会議(三八一年)はその努力のあらわれである。同公会議であきらかにされた三位一体の教義は、コンスタンティノポリス信仰告白(いわゆるニケヤーコンスタンティノポリス信条 三二五年)に、その永続的な表現を見出す。すなわち、神はイエス・キリストをとおして、はじめてご自身を決定的に啓示せられ、世界の救いのわざを行われるゆえに、さらに神はただ聖霊をとおして、私たちのための救いの啓示を、活きた現実としたもうがゆえに、神の存在は、父・子・聖霊の、三位一体としてとらえられねばならないとしている。

 この三位一体の教義は、哲学的表現にもかかわらず、抽象的な思考の産物ではない。それは迫害時代を生き抜いて来た教会の、信仰と希望の告白である。すなわち、ご自身をイエス・キリストによって啓示された神は、歴史の中で働きたもう方、人類にたいして恵みをもって出会われる方であり、その神の力を、私たちは聖霊によって経験していることを告白しているのである。
 そればかりではなく、聖霊の経験から私たちは、未来が、神によって創造されること、しかも神は、キリストにある救いの啓示と、聖霊の現実にしたがって、未来を創造されるという望みをも同時に表現している。

 この公会議がこのように聖霊論を教義化したのは、異端によって手ひどい痛手をこうむった教会を復興し、教会の再建に新しく着手するためには、なによりも聖霊の持つ多様な働きという根本を、自覚する必要があることを強調したいためである。幸いなことに、コンスタンティノポリス公会議のこの結論は、一般の賛同を得、それ以後の時代にも受けいれられることができた。

 紀元四世紀から、中世にむかって歩みだす教会の礼拝と祈りの歴史も、「私たちは、内に神のみ霊を宿している」(ロマ八・九)という信念のもとにあった(L・フエント)。すくなくとも四世紀の礼拝は、初代教会より三世紀までの礼拝式を受け継ぎ、廃止せず、それを発展させ、また反対に簡潔にして、その根本を強化しようと努力したのである。さらに使徒的な礼拝伝統を探究する動きが活発化し、かすかずの古い伝統や、司教の編纂した礼拝式が掘り起され、研究される。
 
 その点で四世紀は広範な礼拝改革の世紀であったのである。そしてその改革の動きは、七世紀まで続くことになる。


第7回

「ローマ帝国初期の礼拝」

一、四世紀の礼拝改革
ローマ皇帝の権威のもとに、国教会として公認された四世紀の教会は、前述したように、三世紀までの伝統的な礼拝様式を廃棄せず、その拡張と整備という、慎重で地味な改革に着手したのである。この礼拝改革は、少数派の宗教として、幾度もきびしい迫害をくぐりぬけて来たキリスト教会が、突如として「皇帝の宗教」、同時に「大衆の宗教」となった事についての、教会自身の責任ある対応と努力のあらわれとみることができる。しかしその改革は、当時の伝道活動と同様に、組織化されたヒエラルキーの権威によって上から指導されるものではなく、自然発生的であり、きわめて地域的、個別的、かつ個人的な(教会教父、神学者、司教たちによる創意と工夫にもとづくものであった。したがって改革の総合的な完成は、四世紀以降、中世時代を待たねばならないのであり、その点では、教会制度や、あるいは教会の社会福祉事業などの発展と、軌をひとつにするものであった。

F・ハイラーによれば、礼拝の広範囲におたる改革は次の通りである。

@古代教会よりの神秘的な祭儀は、色彩豊かで、変化のある、種々の儀礼でかこまれる。部分的には、それまで衰退を続けていた古来の式が廃棄され、長大な祈祷文もカットされて、礼拝時間の短縮化がはかられる。

A教義的な観点から、礼拝の様式が改訂される。

B改訂された礼拝式は、教会の創設老である使徒、教父、司教、また神学者たちの名前と権威のもとに公表される。

@の意味は、聖餐式にたいする準備としての「主の祈り」、「平和の接吻」(後述)、聖書朗読に先立つ入祭文(つまり礼拝の開始の部分)、聖書朗読のあいだに歌われる詩編唱などをさすのであろう。またローマ皇帝の宮廷儀式から直接とられた行列行進、随行、跪くこと、はきもの、肩掛け、ろうそくの使用などがこれに含まれる。

このように四世紀の礼拝の改革が、自然発生的、地域的、かつ個別的、個人的になされた結果、礼拝式の統一という努力のある半面で、アンテオケ、アレキサンドリア、コンスタンチノープル、エルサレム、ローマ、ミラノなどの諸都市とその司教区には、それぞれ固有の礼拝伝統を持ち、各自の礼拝式を発展させ、その普及に努力することになる。その結果、ローマ帝国の東方と西方との教会の間に、礼拝についても、顕著な相異をもたらすこととなった。

二、クレメンスの礼拝式(「使徒教憲」第八巻)

東方教会の礼拝式としては、少なくとも四種類のものが存在した。それは次の通りである。

@エジプト礼拝式。資料・デル・バリゼーのパピルス・司教セラピオンの祈祷書。この他、首都アレキサンドリアには、固有の「マルコ礼拝式」。

Aシリア礼拝式、「使徒教憲」第八巻所載の、クレメンス礼拝式(後述)。
Bエルサレム礼拝式、「ヤコブ礼拝式」と呼ばれるもの。九世紀の改訂本のみ現存している。
Cビザンチン礼拝式。今日の東方正教会(ギリシア正教会、ハリストス正教会の名で知られている)の礼拝式の根本をなすもの。

西方教会の礼拝式は、四世紀以降をも含めて四〇〇以上にものぼる種々のタイプがあったが、大別すれば、ガリアとローマの礼拝式の二つに分類することができる。
@ガリア礼拝式。これにはメロヴィング王朝で成立したガリア礼拝式、アイルランドと英国のケルト礼拝式、スペインのモサラブ礼拝式、今日もなお行われているミラノ礼拝式を含む。

Aローマ礼拝式。当初はローマの司教区、あるいはその影響下にある地域に限定して用いられたもの。その起源としては三つの礼拝書(司式司祭のためのもの、サクラメンタリウムと呼ばれる)が挙げられる。
a)レオ教皇(四四〇ー四六一)礼拝書。紀元六〇〇年(あるいは五四〇年頃)書かれた。筆写本がある。

b)ジュラジオ礼拝書。八世紀の筆写本が現存。実際にジュラジオ教皇(四九ニー四九六)の手になると思われるものは、全体の構造といくつかの式文のみ。

c)グレゴリオ教皇(五九〇―六〇四)礼拝書。現存している写本は、九世紀以降の日付のあるものばかりであるが、その中にはより古い礼拝式も含まれている。

「クレメンスの礼拝式」

これからとりあげる「クレメンスの礼拝式」は、第四世紀、シリアのアンテオケで成立したものとみられ、東方教会初期の礼拝式の代表的なもののひとつであって、「ヒッポリユトスの使徒的伝承」(紀元二二〇年頃)と、東方正教会の礼拝式とを結ぶ橋渡しの役目をはたすものである。

クレメンスの礼拝式は、第一部、洗礼志願者の礼拝(信者・未信者ともに参加が許される)と、第二部、信者のための礼拝(受洗者のみ)の二部からなっている。

「第一部洗礼志願者の礼拝」

@律法、予言、使徒書、および福音の朗読。その朗読の間に、会衆は詩篇を歌う。

A司教の挨拶と説教。
司教「わが主イエス.キリストの恵みが、……あなたがたすべてにありますように」
会衆「またあなたの霊とともにありますように」(司教の言葉への同意をあらわす)。
この説教の前の司教の挨拶は、「使徒教憲」ではじめて登場したもののひとつである。
説教として司教は、奨めまたは教えを述べる。

B祈り。助祭「用のない者、不信仰者は立ち去りなさい」。
そして「洗礼志願者たちよ、祈りましょう」。

助祭は祈りのテーマを告げ、会衆、とくに児童たちは「キリエ・エレイソン」と答える。
この連祷(リタニー)の間、志願者たちはひざまずく。

次に助祭「洗礼志願者たちよ、立ちなさい」。そして司教の祝福、会衆「アーメン。皆さんに平安がありますように」……。病人、受洗直前の人たち、ざんげ者なども同様に祈りのうちに覚えられ、ここで未信者(洗礼志願者も)はすべて退場する。

次に信者のための祈りで、
同じく助祭が、世界と教会の一致と福祉のため、公同・使徒的教会のため、司教区と司教のため、長老、助祭、副助祭、朗読者、歌唱者、神に仕える乙女、寡婦、親を失った子供たち、夫婦、宦官、修道者、慈善者、ささげもの、新受洗者、病人、航海者、旅行者、捕われている人、どれい、敵対する人、憎んでいる者、追害者、過ちを犯した人、未成年者、そして私たちと私たちの同信の人たちのために祈る。

助祭「立ちましょう」。
司教の祈りと頌栄「聖霊による神の栄光と誉れとによって」。

「第二部 信者の礼拝(信者のみ参加を許される)」


C平和の接吻・

助祭「神を讃えましょう」。
司教「神の平安が皆さんのすべての上にありますように」。
会衆「またあなたの霊とともにありますように」。
助祭「清い愛をもって互いに挨拶をかわしましょう」。

D副助祭が手を洗う水を司教の許に持って来る。

E助祭「洗礼志願老、未受洗者、未信者、異端者、人を憎む老、偽善者……は立ち去りなさい。私たちは恐れとおののきをもって主のみ前に立ちましょう。
そこで助祭たちは献げもの(パンとぶどう酒を含む)を運んで聖壇に置く。

F感謝の祈り。長老たちは司教の左右に立ち、沈黙のままで祈る。
司教は式服をまとい、聖壇の前に進み、額に十字のしるしをしたのちに、

「全世界の支配者である神の恵みと、わが主イエス・キリストの愛と、聖霊の交わりとが、あなたがたすべての上にありますように」。
会衆「あなたの霊とともにありますように」。
司教「心を高くあげなさい」
会衆「主にむかってあげています」
司教「主に感謝しましょう」
会衆「それはなすべきこと、また正しいことです」……。

さらに、
a)神への讃美と、み子の誕生について。
b)創造と世界について神への感謝。
c)人類について神への感謝。
d)神の恵みとしての旧約の歴史、ユジプトよりの解放。

e)トリスハギオン・
司教「私たちはみ使いと、み使いのかしら、および天の全会衆……とともにあなたを礼拝します。ケルビムと六つの翼を持つセラピムは、その二つをもって足をおおい、二つをもって顔をおおい、二つをもって飛びかけりながら言う・・・。」

会衆「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」

f)キリストへの讃美。

g)新約聖書の歴史、キリストの昇天まで。

h)制定語・コリント1・一一章二三節以下を少しく拡大したもの。


i)アナムネーシス、「それゆえ、私たちはキリストの苦難と死、死者よりの復活と昇天、そして再臨とを覚えましょう……。」

j)エピクレーシス(献げものの上に聖霊がくだるよう祈る祈り)。

k)感謝の祈りの中でのとりなしの祈り。

司教は前述の「信者のための祈り」(第一部B)と同じように、いろいろな主題について祈る。

最後に三位一体の神への頌栄をもって終る。

さらに、
l)献げものについての助祭の連祷(リタニー)。
「神よ、どうかこの献げものを、キリストの執り成しをとおして、天にある聖壇のこうばしき香りとしてお受け下さい」。
また、
とりなしの祈りが続く。
教会員と国民のため、司教、長老、助祭、副助祭、ローマ皇帝と貴族、殉教者、信仰をもって世を去った者たち、天候と収穫のため、新受洗者、そしてお互いのため。

m)そして聖餐の陪餐となる。


第8回

二、クレメンスの礼拝式(続き)

第2部信者の礼拝

(1)感謝の祈り

(m)陪餐
助祭は言う。
「注目しなさい」。

司教、会衆にむかって
「聖なるものを聖なる人びとに」

(聖餐式への招きの言葉であるとともに、聖餐にあずかろうとするものは、まず自己を吟味するようにとの警告の言葉(ーコリ、11.28)。ディダケー(前述)10・6「誰でも潔いならば、前に進みなさい。もしそうでないなら、ざんげしなさい」)。

会衆はこれに答えて、
「ただひとりの聖なる方、ただひとりの主、父なる神の栄光のうちにいますイエス・キリストを、とこしえに讃えます。アーメン。」

(「人は誰も潔くはなく、またそれは人間の徳の結果でもない。私たちはただキリストから、キリストによって、その潔さのすべてを受ける。それは丁度、太陽の光のもとに置かれた多くの鏡のようなものである。すべての鏡は輝き、光を放っている。まるで多くの太陽であるかのようであるが、しかし本当に輝き光るものはただひとつである。このように、ただひとりの聖なる方は、多くの魂の中にあらわれ、信じる者たちに光をそそぎ、人々が潔さを持つものとされるのである。キリストこそただひとりの、潔く聖なるお方である」N・カバシラス)。

会衆は続けて
「いと高き所では神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人びとに平和があるように(グロリア)。ホサンナ、ダビデの子、主のみ名によって来られる方、私たちのうちにあらわれた主なる神に、祝福がありますように。いと高きところにホサナ」。

陪餐は、最初に司教、長老、助祭、副助祭、朗読者、歌唱者、修道者、婦人はまず奉仕女、神に仕える乙女、寡婦、児童、そして他の一般会衆の順序で行われる。

司教がパンを、助祭が杯をわたす。

パンの時に
「キリストの身体」、
陪餐者は「アーメン」と答え、

杯の際は「キリストの血、いのちの杯」、
陪餐者は「アーメン」と答える。

陪餐中は詩篇43篇が朗唱される。
陪餐が終り、朗唱がすむと助祭が
「キリストの尊い身体と血とにあずかった私たちは、感謝の祈りをささげましょう。……立ちあがりなさい。キリストの恵みによって、私たちを神のひとり児キリストに委ねましょう」。

そして司教の感謝の祈りがあり、
助祭「キリストによって神を拝し、神を讃美しましょう。」
司教の祝福の祈り、
そして助祭「平安のうちに行きなさい」。

以上のクレメンスの礼拝式と、それ以前用いられて・いたとみられるヒッポリュトスの礼拝式(後述)との間には、共通点があまり多くみられない。
第二部の感謝の祈り(ユーカリスティア)では、司教と会衆の応答(スルスム・コルダなど)ー序唱-制定語(ーコリ、11・23以下)ーアナムネーシスーエピクレーシスー陪餐という基本構造は両者ともに共通であるが、クレメンス礼拝式の序唱の部分(前述(7)a,b,c,d,は非常に長大で、旧約、新約をとおしての神の救いの全歴史を祈りつつ覚えている。この点については、いろいろな見解があるが、ひとつは編纂者が、当時の激動するきびしい状況の中で、礼拝式の模範として編纂したものであり、礼拝司式者のための手引きとしておかれているものではないかという意見がある(J・A・ユングマン)。
クレメンスの礼拝式で新しく登場し、ヒッポリュトスにないものは、さらにとりなしの祈り(前述 k、)、陪餐の形式(前述 m、グロリヤ・インエキセルシス(m)、ホサンナ(m)、終りの感謝の祈りと祝祷、そして司教・長老、助祭、副助祭、朗読者、歌唱者などの礼拝での務めが、明確に定められていることなどである。

この第四世紀、シリアの首都アンティオキヤで成立したクレメンスの礼拝式は、この世紀の終り頃までには、各地で実際に用いられるようになったとみられる。そしてすでに述べたように、これが東方正教会の礼拝式の基礎となった点で重要である。


三、ヒッポリュトスの礼拝式 (使徒的伝承)

ヒッポリュトスの「使徒的伝承」は、当時ローマですでに用いられている礼拝の秩序について記している点で重要であるが、その感謝式(ユーカリスティア)が、後世ローマ・カトリック教会のミサの奉献文(カノン)の模範となった点で、決定的な意義を持っている。西方教会の礼拝式のひとつの原点ともいうべきものであろう。

(第二次大戦後、あるいはそれ以前から、世界のキリスト教会、諸教派で、それぞれ独自に、あるいは相互に関連して、礼拝式の改訂が進められて来たが、期せずして、それぞれの改訂案が、このヒッポリェトスの感謝式にそったものとなったという興味深い報告がある。WCC(世界教会会議)のリマ礼拝式(たんなる式文ではない!)も、このヒッポリュトスによる所が多いといわれる<M・テユリアン>)。

感謝式 (信者のみ参加を許される)

(1)挨拶、
司教「主があなたがたとともにいますように」。
会衆「またあなたの霊とともにいますように」。
司教「心を高くあげなさい」。
会衆「主にむかってあげています」。
司教「主に感謝しましょう」。
会衆「それはただしく、なすべきことです」(スルスム・コルダ)。

(2)感謝の祈り(序唱)、
司教「神よ、私たちはあなたの愛する子、イエス・キリストをとおして、あなたに感謝をささげます。この終りの時に、あなたは主イエスを、救い主、あがない主、そして神のみ旨を伝える使者として、私たちにお送り下さいました。
主イエスは(根本において)あなたのみ言葉であります。すべてのものは、このみ言葉によって造られました。それは神のみ心にかなったものであります。
あなたは主イエスを処女の胎内に降し、主イエスは肉体をとって、聖霊と処女からお産れになり、神のみ子として(この世に)あらわれました。
主イエスはあなたのみ心を成就し、人びとをあなたの聖なる民とするために、(十字架の)苦しみの中で、み手をさしのべておられ、主イエスを信じる者を、苦しみのなかから救いだそうとされます。
主イエスが自らすすんで苦難に身を委ねられたのは、それによって死を滅ぼし、悪魔の鎖(くさり)をうち破り、地獄をふみにじり、正しい者を照らし、(キリストの国と悪魔の国との)境界を定め、復活を示されるためです」。

(3)制定語、「そこで主イエスはパンをとり、あなたに感謝して言われました。『取って食べなさい。これはあなたがたのためにさかれた私のからだである』。おなじように主イエスは杯をとって言われました。『これはあなたがたのために流された私の血である。飲むたびに、私の記念としてこのように行いなさい』」。

(4)アナムネーシス、「それゆえ主イエスの死と復活を記念して、私たちはパンとぶどう酒とをあなたにささげ、あなたが私たちを、あなたのみ前に立たせ、あなたに奉仕するにふさわしいものとして下さったことを、心から感謝いたします」。

(「私たちが、キリストを神にささげるのではない。キリストが私たちを(父なる神に)ささげてくださるのである。それゆえに、礼拝を犠牲と呼ぶことは可能であるし、また事実それは役にたつ。つまり、犠牲それ自身のためにではなく、犠牲において私たちがキリストによって、私たち自身を犠牲としてささげるからである。言いかえれば、私たちは、キリストの契約への堅い信仰によって、キリストに信頼し、神のみ前に私たち自身を、祈りと感謝、犠牲によって、ただキリストのみ名と、キリストのとりなしとをとおして、ささげるのである。
その際、私たちは主イエスこそが、天における神のみ前での、私たちの祭司であることを決して疑わない。キリストは私たちを受け入れて、私たち自身を、私たちの祈りと讃美とを、神にささげて下さる。そのために主イエ,スご自身が、天において私たちのために(その身体を)ささげておられるのである。……そして主イエスは、主とともに、私たちをも(神に)ささげられるのである(M・ルター:WA・W・369)

(5)エピクレーシス、
司教「ねがわくはどうか、あなたが聖霊を、潔き教会のささげ物に送り、聖餐にあずかるすべての聖徒をひとつとなし、彼らを聖霊でみたし、真理を信じる信仰を強めて下さるように。それゆえ私たちはあなたを讃美し、あなたのみ子イエス・キリストによって、あなたに栄光を帰します。
ほまれとさかえとが、聖なる教会において、父・子・聖霊に、今もまたとこしえにありますように」。


司教はパンをくばる時、他の資料(洗礼式)によれば
、「イエス・キリストの天のパン」と言い、陪餐者「アーメン」。
また杯の際は「キリストの血」。陪餐ρ者「アーメン」と答える。

0・カーゼルによれぽ、ヒポリュトスの感謝式は、全体が聖別の時であり、いわゆる「聖別の時」という問題はここにはない。ただ「制定語」「アナムネーシス」「エピクレーシス」には特別な強調点がおかれていることは事実であると述べている。



第9回

四、ヒッポリュトスの時祷(日ごとの祈り).
(使徒的伝承)

ヒュッポリュトスの「使徒的伝承」にある「感謝式」(ユーガリスティア)が、後のローマ・カトリック教会のミサ、ひいては現代の、エキュメニヵルな礼拝式運動の、ひとつの原点でもあることはすでに述べた。同時に注目すべきことは、「使徒的伝承」において、ヒッポリュトスが「祈り」を、非常に明確に秩序づけている点である。それはまずキリスト教徒の個人の祈りについて、そしてその最後では、教会での祈りについても言及している。

そもそも初代教会における共同の礼拝については、「感謝式」(ユーカリスティア)を除いては、確実な情報を私たちは得ていない。しばしば教会における共同の祈りの起源として、使徒言行録の記事(第三章など)がよく引用されるけれども、しかしそれは、個人または数人でなされる個人的な祈りの域を出るものではなく、教会の共同の祈りとしてみなすことはできないのである。

個人の祈りについては、「ディダケー」でも、「主の祈り」を日ごとに三回祈るようにすすめている。またアレキサンドリアのクレメンス、オリゲネス、テルトゥリァヌス、キプリアヌスなどが、第三時、第六時、第九時(午前九時、十二時、おおび午後三時に相当)の祈りの実践について述べている。しかしヒュッポリュトスの「使徒的伝承」の、これらの著者たちと著しく相異する点は、祈りが、個人的なものであれ、また教会での.共同の祈りであれ、教会秩序として、キリスト教徒に責任のあるものとしてとりあつかわれているのであって、たんなる勧告ではないという点にある。

そしてその根底には、当時のローマ教会の革新をめざして、個人の祈り、共同の祈りの体系化、秩序化、ひいては制度化を推し進める新しい教会革新運動が存在しているのである。

「使徒的伝承」は祈りについて、@まずすべてのキリスト教徒は、個人的に、毎日早朝、また午前九時と十二時、そして午後三時と、夜就寝する前、および真夜中に祈るように命じる。

「あなたがたは、にわとりが鳴く早朝時に、起きて祈るべきである。なぜならこの時刻に、イスラエルの子たちは、キリストを否んだからである。キリストを私たちは、信仰において認識したのであり、彼は永遠の光である。死人からの復活の際のキリストの出現を、日ごとに私たちは待ち望んでいる。」(三六・十四)。

「男女を問わずすべて」キリスト教徒たるものは、朝眠りより醒めたら、仕事を始める前に、まず手を清めてから、神に祈らねばならない。そのあと仕事にむかうべきでる」(三五・一)。

「もし家に留まるなら、あなたは昼の十二時に祈り、神を讃美しなさい。家の外にいるならば、その時聞に、あなたは心の中で神に祈りなさい。キリストはこの時刻に、十字架にかかられたからである。だから旧約聖書の律法は、犠牲のパンは、(つねに)昼の十二時に捧げられねばならないと命じている。完全なる小羊の模範と.しての、いたいけない小羊は犠牲として捧げられたのである。しかしキリストこそ、(真の)羊飼、また天よりのパンである」(三六・二以下)。

「同様に午後三時にも祈りなさい。この時間に、キリストは十字架にかかり、日は暗くなって闇となった。それゆえあなたは、この時刻に、全宇宙が、神を信じない者たちのために、闇となったことへの嘆きを持って、力の限り祈るべきである」(三六・四)。

「また午後三時にも、祈りと讃美とが捧げられるべきである。それは正しい者の心に、真実でり、聖徒たちを照らすために、み言葉を与えたもう神を讃えるようになされるべきである。午後三時に、キリストは(槍でもつて)そのわき腹をさされ、(その際)血と水とが流れ出した。その結果、イェスはその後、夕べにいたるまでの時を、光りと輝きにみちみちたものと変えたもうたのである。そしてキリストは眠りつかれ、新しい日の夜明けを近くにひき寄せ、そのことを通して、復活の模範を遂行されるのである」」(三六・五以下)。

もし読者が、この時祷の実際例、しかも現代的な時祷をご覧になりたいと望まれるならば、私の訳出した「日ごとの讃美・テゼー共同体の祈り」(新教出版社・一九八二年)一七〇頁ー二〇二頁を参照されたい。

つぎに教会での共同の祈りにりいて、
まずヒュッポリュトスの「使徒的伝承」は夕べの共同の祈りを、会衆による愛餐の箇所で言及している。それによると、まず司教は人びとを教会に集め、タベの詩篇(一四〇)が朗唱される。つぎに執事が連祷を会衆との交唱によって捧げる。そのあと洗礼志願者は退席する。そして信者たちによる「ざんげの祈り」と、「種々の主題を掲げての祈り」とがささげられる。また「使徒的伝承」の別の箇所では、ここで燈火が運びこまれて、司教は真実の光であるキリスに、感謝の祈りをささげる。
そして執事は会衆にむかって「光に感謝しましょう」、
会衆「アーメン」、
そして司教による祝福の祈り、
会衆「アーメン」、
執事「平安のうちに行きなさい」と続く。

朝の祈りも、内容は夕べの祈りと同様であるが、ただ詩篇は、六二篇が唱和される。当時の別の文献によれば、詩篇と祈りのほかに「教え」がなされたという。このように、ヒッポリュトスは、当時の、ローマ教会に、すでに制度化された、日ごとの共同の祈りがあることを示している。このことはヒッポリュトスの、キリスト教徒の個人的な祈りの体系化と、その厳格な実践とが、日ごとの教会における共同の祈りの実行という、ひとつの新しい教会秩序を産み出して来ているこことを意味していする。当時の教会が、教会教育のために、人々を毎日、教会に集めていることを考えると、この過程はあまり多くの困難や障害を見出さなかったはずである。

ここで当時(二世紀初頭)のローマ教会の特別な状況を考慮してみたい。すなわちヒュポリュトスの「使徒的伝承」は、当時大量に教会に流入した、新しい回心者のための、キリスト教生活の手引として編纂されたものである。さらに想像にかたくないことは、ローマの、ラテン語圏の司教グループのあやまちと無秩序とを正すためにおこった、ヒッッポリュトスを代表者とする、ローマに住むギリシヤ語圏の司教グループの批判と改革の運動の結果として、この「使徒的伝承」は書かれたのである。そしてこのギリシヤ語圏に属する教職者たちの精神的中心はアンテオケまたはその周辺地域にあったという。したがって、この「使徒的伝承」の持つ革新的な要素は、たんに口―マ教会の一部に受容されためみならず、広く東方教会にも歓迎されて、数ケ国語に訳され、各地方の教会秩序に、大きな影響をもたらすものとなった。それは文字通り、各地域のキリスト教徒たちの信仰生活の手引となったのである。

 私は日本におけるアシュラム運動や各地の朝祷会、そして埼玉県入間市のテゼー共同体や千葉県都賀の福音マリヤ姉妹会などの、いわゆる信仰共同体が、その立場の相異にもかかわらず、期せずして、個人と共同の祈りの革新を、ひとつの目標として掲げている点に注目したいと思う。歴史的にみても、英国のオックスフォード運動、ドくツのフリードリッヒ・ハイラーの聖ヨハ,ネ兄弟団、ミカエル兄弟団、スコットランドのアイオナ共同体、イタリーのアガペー共同体、またローマ・カトリック教会では、シャルル・ド・フコーの精神を受け継ぐ「イエズスの小さき兄弟会」と「姉妹会」「マリヤ兄弟会」などが「在俗修道」の立揚で、教会と個人の祈りの活性化に多大の貢献をしている。またこの連載のはじめにふれた、祈祷書、霊想書の著作や出版もその点で見逃すことのできないものであろ
う。

教会の日ごとの、共同の祈り、また個人の祈りの体系化と制度化にあたって、ヒッポリュトスを代表とするローマ教会の一部のグループ、すなわち教職堵と信徒の貢献を、私たちはもう一度ここに強調しても強調しすぎることはないであろう。
見逃してならないのは、この「使徒的伝承」の根本にある教会革新運動という存在である。それはたんなる「礼拝式文」あるいば「祈祷文」の改革ではなくて、教会秩序の根本帥革新を含むものなのである。この教職者、信徒の役割の強調は、礼拝学者デシェーヌの、教会の「共同の祈り」、後世の「聖務日課」として発展するこの制度の起源を、四世紀の修道院と修道者たちの貢献にのみ限定する立場を、完全につきくずす結果となる。たしかにベネディクト派修道院が、この点で大きな役割を果したことは事実であるが、しかしすでに二世紀初頭において、祈りの改革が、すでに教会の内部から始まっていることを、このヒッポリュトスの「使徒的伝承」がよく示している点で、重要な意味を担っている。


第10回

「ローマ・カトリック教会のミサ礼拝式」

西方教会の礼拝式は、大別するとガリアおよびローマ礼拝式となることは、前に述べたとおりである。そして後者のローマ礼拝式は、初期には、ローマの司教区、あるいはその影響下にある地域にのみ限定されて用いられていのであるが、教皇グレゴリ一世(590ー604年)によって一応の完成をみることになる。
しかしながら、ローマ礼拝式の改訂と発展は、それだけにとどまらない。まずカール大帝らの努力によってフランク王国の諸教会に導入され、そこでガリア文化の影響を受け、著しい改訂を余儀なくされる(紀元8,9世紀のローマ・フランク混合タイプの礼拝式の成立)。それから改めて、イタリヤやローマに逆輸入されて、再度の改訂がほどこされて、ローマ礼拝式となるのである。
そして16六世紀のトリエント公会議(1545一1563年)によって現在の、ローマ・カトリック教会ミサ礼拝式の基本が制定される。これはその後4世紀の間、広く用いられたが、今世紀の第2バチカン公会議(1962−1963年)の決定によって、ふたたび改訂され、現行のミサ礼拝式となった。
したがってこの礼拝式は、西方教会における、1500年のキリスト教礼拝式の発展の成果を示すものとして、またその過程において、プロテスタント教会も、多大の貢献をはたしたという事実からみても、私たちにとって大きな意義を有している。
現在用いられている、ローマ・カトリック教会のミサ礼拝式には、6世紀当時改訂された祈りや式文が、若干保存されている。これらをご紹介するには、まず、現在のローマミサ礼拝式の構造と、その内容とを述べなければならないであろう。
すでに述べたように、ローマ・.ミサ礼拝式は、第2バチカン公会議以後に行われた改訂により、次の様な構造を持つものとなった。

一、開祭(ミサを始める部分)
二、ことばの典礼(み言葉を中心とした礼拝式)
三、感謝の典礼(聖餐を中心とした礼拝式)
四、閉祭(ミサを終える部分)

ミサには「神の言葉とキリストのみ身体による食卓」とが用意されていて、ことばの典礼によって神の言葉が、そして感謝の典礼によってキリストのからだが信徒たちに与えられ、それによって彼らは豊かに教えられ、かつ養われる。(カトリック典礼書28)

一、開祭 準備、導入、開始の特長をそなえた諸要素からなる。
@入祭、入祭の歌を聖歌隊、或いは会衆が歌う。オルガン奏楽がこれに替わる場合もある。
A祭壇への表敬と会衆へのあいさつ
司祭「父と子と聖霊のみ名によって」
会衆「アーメン」
司祭「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」
会衆「また司祭とともに」。
ここで司祭あるいは助祭が、その日のミサについて短く説明できる。
B回心(回心の祈り)
会衆がともに罪の告白をなし、司祭による罪のゆるしの宣言がある。
この会衆の罪の告白(第1形式)
「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。・わたしは、思いと言葉と行いとによって、たびたび罪を犯しました。……」はケルト式告解の秘跡の影響によって、中世初期にローマ礼拝式に加えられた祈り(コンフィテオル)であるという。
Cあわれみの賛歌(キリエ・エレイソン)
「主よ、あわれみたまえ。主よ、あわれみたまえ。キリストよ、あわれみたまえ。キリストよ、あわれみたまえ……」
教皇グレゴリオ時代には、司祭、聖歌隊、および会衆で歌われていた。
D栄光の賛歌(グロリア・イン・エクセルシス、待降節、四旬節以外の日曜日に)。
(天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ。」
続いて「われら主をほめ、主を賛え、・・・」・(ラウダムス・テ)が続く。
E集会祈願
司祭「祈りましょう」。
会衆はしばらく沈黙して祈る。
続いて司祭は手を広げて集会祈願を祈る。
この集会祈願は開祭の部分の結びとして、内容的にはその日のミサの「固有文」(それぞれミサごとに変化する礼拝式文のこと、プロプリウムという)に関係し、集祷の(その前の、入祭、・キリエ・・グロリアなどの祈りをひとつに集めてまとめる祈り)の形式をとる。
たとえば四旬節第1日曜日は
「全能の神よ、年ごとに行われる四旬節の典礼(礼拝式)を通して、わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。日々、キリストのいのちに生きることができますように。聖霊の交わりのなかで、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエズス・キリスによって。アーメン」(114)。   
ただし祈りの最後の部分「聖霊の交わりのなかで・・・」は結びの言葉としていつもきまっている。

二、ことばの典糺

F第1朗読
朗読者は朗読台で聖書(旧約)を朗読、終ると一礼する。
奉仕者は「神に感謝」と答える。
G答唱詩篇
先唱者が詩篇を歌うか朗唱し、会衆が答える。
H第2朗読
普通、使徒書が読まれる。
Iアレルヤ唱
一同起立してアレルヤ(ハレルヤ)唱を歌う。
J福音朗読の準備
K福音の崇敬と朗読
助祭または司祭
「主はみなさんとともに」
会衆
「また、司祭とともに。」
「・・・による福音」
会衆「主に栄光」
そして福音の朗読がある。
L賛美の応唱
助祭または司祭
「キリストに賛美」
会衆
「キリストに賛美」
M説教
朗読された聖書のひとについて、またはミサ式文のひとつにっいての説教。
日曜日および祭日のミサの説教は義務づけられ,週日のミサ、の説教もすすめられている。
古代教会では、聖書の解説や説教は普通であつた。アウグスチヌスは詩篇、創世記、福音書などを数週間あるいは数か月間、次々と順を追って解説している。
教皇レオや教皇グレゴリオの説教も伝えられている。しかし実際には、紀元1世紀以後、ローマでは説教の後退がみられ(F・アショー)、あまり行われなくなったと見られる。
神の言葉の宣教は中世の教会においても続けられていたが、しかしそれは「悪い状態」におちいっていた(H・キュンク)。  
第2バチカン公会議が説教は、年間を通じて聖書本文にもとずき、信仰の秘義と信仰生活の根本を説明するものとして、礼拝式の本質的部分であるとして、大いに奨励していること、特に主日と、守るべき祝日のミサの説教は、理由なしに省略されてはならないと義務づけている点に注目したい。
N信仰宣言
信仰宣言としては、「洗礼式の信仰宣言」、および使徒信条、ニケア・コンスタンチノープル信条の3形式があり、そのいずれをも用いてよい。
O共同祈願,(とりなしの祈り).
会衆は祭司としての自らの務めをはたすため、人びとのためにとりなしの祈りをささげる。その方法は(まず教会の必要のため、國政にたずさわる人びとと全世界の救いのだめ、困難に直面して苦しんでいる人びとのため、信仰共同体のため、などの願いを助祭、あるいは先唱者が祈り、会衆はともに
「主よ、私たちをあわれんで下さい」、
あるいは
「主よ、私たちの祈りを聞いて下さい」と答える。この共同祈願は古代の礼拝式において普通に行われたもの(クレメンスの礼拝式参照)であった。ローマ礼拝式においてはカノン(後述)の中に残される。しかしそれはただ司祭によって祈られるものであった。今回のバチカン公会議以後の改訂によって、もう一度古代教会のとりなしの祈りが復興されることとなった。

H・キュンクは、カトリック教徒の多くが、第2バチカン公会議の礼拝刷新に対してとるであろう、否定的な態度を予想して、彼らはこのように反論すると書いている。彼らは言う、公会議の決定は、古い良いカトリックの伝統に反すると。
その理由として
@カトリック教会は「いつでも今のようであった。」
A「今までこのような(公会議の決定のような)ことは決してなかった。」
B「私たちの教会ではそれは実行不可能である」
という。
しかしながら彼らの言う「古い良いカトリックの伝統」とは、教会や礼拝の2千年の歴史に比べれば、ほんの最近の、つまり彼らの少年時代の教会の伝統を意味している場合が多い。これにたいして、教会礼拝の本当に良い伝統を知っている者たちは、彼らの言う同じ理由をもって、この礼拝刷新にこう賛成すると述べている。
すなわち礼拝刷新によって、今日新しく礼拝に導入されるものは、歴史の光りに照らすならば、
@「いつでもこのようであった」のであり、
また今日廃棄され、あるいは第二義的なものとされた礼拝の諸要素については、
A「いままでこのようなことは決してなかった」と。
そして最後に、教会の礼拝の正しい伝統からはずれて、個人的な、あるいは部分的な興味や趣味の結果であるところの多くの諸要素は、
B「私たちの教会では実行不可能である」と言うことができると言っている。
まことに示唆に富む発言ではなかろうか。(H・キュンク『公会議に現われた教会』中村訳、東京1962年、120頁)

三、感謝の典礼
P奉納の歌
共同祈願が終ると奉納の歌が始まる
Q奉納の行列パンとぶどう酒が祭壇に運ばれる。また教会の維持や、貧しい人びとを助けるための献金がささげられる。
Rパンを供える祈り司祭は祭壇に行き、パンを奉持しながら沈黙のうちに祈る(続く)。

第11回
ローマ・力トリック教会のミサ礼拝式(続き)

三、感謝の典礼(続き)

(20)ぶどう酒の準備―(26)奉納祈願
奉納の歌が歌われている間に、ぶどう酒、パン、カリス(杯)などの準備がなされる。同時に献金が集められる。その間、司祭は沈黙のうちに(あるいは低声で)奉納準備の祈りを祈る。奉納の最後に、祭壇の中央で手を拡げて会衆に呼びかける。

「皆さん、このささげものを、全能の神である父が受けいれてくださるように祈りましょう」。

一同は司祭とともにしばらく沈黙のうちに祈る。
続いて司祭の奉納祈願

「いつくしみ深い神よ、御ひとり子の受難によってわたしたちをおゆるしください。わたしたちの力では得ることのできないこの恵みを、十字架のいけにえによって豊かにいただくことができるように」。(棕櫚の主日の例)。

奉献文―感謝の祈りー(27)叙唱前句(28)叙唱(各主日、祝日によって違ったものが用意されている)―(104)感謝の賛歌(サンクトゥス)、叙(序)唱は感謝式(ユウカリスティア=聖餐式)の始めにおかれた、賛美と感謝の賛歌であり、キリスト教礼拝式のなかで最も古い歴史を持つものである。その構造と式文は紀元220年頃のヒッポリユトスの礼拝式(前述)で示されている。

(棕櫚の主日の叙唱)
「聖なる父全能にして永遠の神よ、主キリストによっていつもあなたをたたえ感謝の祈りをさげます。罪のないキリストは苦しみをにない、罪びとに代わってさばきを受けてくださいました。キリストの死は罪を清め、その復活はわたしたちに救いをもたらしました。天も地もすべての天使とともに、キリストをたたえて絶え間なく歌います」。
叙唱の終わりに司祭は手を合わせ、会衆とともに次の感謝の賛歌を歌うか、または唱える。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。…ホザンナ」

奉献文(105)司祭の朗唱ー(106)人々のための祈り…(省略)(117)
聖霊を願う(エピクレーシス)ー(118)制定語(121)記念と奉献(アナムネーシス)(122)司祭の祈り……。

1968年より、従来のローマ奉献文(典文)以外に三つの典文が自由選択としておかれた。奉献文の中心は制定語である。

司祭
「主イエズスは受難の前夜、とうとい手にパンを取り、天に向かって全能の神―その父 あなたを仰ぎ、感謝を さげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを取って食べなさい。これはあなたのために渡される
わたしの からだである』。
食事の終わりに同じように、とうとい手に杯を取り、また、感謝をさげて祝福し、弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを受けて飲みなさい。これは わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる 新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」。

司祭
「信仰の神秘」

会衆
「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。主の死を仰ぎ、復活をたたえ、告げ知らせよう、主が来られるまで」。

司祭(121)記念と奉献。アナムネーシス)
「わたしたちー奉仕者と聖なる民―も、いま、御子 わたしたちの主・キリストの とうとい受難、死者のうちからの復活、栄光の昇天を記念して、あなたの与えられた、たまもののうちから、清くとうとく 汚れのないいけにえ、永遠の生命のパンと救いの杯を、栄光の神 あなたにさげます・・・」。(第一奉献文《ローマ典文》)。

交わりの儀(152)主の祈り………(155)平和のあいさつ(156)パンの分割(157)平和の賛歌(アニュスディ)………(160)司祭の拝領(161)信者の拝領………(166)拝領祈願。
平和の賛歌
「神の小羊、世の罪を除きたもう羊よ、われらをあわれみたまえ。・…」
陪餐の始りに歌われる歌として中世時代に礼拝式に入れられたもの。

四、閉祭
(167)お知らせ(168)派遣の祝福、
司祭
「主は皆さんとともに」
会衆
「また司祭とともに」

「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」会衆
「アーメン」。
(169)閉祭のあいさつ、
司祭
「感謝の祭儀を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」会衆
「神に感謝」。
(170)退堂………。

「ミサ礼拝式」の「ミサ」は、この司祭の「・・・終わります。行きましょう・・・」のラテン語から由来したもの。

ミサ礼拝式刷新の諸点

一、ミサ礼拝式改革の根本
1963年に発布された「典礼憲章」は、第ニバチカン会議での、ミサ礼拝式改革の根本を、礼拝についての司牧的(牧会的)、教育的、および礼拝学的な正しい理解に基づくずくものであることをあきらかにした。
@礼拝の司牧的理解
同憲章(10)によれば、礼拝は教会の諸活動がめざす頂点、また教会のあらゆる力が流れでる源泉である。キリスト教徒の霊的生活が、なによりもまず豊かにされるのは礼拝であるから、この恵みを、より確実に私たちが得るようにするために、礼拝の刷新をはかることは急務であると(21)。
A礼拝の教育的意義
礼拝はまたキリスト教徒にとって、大きな教育的価値をも含んでいる(33)。まず神は礼拝を通して民に語られ、キリストは福音を告げられるからである。そして民は、歌と祈りとをもって神に答える。この民の祈り、歌、行動によって、これに積極的に参加する人びとの信仰は養われ、強くされ、心は神にむけられる。これらによって、人びとは礼拝の恵みを、いっそうより豊かに受けることが可能となる。そのために礼拝式文と礼拝形式の整備が必要である。
B礼拝学的理解礼拝が、神の制定になる不可変の部分と、時代・地域などにしたがって、変化可能な部分の二つからなっていることをあきらかにしたのは、礼拝学の貢献である(21と23)。
後者の、変化可能な部分が、時代とともに、適当なものでなくなったり、あるいは礼拝の本質に適合しないものが、礼拝の中に混入している場合は変更すべきである。また他方で、健全な伝統は.それが適切、あるいは必要と考えられるものであれば、たとえすでにすたれたものであっても、もう一度回復されるべきである。さらに、キリスト教礼拝の特質をあきらかにしたのは礼拝学、とくに最近の礼拝運動の成果である。礼拝とは1)教会が集める。2)教会は聖書においてキリストについて記されたことを朗読し、3)感謝式(ユゥカリスティアけ聖餐式)を、主の十字架の死による勝利と凱旋として祝い、のキリストにあって神に感謝することである(6)。また礼拝ではすべての人がひとつに集まり、教会で神を賛え、奉献に加わり主の晩餐にあずかる(10)。また礼拝は、キリスト教徒がひとつに集まる所であり、そこで神の言葉を聞き、感謝の祝いに参加し、主イエズスの受難、死、復活と栄光を思い起し、神に感謝をさげることである(106)。

二、神の言葉の強調
礼拝にとって聖書は最も重要である(24)。「福音は、礼拝の規準であって.礼拝は福音の規準ではない」(E.プルツィワラ SJ)。それは聖書朗読や、「説教に重要性をあたえるのみならず、詩篇の唱和、礼拝の歌や祈りが、聖書のいぶき、感動からわきあがるものであり、また礼拝の行為としるしとは、聖書からはじめてその意味を得るものである。聖書朗読については、従来よりいっそう豊富に、多様性を持ち、より適切なものが選ばれるように配慮すること(35)。何年かをひとつの周期として、聖書の主要な記事が、会衆の前で朗読されること(51)。そしてなによりも説教による聖書の説き明しは、礼拝のなくてはならぬ要素として尊重されねばならない(35)。

三、「ことばの典礼」と「感謝の典礼」
新しいミサ礼拝式は、み言葉を中心とした「ことばの典礼」と、聖餐を中心とした「感謝の典礼」とから成り立っている。しかし両者は相互に固く結ばれていて、礼拝としてはひとつである(56)。

四、「ことばの典礼」のみの場合も可能であること
礼拝憲章(35)は、教会の大きな祝日の前夜、あるいは待降節、四旬節の週日、また日曜日、祝日に「感謝の典礼」を含まない、「ことばの典礼」のみの就行を、すすめている。しかもそれは礼拝式として充分なものであるとしている。この条項は、本来、司祭の数の少ない世界の諸地域を考慮したものであったが、憲章においてはそのような状況を条件としてはいない。その結果、「ことばの典礼」のみ、という礼拝の新しい形式が、カトリック教会でも次第に定着しつつある(1964年、シュトウットガルトのカトリック大会、ドフナー大司教司祭によるミサ)。

五、二種陪餐の実践
いわゆるパンとぶどう酒による二種陪餐は、礼拝憲章によれば、司教の判断によって授けてよい道が開かれている(55)。

六、司祭と会衆の分担と会衆の礼拝への積極的参加
新しいミサ礼拝式では、礼拝の諸要素のそれぞれが、司祭(教職者ー司式者)と会衆との間で、分担されており、しかもその両者が、いつもしっかりとひとつに組み合わされるように苦心がはらわれている。それによってまたキリスト教徒が、礼拝にたいして、無関係な、あるいは無言の傍観者としてではなく、礼拝式と祈りと歌とを通して、礼拝に行動的に参加するようすすめられている(48)。「ことばの典礼」の終りの「共同祈願」(とりなしの祈り」への会衆の積極的参加はその一例である。この新しいミサの礼拝式において、「犠牲」に関するプロテスタントとカトリックとの依然として根本的な差異は大きな課題のひとつとして残されているにもかかわらず、全体として、礼拝式の領域における歩みよりと一致への働きは、大きく前進したとみることができる。



第12回

キリスト教諸教会(ローマ・カトリック教会以外))礼拝式

 中世キリスト教会の礼拝式は、概観すれば、六つの「出口」ー(L.フェントを通って発展する。そして それぞれの発展は、今日もなお続いている。

 そのひとつ、ローマ・カトリック教会のミサ礼拝式については、すでにとりあげた。あとの五つをあげると、ルター派教会、聖公会、改革派教会、敬虔派-聖書根本主義派にももとづく諸教会、そして東方教会の礼拝式である。
 ルター派教会の礼拝式の発展は、いうまでもなく改革者・ルターの働きに、その端初を求めることができる。
 聖公会の礼拝式は、英国における、中世ローマ・カトリック教会の礼拝式の伝統から出発し、ルター派、あるいは改革派教会の礼拝との交流や影響のもとに発展する。
 改革派教会の礼拝式は、スイスの改革者ツヴィングリに負うところが大きい。彼は、種々の試みの結果、中世時代の、説教中心の礼拝(プロヌゥス)と、バーゼルの牧師J。U・スルガントの礼拝式を参考にして「言葉の礼拝式」を編纂する。
 改革者カルヴァンは、ストラスブルグを経由して、このツヴィングリから、礼拝式の点で、多くの影響を受ける。
 敬虔派―聖書根本主義教会は、礼拝式の根本を、ただ聖書からのみ求める。しかし聖書が、キリスト教の礼拝式について、それほど明確な、具体的な指示を与えない所に、この立場の困難さがある。
 また東方教会においては、紀元1200年頃から、クリソストムスおよびバシレウスの礼拝式が、もっぱら東方正教会全体の礼拝式となる。
 
 私たちは、主として、ルター派および改革派教会の礼拝式をここではとりあげ、必要に応じて他の分野についても、簡単にふれることにしたい。

一、ルター派教会の礼拝式
1)ルターの礼拝理解とその改革。
ルターの立場は、中世ローマ・カトリック教会の礼拝秩序の純化をめざしたのであって、その廃棄ではない。「私たちはそのすべてを検討したい。良いものは残すであろう」ルター ミサの秩序」。ルターによれば、神のみ言葉が宣べ伝えられる所に、キリストば現臨される。宣教者の言葉を通して、神ご自身が語られるのである。
 1544年のトルガウの城教会礼拝堂奉献式において、ルターはいう。
「私たちの愛する主ご自身が、その聖なるみ言葉によって私たちに語り、私たちもまた、祈りと讃美とをもって主に答える、それ以外のなにものも行われないように、ただそのことのためにこの新しい建物は建てられたのである」。
ルターの礼拝に関する著作としては「教会のバビロン補囚について」(1520年)、「教会の礼拝秩序について」(1523年)、「ミサと聖餐式の秩序」(1523年)および『ドイツ語ミサ』(1526年)があげられる。
 とくに1523の「礼拝秩序」では、ルターは礼拝の問題点を簡潔にまとめている。そして礼拝式、なかんずく宣教(説教)の務めを、もっと盛んにしたいと希望している。
 しかし同時に、ルターは、自分自身が、あくまでも西方教会の礼拝伝統のもとにあることを自覚し、従来のローマ・カトリック教会のミサ礼拝式は、そのうちに多くの問題点を有するにもかかわらず、「キリスト教的由来」を保持していると考えている。
「ミサと聖餐式の秩序」では、当時の教会で従来のミサ礼拝式が過激にくつがえされたり、廃止されたりしている現状を憂い、その様な「信仰や理性なくして、ただ猪突猛進し」あるいは「目新しいものだけを喜び、目新しさがなくなるとすぐに廃棄するような、気まぐれで気むずかしい連中」に対抗して、ルターは、比較的おだやかな礼拝式刷新の提案を行っている。  それによれば福音的礼拝式の制定の目的は、従来のミサの純化とその信仰的使用にあるのであって、決してその廃止ではない。ミサのいわゆる「言葉の典礼」の部分にたいしては、わずかばかりの修正以外は、そのまま受入れている。
 これにたいして、奉献文(カノン)については、ルターは容赦のない改変をほどこしている。すなわちカノン全体について「犠牲のひびきのするすべてのものを除き、純粋で聖なるもののみを」保有し、整理しようと試みたのである。
 ルターの『ドイツ語ミサ』は、彼によれば、決して福音的礼拝の、一般的な基準として編纂したのではない。『ドイツ語ミサ』は、人がどうしても守らねばならない「おきて」ではない。むしろキリスト教の自由にしたがい、情況や要求に即して用いることを彼は希望していた。しかしながらそれにもかかわらず、このルターの『ドイツ語ミサ』は、その後のルター派教会礼拝式の基本となり、その事情は、現在も変わっていない。

2)合同ドイツ福音ルーテル教会(VELKD)の礼拝式。
 すでに述べたように、ルターの礼拝刷新に関する諸提案は、ルーテル派教会の礼拝式の根本となったのであるが、それはまた、歴史的発展のなかで、かずかずの変容と改新を繰り返して、今日の礼拝式にいたったのである。

 ここに正統的ルター派に属する、合同ドイツ福音ルーテル教会(ハノーファー、バイエルン、ブラウンシュヴァイク、シャウムブルク=リッペ、ノルトエルビエン各州教会の合同組織)の説教と聖餐式を伴った主日礼拝「福音ミサ」、および「宣教礼拝」をご紹介する。

「福音ミサ」
――オルガン前奏
 「罪の告白」をともなう準備の祈り(コンフィテオル)
はじめの歌―祈願ー罪の告白のすすめー祈りー(会衆)アーメン。

一、はじめの部(祈りの部)
 入祭唱(聖歌隊)はじめの歌・あるいは栄光唱句ーキリエ(聖歌隊と会衆とで交互に)―グロリア(朗読あるいは朗唱形式で)―集祷(はじめに挨拶・《(司式者)「主はみなさんとともに」《会衆》「またあなたの霊とともに」・祈り)

二、ことばの部
 使徒書朗読―(会衆)アレルヤー(聖歌隊)アレルヤ唱句ー(会衆)アレルヤーグラデュアルの歌(週の、あるいは当日の歌)―福音書朗読―信仰告白(歌うか、あるいは朗読する)―説教―説教のあとの歌―告知(案内・報告など)―感謝の奉献(会衆の歌、あるいは聖歌隊の歌とともに)―一般祈祷=とりなしの祈り(もしも聖餐式がない場合には、このあと主の祈りー「終わりの部」に続く。

三、聖餐の部
 叙唱(《司式者》「主はみなさんとともに」《会衆》「またあなたの霊とともに」《司式者》「心を高くあげなさい」《会衆》「主にむかってあげています」《司式者》「主なる私たちの神に感謝しましょう」《会衆》「それは正しくなすべきことです」《司式者》叙唱の祈りーサンクトゥスー主の祈り)
                                         (続)

                                                            



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