21.新年によせて

(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
昭和41年新年;先生91歳 京都天風閣にて
新年明けましておめでとう。皆さんは恬淡明朗溌剌とした元気に満ちた天風精神で新年を迎えられたことと思います。
新年に際し、何か私の言葉が欲しいとのことで、ここに録音をするわけだが、言うまでもなく、 新年も年末もなく一貫して必要な教義を教えられているので、特に新年だからといって特別に言うことは何もない。
何時も言っていることを改めて申し上げる。
「忘れじと思う心は忘れけり、忘れて後は忘れざりけり」という言葉があるが、全ての刹那、教えの通りになってなけりやいけない。
人生真理に順応した生き方になってなければいけない。
こういう場合はこうしなけりゃいけないなんて一々考えているようではいけない。
それには日常の修行の実行に際して情熱の炎を燃やしてかからなければならない。
単に儀式的に、習慣的にやったのでは何にもならない。
朝の体操にしてもいかにもスマートにやっている人がいるが型にはまっていてもそこに燃えるような情熱がなければならない。
そうでなければ、技としてはどんなに進んでもこれでは効果はない。
いわゆる尊さに慣れてしまって魂が抜けている。これが一番注意しなければいけない。
不運や不健康に会うと、何か自分には業のようなものがあってそうなっていると思っている人がいるがそうではない。
実行しているその仕方に情熱の炎が消えかかっているからだ。
いくら言ってもいい足りないぐらい大事なことなのだ。たった今入会したぐらいのつもりで真剣にやるのがいいのだ。
十牛の図の何番目の位置にあるか反省することだ。
実際20年のベテランでも十牛の図の3番目にあったことに気付いて冷や汗をかいたという話がある。
自分ではもうすっかり教えの通りに生きていると思っていたがと後悔したというが、後悔しただけでは駄目だ。
20年でもこうなんだから、新しい人は尚更だ。
「日々に新たにして、日々に新たなり」という言葉があるが、たった今悟ったといった気持ちで情熱の炎を持って実行するならば、
毎日実行しても少しも飽きないし惰性的にならない。
同じ誦句を言うのでも門前の小僧のように言ってはいけない。
情熱の炎を燃やし、「力だ、勇気だ、信念だ」という時に力、勇気、信念そのものにならなければ駄目だ。
情熱を持ってやるから,やる度にその喜びを噛みしめることが出来毎日実行することが出来る。
井上さんがよく、天風教義の一番の実行者は私だと言われるが私もそうだと思う。
私は、天風教義の実行者としては誰にも負けない。生きている限り一日といえども休むことは許されない。
時として起床出来ないときは床の中で出来る行修を行う。
惰性的に何となく生きては駄目だ。人間の感受性はだんだん習慣的に慣れてしまう。
それを常にシビアに保つためには日々に新たに、日々に新たな心がけで刻々の瞬間を過ごすようにしなければいけない。
今までのように、この教えから離れて惰性的に生きてはいけない。これ以外に、人間として尊く、強く、生きる方法はない。
折角の教えを聞いても、そのときは納得しても、さっぱり行動しない者もいる。
諸君はそうしなければ生きていけないんだということを考えないんだなあ。
私は諸君に、時によってはこうあるべきだが、時によってはこうでなくてもいいよなって言ったことは一度もない。
教えを生活から離してしまうからいけない。
「ずっと、そんな事しなけりゃいけないんですか」などと聞く奴が居る。
「しなければいけない」と断言する。一日の内に、何時間か死んでいる時間があるのならともかく、
ずっと生きているのなら、一瞬も見失っては絶対いけない。
生きるというのはそういう事なのだ。もう、少しぐらい今は休もうとか、この問題は少し目をつぶってなどという例外は一つもない。
「日々新たにして、日々是新なり」、新年に限らず、もう一瞬一瞬に、初めてその真理に気付かされた時の感激を以て 真理に即した生き方をする事を祈念する。
およそ生きているものは全て、その与えられた摂理に従って生きなければその生命を全うすることは出来ない。
新幹線はあのレールの上に置くから200kmのスピードが出せるのであって、高速道路の上に置いてもその能力を発揮する事はできない。
人間として、あるべき心の持ち方、身体の処し方、日常のあらゆる瞬間に正しい処し方がある。
これを踏み外して、なんぞ生きがいのある人生を送ることが出来ようか。新幹線をレールの上に置かずに道路の上に置いたようなものだ。
これだけ言っているのに、今年不運や不健康に見まわれたらそれはこの教えを忘れたからだと反省してすぐにこの道に戻るようにしなさい。
改めて、この講義を聴く前より元気になって生きることを心に期してこの講演を終わります。
    

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22.誠、中村天風の命を救ったもの

(このテープは手元にありませんからお聴きになれません)
軍事探偵として、支那の地で活動をしていた。
ある時、支那の荒涼たる大地にコザック兵の死骸を見つけた。
「戦争とはいえ、こんな若い兵士が気の毒なことだ。彼にだって父や母がある、妻も子もあるかも知れない。」
たとえ敵とはいえ野ざらしになっているその姿を見て気の毒に思い、部下に言いつけて埋葬をした。
そうしながら、今はこうして生きている自分も何時この兵隊のようになるか判らないと思うと、 早く戦争を終わらせなきゃならん、と真から思うようになった。
その後は、自分の軍事探偵としての仕事の目的を戦争終結に絞った。
私は軍事探偵として勲章を貰っているがその勲章は戦争のある局面で、そのままでは当然起こる両軍の衝突を 自分に出来るあらゆる諜報活動を駆使して何とかそうならずに済ませることに成功した結果への褒章なのである。
結局は「誠」である。
私が銃殺刑になる直前に救われた話は諸君はよく話しているから知っているがどうして救われるようなことになったかを話す。
というのも、私が救われたのは「誠」という心の表れであるからだ。
私を救うために何人もの大人を導いてくれたのは13歳の娘である。
何故、その娘が私を救ってくれたのか。
当時の支那は戦場である。
戦争下という状況は人間の本能をむき出しにしてはばからないどころかそれをあおるような風潮さえ生む。
そして、当時の支那もそうだった。
女性を強奪して強姦するといったことになんの罪悪感も感じない連中ばかりだった。
ある時、私が彼らのために役立つ働きをしたとき、連中が喜んで「贈り物がありますからどうぞ」といって 大きな箱をおいて部屋を出ていった。
なんだろうと中を開けると中に娘が二人ぐったりして横たわっていた。
たずねると13の娘と18の腰元で、彼らに拉致されて箱に入れられてしまったというのだ。
まだ、女の体にもなっていないこんな年端のいかない娘を、連中は平気で強姦しそのあげくに売り飛ばして しまうのかと思うととても気の毒になった。
そこで、連中に話をして「金を出すからこの二人を譲ってくれ」と頼むと「お金を頂けるのであればどうぞどうぞ」と
助け出すことは出来た。
外へ連れ出して、「さあ、こっから帰れ」と言うと「此処はどこか判らないし、どう帰っていいかも判らない」という、
話を聞けば、どうやら日本でいう鎮守の森のような所にいたところを拉致されていきなり箱に入れられたらしい。
そこで、もう一度屋敷の中に入り、二人の娘を拐かした奴を呼び、ビクビクでてきた男に 「この二人を拉致した所へ案内しろ」と言いつけ馬車を用意させた。
それから、夜の道を馬車に揺られること数時間、夜の白みかける頃に「つきました、此処です」と件の男が言う。
二人の娘を起こして「ここからなら帰れるか」と言うと、安心したように頷いた。
馬車から降ろし、帰るように促すと手を合わせて私を見ながらその目からは涙がとめどなく流れている。
「判ったから、早くお父さん、お母さんの所へ帰りなさい」と言うと 「お父さんもお母さんもいない、今はおじいさんと一緒に暮らしている」という。
とにかく帰そうとすると、名前を教えてくれと言う。「名前なんが言っても仕方ない、日本人だ」とだけ言った。
何か形見のものをくれというので、そんな時に何も持っている物は無いから仕方なくハンカチを渡し、 私達は元の場所へと引き返した。
振り替えると、何時までも何時までもこちらの姿が見えなくなるまで、今渡したばかりのハンカチを 力一杯振って見送ってくれているんだ。
それから、2ヶ月ほど経った時にコザック兵に捕まってしまった。
そんな場合戦場には、捕虜を監禁する牢屋などというものはないから、その近辺の大きな農家のみそ蔵のような所へ 幽閉されるのが一般的なやり方だった。
すると、そこの屋敷の者と思われる男が「お前が日本人と知ってこの屋敷の主人が呼んでいるからついて来い」という。
その男について何重にも土累を張り巡らした屋敷の中へと進んで行って部屋に通された。
そこには一人の老人がいて誰かを呼んだ。後で判ったことだが呼んだのは娘の名前だった。
日本語ではないその呼び名は残念ながら憶えられなかった。
名前も知らないその娘は呼ばれてその部屋に入り私を見るなり「この人」と言って私に抱きついてきた。
その娘のおじいさんである老人は「日本人なら娘の恩人と同じ国の人なので助けたいとは思ったが、 まさかご本人とは」と言った。
しかし、そこへロシア兵が私を捜しに部屋へ入ってきて、私は連行された。
さて、処刑の日の話は何度も諸君に話したとおりである。
処刑の宣告を受け刑場へ連れて行かれた。
ついに此処まで来たか、と思い3発の銃声を将に聞かんとする時の事だ。
それまでは「目隠しなんかいらない、俺は俺の身体のどこに玉が当たるのかをしっかり見て死ぬのだ」と 口にしていたが、兵士が銃を構えた姿を見たその瞬間、目をつぶってしまった。
その時に、とても大きな音がした。
「死ぬ時はこんな大きな音がするものか」と思った。
しかし、死んでいない。
自分がくくられている棒ごと吹き飛ばされてしまった事に気がついた。
今まで自分の刑を見守っていた兵士達はみんなこっぱ微塵に吹き飛ばされていた。
何故か。
あの娘がクリケットの運動場であの日本人が処刑されるのを何とか助けたいと大勢の大人を連れて助けに来てくれたのだ。
武器はタドンの様な手榴弾が2つだけである。
彼らの一人がその手榴弾を投げたところ、見事に命中して助けられたわけだ。
途中まで棒にゆわいつけられたまま逃げたのは知っているね。
ある程度の距離逃げて、ふと気がつくと娘の姿がないのに気がついた。
助けにくる途中で大人達が娘に残りの一つの手榴弾を手渡し自分達が戻ってこない時は、 失敗した時だからそれを投げるように話していたらしい。
自分達が戻ってこないので娘は言われたとおりに残りの一発を投げた。
しかし、娘の力だ、丘の上まで届かずに断崖の岩に命中し岩の固まりが落ちてきて娘はその下敷きになって死んだんだ。
俺を助けようとして死んだんだ。
その顔を見た時(先生のお声は涙で良く聞き取れないが)とても可愛い顔なんだ。
苦しそうな顔なんかしていないんだ。
しかも、俺が渡したハンカチを胸の所に握っているんだ。
わかるか。
子供だよ。俺に助けられたその真心を子供心に知って、今度は娘の「誠」がこの私を救ってくれたのだ。

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23.正しい活き方の自覚

これからあなた方の耳に伝わってくることは天風哲学の真髄でつまり人生を現実に生きるのに何よりも必要な信念を確立する為に無くてならない悟りばかりであります。
およそこの現実というものは現実によってのみ解決し得るものなので、しかも現実の力というものは宇宙真理の理解を徹底的に悟らない限りは発現してこないんであります。
生命の力は物質的な方面からこれを作ることは無駄な計画でどこまで行っても精神力を強めるという精神的な努力でなけりゃだでだということはもう判った。
人生を本当に有意義に生きる為にはどんな準備を毎日の生活に必要とするかということが 極めて大切な事柄なのであります。何事を完成せしめるにも一番必要とすることはこの準備を正しくするということなんだがどうもとかく多くの人々はこの準備を軽率にして完成のみを急ぐという傾向があるために人生をもっともっと本当いうと幸福な状態で生きられる場合でもこの準備が軽率であるばかりに完全な幸福という完成を見ることが出来ないで毎日をあたらただ大きな欲望や期待だけでもって心の中を焦りと落ち着かない欲求不満な状態で生きている人が多い。
正しき成就は正しき実行の実りで、正しき実行というのは正しき準備の花なんだ。
何事に対しても成就を完全にしたかったら実行を正しくしなきゃいけないんだ。実行するには準備のない実行は出来ないんだから、あてのない所に急ぎ足で行くことは出来ないんと同じであります。
そこでそれでは我々人間が本当に意義のある人生に現実に生きて行くために必要とする準備とはどんなことか、毎日準備する準備とはどんなことかというと毎朝夜の眠りから目覚めたならば出来るだけ早くその日の生活の全体を先ず自分の心の中に握っちゃまうんですよ、キャッチしちまうんだよ。簡単なことなんだがこれがあなた方に毎日毎日行われているかと自分で省みてごらん。何か特別な用事がある場合は別として普段何にも用事がないときはポーっとしてポーっと一日を過ごしている場合がないかい。
もっと詳しく言うと今日一日を火急的真理に順応して生きていこうということを先ず、第一番に考えなけりゃいけないんだよ。ただ生きられるから生きていこうという気持ちが一番いけないんだよ。真理に順応して生きていこう!と。
即ちあくまでどんな場合があろうと健康的にも運命的にもどんな変化があろうと徹底的に積極的な精神状態でこれに応接して生きていくっていうことが真理に順応した生き方だということはもう一言にして答えられるね。そこで準備に一番必要なことはここなんだよ。今日一日を徹底的に積極的な精神で、詳しくいえばどんな場合があろうと、尊さを汚さない、強さを弱めない、そして正しさと清らかさを失わないぞと、この心に決定的な宣言を与えて生きなきゃいけないんだ、それが第一準備なんだ。
準備というのは結局スタートに対する気構えだなあ、何をすんのでもスタートがしっかりしていない場合、いわんやましてスタートに際してからに何の目論見もなく何のそこに計画されたものが無かったならばさっきも言った通りあてのない所に駆け出したのと同じなんだよ。だから人生は原則の外に一歩も出ていないんだからこの原則の中にしっかり自分の人生を生かしていくことを忘れちゃ駄目だ、何でもない時はとかく何でもないっていう理由でもう何の考えもなくさっき言った如くポーっとしてポーっと生きちまうんだ。自分の自覚の中に今日は何にも用はないだろうと思っているかも知れないが人生というものはいつなんどきどんな用事が起こるか判らないんだ。ねえ!。ビジネスの上に変化が起こらなくても健康の上に変化が起こるかも知れない。何にもなく、一年365日無事平穏な日ばかり続くもんか。その時にその事柄に対して心が動揺しないことを第一番に計画することが日々是好日という現実を作り上げる先決的な準備なんだ。これがつまり要するにその日の生き方を如何に生くべきかを決定する第一準備。
かりにも計画し目論んだ所のものを半分も実行しないでもって一日を終わっちまうっていうのはどういうわけだ。
そこに又一つの原因、理由があるんだけどこれが普通の場合悟れないんですよ。原因、理由っていうのは何だっていうとね、多くの人は計画し目論んだ準備を相当入念にやっていながらこれを実行しようとする時唯単にねフワーっとした気持ちそれを実行しようとする。哲学的にいうと感情的な支配でそれを実行しようとするからなんだ、気が付いていませんよ、それに。感情的支配っていうのが判らないから、どんなんか。感情的支配で物事を行おうとするとそれが実行不可能になったり、あるいは実行不完全になったりするのが当然なんだ。
一切の準備や計画を完全に実行するには先ず第一番に感情でこれを支配しちゃいけないんだ。一切の感情を超越した霊魂に固有する意志の力でこれを実行しなきゃいけないんだ。意志の力が如何に尊いものであるかは研修科の「心とは」という時の説明を考えてご覧。そうだろう。機械を動かすときに原動力が必要だね。人間の意志の力っていうものは規則正しく生命の一切を動かす原動力。人生生活に一番根本的に大事なもんだ。ところが感情の支配でやるっていうと規則正しくエネルギーをリズミカルに動かす機械的な原動力でなく手で回しているのと同じ事になっちゃう。そうすると気乗りのする時はバカにうまく回すが気乗りのしない時は回し方に不完全な不調和がくる。回転の上にアンバランスがくるというこういう結果と同じなんだ。あの研修科の「心とは」という講演の中でも言ったね、現代の意志の力というものに対する正しい理解がない。概ね多くの人の一番いけないことは自分はどうも意志の力が弱い人間であるという風に自分を低く評価していることだ。ところが意志の力っていうものは人によって弱いとか強いとかっていう区別があるんじゃないんだ。霊魂がある限りは霊魂固有の性能なんだから非常に力強いんだ。意志の力が弱いように感ずるのは力強く出ようとする意志の力を、丁度そうだ、非常に水圧のある滝の水を小さな茶碗に汲んでからに、ポタポタそれを落とすようなことしちまうから、なんだこの滝の水勢いがあるなっていったってちっとも勢いありゃしないじゃないかって、勢いの抜いたものだけを見るからいけないんだ。「心とは」という研修科を聞いた人は今さらながら思い出すだろう、意志の力は出すようにして出しさえすりゃグングン出てくる。どうすりゃ出てくるっていうと雑念妄念の無い心に出て来るんだ。だから何をおいても先ず一番に観念要素の更改、神経反射の調節、積極観念の養成をすると同時に、あの安定打坐法こそは将に意志の力を出すのに何よりも一番に必要な秘訣だっていうことを私は説いてきたんだから。
意志の力の出し方が間違っているのだ。
雑念妄念の力が意志の力の出ることを弱めているのだ。
心が強い意志の力を発現できる状態でないことを知らなければならない。
心の中が整理整頓されていないと出てきようにも出てこれないのだ。
だから常に心の態度を「尊く、清く、正しく、強く」持てと言っているのはここにある。
たとえ、今この瞬間大丈夫でも常に変化するのが人生だ。
何時心の座敷にごみが入り込んでくるか判らない。
常に心の中をきれいに整理する必要があるのはこのためだ。
日常の刹那刹那に応用することの出来る安定打座法は価値のある尊い方法なのだ。
何も瞑目端座している時だけが安定打座をする時ではない。
その日の生き方を選ぶのだ。理念があって設計ができるのだ。
理念を吟味しなければ行けない。自分は力が無いなんて思ってはいけない。
安定打坐をポーッとしてはいけない。
畑は種を選べない。人は自分の人生に咲かす種を選ぶことが出来るのだ。
自分にとって素晴らしい種を選ばなければならない。
良い種を選ばなければならない。
真実の人になりたければどんな事があっても尊く、清く、正しく、強く生きなければならない。
そして、人生の花園に良き種をまくのだ。真理はあくまでも絶対で荘厳なのだから。
意志の力は磁石の力と同様に現実を同化させる力がある。
意志渙発を妨げるチリ、アカを取る安定打坐を何時も応用しなければならない。
雑念妄念が出なけりゃ意志の力が出て来るんだ。
幸福とか幸運というのはこうした意志の力を働かせて人生を善導したところにある。
雑念妄念のある人はこうした意志の力を発現せしめずに生きるという
勿体ない生き方をしている人だ。
諸君はいい方法を知っているのだから意志の力を発現して生きなければいけない。
朝、顔を洗ったら心もきれいにして一日を始めなけりゃ。
朝、呼吸法や統一体操を形式的にやっただけではいけない。
自分の人生の一切の主導者として生きるスタートとして 心を作るための行と意識してやらなければいけない。
日曜行修だってそうだよ。肉体を作るためと思ってやってはいけない。
それでは第二義的なものだ、。精神を先ず作ることだ。そうすれば肉体は出来てくる。
どこまでも精神、精神、精神だ。

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24.力、信念、勇気

24 力、信念、勇気
お互いの生命は生き甲斐のある人生に生きなければいけない。そのための悟りを開く必要がある。
悟りというと何か難しいことのように考える人がいるが判らなければならないことを判るのが悟りである。
今日はお互いの命に与えられている力とその法則を話す。
真理に接するに第一に必要なことは雑念妄念を心に持たないことである。
心にその様な気持ちがあるとレンズに曇りがあるのと同じである。それでは安定打坐をしっかりやろう。
――――――――――――ブザー――――――――――――――
正当な自己認証、即ち自分の命に与えられた力というものを程度高く考えなければならない。
何故なら、その人のその人の力に対する考え方がその人の人生に大きく影響するからだ。
心で思ったり考えたりすることが直接人生を良くも悪くもする事を知らずに生きている人が多い。
こんな重大なことを知らずにその日その日を唯何となく生きている。
こうやって生きていりゃ「何とかなるだろう」と生きている。
こんなあてのない生き方をしているのが現代の多くの人の姿だ。
生まれながら与えられている、心の思い方が直接自分の人生を良くも悪くもするという 重大な消息を知らずに生きているからだ。
それも、文化の未発達な時代ならともかく、人工衛星が飛び回る今日において、
自分自身の命についている心の働きを知らずに生きるという妙な現象が現実の姿なのである。
心の思い方の善し悪しで自分の人生が良くなったり悪くなったりするなんて そんなバカなことがあるもんかなんて言う人がいる。
「 カニはその甲羅に合わせて穴を掘る」というが、その人達はまさにその様な人間だ。
科学的に考えてみよう。心はお互いの命を生かす力の受け入れ口である。
宇宙エネルギーを受け入れる受け入れ口なのだ。東洋哲学では生気、とか霊気という。
インドではプラナという。一つの氣体である。これが宇宙エネルギーの根元である。
天風哲学では宇宙霊という。神と考えても良いし、如来と考えても良い。
我々の命を完全に生かすにはこの宇宙エネルギーを完全に受け入れることが必要だ。
心の思い方、考え方、即ち心の態度が宇宙エネルギーの受け入れ方に影響する。
受け入れる量に影響するのだ。これが判っていないから不幸な人が多いのだ。
それにはこの受け入れ方の準備をきちんとする必要がある。
自分の人生を価値高く生きるには、自分に与えられている命の力を程度高く引き上げて考えなければいけない。
「現在は確かに俺は理解できていないが、確かに俺にも強い力がある」と考えなければいけない。
自惚れろと言うのではない。
「自分の命には運命や健康を建て直す力がある」と信念出来ないまでも思わなきゃいけない。
考えなきゃいけない。それが人生という宝の倉を開く鍵のようなものだ。
心の行う思考というものは全て命の本質である霊魂を通じて宇宙の本質とつながっているのだ。
大抵の人はこの厳粛なつながりを知らない。
心の思い方、考え方は、鏡に物の映るようにはっきりと宇宙の大元とつながっているのだ。
万物を創り出した大元はそこに映ったものを直ちに現実にする傾向がある。
心が積極であれば積極な様に、映ったままに現実に現れてくる。
だからどんな場合であっても消極的であってはいけない。
心の思い方の程度に応じて良くも悪くもなるということが判ったろう。
恐ろしいほど連動しているのだ、電線みたいなものだ。電線が細けりゃ流れる電流は少ない。
人間の命は造物主の力で生きているのだ。その造物主が最高のものとして創ったのが人間だ。
そう簡単に病になるものではない。私がこうはっきり断言出来る戦争中の経験がある。
野戦病院の経験だが、気の弱い奴は死なないような病でもあっさり死ぬし、 気の強い奴は死ぬ病でも持ち直すといった光景を幾度も見た。
そんな経験があるのだ。だから理論研究で言っているのではない。
人生を価値高く生きようと思ったら心の思い方考え方を程度を高めて生きなければならない。
それには「力の誦句」である。この誦句を唱えることは宇宙エネルギーを完全に受け入れる用意をしたことになる。
出来るだけ多く口ずさむ事である。
安定打坐をしながらすると自分の方から宇宙エネルギーの中に飛び込んでいくような結果になる。
万物の霊長として生まれた歓びをしみじみと味わえる様になる。
たとえ今、健康や運命が思わしくなくともそんなものに関わり合いになる必要はない。
生きている間はこの与えられている力を充分に使いこなさないといけない。
たとえ悪いことが起こってもスムースに解決する力が与えられている。
あえて努力しなくても体の中から沸き出してくるのだ。
宇宙エネルギーから受け取っているのだから。
生きている毎日が本当に楽しい毎日に生きることになるんだから。
―――――――力の誦句――――――――――――
折りある毎にこの誦句を口づさむんだ。特に病や運命に問題がある人はこの誦句を出来るだけ多く口づさむこと。
心の態度を積極化させないと本当の幸福は味わえない。
心の態度が積極的でないと28通りの価値のない思い方、考え方で人生を生きてしまうという 価値のない生き方をしてしまう。虚心平気、事ある時も事なき時も同じ心持ちが積極心なんだよ。
世の中の多くの人は何か事あるとすぐ心がその事柄に引きづられて惨憺たる有様になってしまう。
諸君は自己認証を学んだ。限りない力に囲まれていることも理解できた。
虚心平気の心持ちの時にその力が一番多く与えられるということも教えたね。
感謝の気持ちの大切さも言葉の重要さも教えたね。これらは全て心を積極的にするための教えなのだ。
さて、今日は信念の渙発について説明する。信念の重要さについては昔から言われているね。
釈迦もキリストも言っている。信念なくして成功した人はいない。
その様に大切な信念は心を掃除する以外に出てこないよ。
観念要素の更改を寝がけに真剣にやるんだよ。心の掃除をすれば信念が自然と出てくるのだ。
よそから持ってくるものじゃない。心の中に元々あるものが下積みになっているだけだ。
観念要素の更改を真剣にやって上の邪魔なものを掃除したら自然と出て来るんだぜ。
さあ、これだけの人間の中で何人の人間がこの事を自覚することが出来るか。
―――――――――――信念の誦句―――――――――――――
やたらと心配したり、怒ったりしているのが現代人の心だ。
その中でも一番気を付けないといけないのは恐怖だ。恐怖観念ぐらい価値のない結果を人生にもたらすものはない。
いい結果は何もない。因果律の法則である。
ものを怖れる感情が発動した時は本人は気がつかなくてもその観念は強烈に固定される。
「おっかない、おっかない」と思っていると何時かそれが現実となる。
勇気が欠けているから恐怖するのだ。
体が強いに越したことはないが心に勇気がないと、その生命は十分にその力を発揮できない。
生命を完全な状態で生かすには、その本体の霊魂を汚さないように、けがさないようにすること。
それには心をけがさないこと。そのためには積極的な態度を崩さないこと。
それを崩す最大のものは恐怖である。勇気が欠けているとすぐに恐怖する。
勇気があれば虚心平気で対応出来る。勇気がないと恐怖心や不安を簡単に感じてしまう。
勇気が満ち満ちてくると自分で考えたようになる。力が出てくるのだ。ものが恐ろしいのは勇気がないからだ。
何時も言う通り「晴れて良し、曇りても良し富士の山」である。
昔の兵法でも「勇気は常に勝利をもたらし、恐怖は常に敗北をもたらす」というのがある。
この事を判っている人がいない。どんなに恐ろしいことがあってもそれを心の中に入れなきゃ恐ろしくないだろう。
簡単なことだ。どんな場合があっても虚心平気の人が勇気のある人だというのだ。
出来るだけの努力をして勇気をつけること。その方法は観念要素の更改をしっかりやることだ
熱心さを欠いてやっていると何年やっても効果がない。
現在何事もなく平穏無事な人ほど気を付けないといけないよ。知らない内に心がだらけているからね。
そのためにも観念要素の更改を真剣にやらないといけないよ。
それと同時に大切なのは暗示だね、出来るだけ勇気のある人と交わることだよ、
日常の実践に情熱を持ってしなけりゃいけない。
自分から進んで恐ろしい思うことに積極的にぶっつかって見ることだ。
自分は勇気があるかないかぐらいは知っているだろう。
人間はありがたいな、修行をすれば必ずそれに応じた成果が出るのが人間なのだ。
本当にこの世の中に恐ろしいものなんかあるもんじゃない。本当に恐ろしいものはない。
恐ろしいと思う心があるだけだ。こう言って判らなけりゃ、勝手にしろと言うしか仕方がない。
本当に恐ろしいのは死だけだ、その時は死んでしまっているから仕方ないじゃないか。おっかないもくそもない。
―――――――――――勇気の誦句―――――――――――――――

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26. いつまでも若々しく生きよう

1.A面「いつまでも若々しく生きよう」安武先生との質疑応答形式 55分
2.B面「命の力の自己認証」昭和43年8月 京都夏期修練会真理瞑想;力の誦句 
3.B面「平素の心の持ち方、使い方」天風会創立50周年祝賀記念講演テープ
  (昭和43年11月ご自宅でテープ録音、それを会場で流したと記録がある。
「いつまでも若々しく生きよう」
物質的な方面ばかりで若さを保とうとして肝心なことを忘れている。
何をおいても精神的な態度を若々しく堅持することが肝心かなめな事である。
どうして心がそれほど、物質的な肉体に優先して大事なのか。
人生を判っているという人でも身体に対する理解に比べて心に対する理解はとても貧弱だ。
心が重大だなんて考えている人は少ない。
心と身体は別々だと考えている人が多い。人間がこうして生きていられるのは何の力によって生きていると思うか。
どういう生活機能の働きによって生きているのか。食って寝て垂れてるから生きてられというのは回答にならない。
神経系統の生活機能によって生かされていることを知らなければならない。
自律神経というのがあるがこの神経はありがたいことに意識の支配を受けずに機能している。
宇宙エネルギーと直接結びついている神経である。
しかも、生きている限り不眠不休で働いている。意識の支配は受けていないが。
意識の状態にデリケートに反応する。梅干し見ただけで口の中が酸っぱくなるだろう。好きな人を見たら顔が赤くなるだろう。
だから、病になっても一寸でも気にしては駄目だ。そんなことをするとすぐに本来の自然治癒力が弱ってしまう。
意識の状態はものを鏡に写すように間髪入れず、ストレートに自律神経に影響を与えるということを忘れてはいけない。
心が体に与える影響というのは恐ろしいというよりも凄まじいものだということを忘れてはいけない。
どの様にしてこのような事に気付いたか。私自身の自分の心の哀れな衰えを取り返そうとして一生懸命研究した。
法律を破って密航をした位だ。世界を回ったが判らなくて最後にインドへ行って修行をしてわかった。
帰国して周囲の人を見ると皆、肉体本位で生きている人ばかりでそれぞれ苦しんでいる。
何とかして上げたいと思ったが私がインドでしたような難行苦行をさせるわけにはいかん。
その様な難行苦行無しに理解させる方法を考えてみたいと思った。
きっとそんな方法があると私は思ったんだ。それには先ず、何故、難行苦行で心が作り替えられたかを考えた。
そんなことを6年間考えている内に、観念要素の更改法とか積極観念の養成法を考え出したのだ。
難行苦行をすることは、条件反射の暗示連鎖作用を応用することなんだよ。
判りやすくいうと、雨だれがいつかは岩に穴を空けるという話と同じだ。
同じ事を繰り返し繰り返し実行していると自信がついてくる。
難行苦行で自己認証が出来るのだ。病になっても忘れりゃいいんだ。忘れろっと言ってもやり方が判らないと忘れられない。
人生の一切は心の作り替えを私の教える方法で実行する以外にない。教わっただけで実行しなけりゃ身に付かない。
燃えるような情熱を持ってやらなければ駄目だ。私などクンバハカは日に何百回とやっている、諸君はどうか。

自分の人生を恵まれた命に生きたけりゃ私の教える方法を実行しなさい。

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27.入聖開悟の誦句

01;自覚と悟りの違い
とかくこの真理を自覚することと悟りを開くっていうことを同じように考えている人が多い。
02;自覚と悟りの違い
西洋には「悟り」という言葉が無いんであります。自覚という言葉以外には無いんであります。それが為に自覚と悟りを混同して同じものの様に思っている。
03;「悟り」の心的状態とは
そこで単刀直入的にしからば悟りの真の意味はというと「我は今、我が心の中にこの世の全てのものを正しく悟り得る偉大なる光あるものが宿り居ることを厳かに信ずる」というこの光あるものであります。その光あるもの何だというと、自分の本当の心で物事を断定し得た時の心的状態が悟りなんだ。これは自覚じゃ無いのであります。自分の本当の心で物事を断定し得た時の心の状態。
04;「自覚」の心的状態は
自覚というのはそういうもんじゃ無いんだ。理性念でそのものの善悪邪正を判定しながら最後の自分の承認の出来る解決策を自分の心に掴んだ時の心持ちが自覚、consciousness 、大変な違いでしょ。
05:理性は真実の心ではない
理性っていうのは本当の心じゃ無いってことはもうあなた方もお判りの通り。精神生命の中の一つの心の働きに対する形容詞。本当の心というのは霊魂についている霊性意識なんだ。霊性意識と理性意識が違うことは判るね。
06;悟りは霊性心のなせる技
俗に、本心というあの名で呼ばれているものが霊性意識なんだ、つまり霊魂にくっ付いている心なんだ、だから、悟りっていうのはもう判ったろうけど真理を自覚するって事ではない。真理の自覚は理性心なんだから、悟りは霊性心だ。
07;普段思ったり考えたりする心は本心ではない
そこでその悟りなるものを実際化する本心、いわゆる人間の本当の心とはそも一体どんな心かというと普通の人が普通の時思ったり考えたりする時働かせている心じゃないんであります。普通の感覚や感情から超越した今も言った真我の本体たる霊魂という氣から発露する心でこは是将に冒すべからざる絶対的なものなんだ。そうして一般普通の場合我々が思ったり考えたりする時に使っている心は今言ったような一番高い真我から発動する心じゃないんだ。概ね多くの場合は五官感覚に付随して働いている、仏教の方でいう小我の心、天風哲学でいうと動物心、理性心。動物心は本能心ですね。理性心は人間の心だと、こういう風になっているんです。動物心と人間の心と違うのは人間だけしか理性心がないからだ。本能心の方は動物の誰でもがある。犬でも猫でもバッタでもコオロギでも。従ってそれは勢い相対的なものだってことは直ぐに考えられるだろう。絶対的なものじゃないんだ。だから悟れたとか、悟りを開けたというのは、今も言う真理を自覚したという相対的なことではなく前に述べた様なもっとずっと高い絶対的な心が発動した時の心的状態をさして言うんだ。
08;相対的な心の限界
ヨーガ哲学では人間の心を9つに分けている。そして絶対的な働きを行うものをその中の2つとして残る7つのものを相対的な働きをなすものとしている。そして、相対的な心だけで人生を生きると人生は迷いと悩みと悶えで生きなけりゃならない羽目に陥ると説いているのであります。
09:何人にもある心
何れにしてもありがたいかな実に人間はこうした尊厳な心が光となってしばしば我らを無明の闇から救い出してくれるのであります。キリスト教の旧約聖書の中にもこういうのがあるね「人間自体の中には普通の人が気が付いていないけれどもそこに自分自身を本当に幸福に生かしてくれる絶対的な国がある」って。キリスト教は体の中に国があるとこう説いてあるのですがそこへいくと仏教の方は「心の中にその人間を安楽にする極楽の園ある」。その点は常識哲学でこしらえられたキリスト教よりもはるかに人間の心を今の心理学で考えると立派に心理の方面から考えている仏教の方が内容に深さの深いものを感じないわけにはいかないのであります。
10:普段思ったり考えたりしている心は本心ではない
我々が常々思ったり考えたりして使っている心というのはこの霊性から出ている本心がしょっちゅう出て我々を生かしているんじゃないんだ。それを私は気づかなかったんだ。
11:人間の命に与えられた完全なもの=本心
こういう問題を与えられた。「人間の命の中に永遠に不変にして完全で円満で具足のものがある。考えろ」それだけなんだ。人の命の中で永遠に不変で完全で円満でかつ全てが備わっているものがある。それは何だ、考えろ。数日瞑想した結果、ああこれは人間の悟りの鍵を握るいわゆる本心だなあと気付いたんであります。
12:人間の命に与えられた完全なもの=本心
人間の真髄たる魂の中には一切のものを知り又一切のものを産み出す所の力あるものが宿っているんです。それが本心なんです。そしてそれが活動して悟りを開かす働きをなすんです。
13:日常生活にもある本心の発露
偉大な発見、何も高等数学ばかりでなく何事に対しても普通の人間が考え切れない事柄を考え出すというのはこれは悟りの力だから。それはつまり本心が動的に活動した時に生ずる現象の中にそれが表れて来るんだ。
14:本心の発動と悟りの関係
悟りなるものを現実化するのが本心だとするとそれじゃどういうわけで本心が発動するとそうした微妙な現象が表現するかということなんだ。こいつは判かっときゃなきゃ駄目だよ。これを科学的に説明するから。15:見ゆる世界の背後に見えざる世界がある。
本心が発動するとどうしてそういう微妙な現象が表現するか、学問をしない人間も学問をした人間より以上の不思議な心に発見が出来る。これが悟りですね。これ、どういうわけかというと、科学的説明だからよく判るだろう、第一に我々がはっきり理解しなきゃならないことは、我々の見ゆる世界の背後に見えざるものがあってその見えざるものが制限あるものの背後に制限を作っているのであります。
16:ものができる前に既にあったからできた
我々の見ゆる世界の背後に見えざるものがある。我々が見ているものは見てるものそのものがそこにそのものの働きで存在している様に思うのは我々の五官の惑いであります。そこにあるものが出来る前にその出来るものと同様の見えないものがあったから出来たとこういうことになるんでよ。
17;その見えざるものに通じているのが人間の本心
制限あるものの背後に制限無きものがある。これが宇宙に存在する絶対真理。科学的な。これを考えてご覧。そしてその見えざるもの、制限無きものと人間の本心は霊魂を通じて連絡しているんだ。
18;その見えざるものに通じているのが人間の本心
もっと正しい考え方はその制限無きもの、見えざるものという絶対的なものが人の霊魂を通じて心に現れ出たる時を本心というのだと考えりゃ一番順当な考え方だから判っただろうなあ。
19:見えざるもの、制限無きものとは造化の妙の根本主体
さてそこでこの見えざるもの、制限無きものとは何だろう。見えざるもの、制限無きものというのはこの宇宙の法則の造り主、一切の全ての造化の妙の根本主体。
20;物理的な素粒子が全てではない。
科学者の方から言うと宗教家のいう神、仏というのはプランク定数Hだ。ありとあらゆるこの宇宙の物という物の一番の根元をなすところのプランク定数Hだと、こう科学者は言ってんであります。私はそうだとは思わない。私はもう一歩奥に我々の正しい論理思索を振り向けてみるべきなんだ。
21;素粒子を素粒子あらしめている本体が神
科学者の論定から言ったら神・仏が相対的なものになっちゃう。神・仏が物質的なものになっちゃう。プランク定数Hなんて物質なんだから。ただ、普通の物質と違うのはこれは普通の物質は形あるものが必ず変化するがこのプランク定数Hだけはプランク定数Hとしての存在は永久に形が変わらない。それから胚胎されたる動きによっていろんな森羅万象が出来る。これだけは違うけど、これを以て絶対視することは科学者として少し乱暴な断定なんであります。そういう風に神・仏を考えると神・仏が相対的になっちゃう。だから天風哲学はどう考えているっていうとこのプランク定数Hを造ったものが神・仏だと、こう言いたいんです。
22;つまり大自然である。
これを科学的に言ったらnature、日本語で言う大自然なんだ。大自然が神、仏なんだ。で大自然がこれを造ったんだプランク定数Hをね、だから法則の造り主、ありとあらゆる一切の宇宙の根本主体は大自然なんだ。
23;霊魂も大自然の一部
見えざるもの、制限無きものというのは大自然のことを言うんだよ。その大自然がある分派を造ったものを霊魂といいその霊魂の中に大自然の働きが連絡されているから従って本心発動の時は万象を見通す力があるって、こういうわけなんですよ。あなた方だって本心が出りゃとっても偉い人間になれるわけなんだ、ただ、出りゃだよ、出なきゃ何にもならない、ね!。
24;本心の発現は神との一体化を意味する
この事実の推定結論として本心が発動した時こそは宗教的に言えば神、仏と崇める絶対的なものと自己とが一体化した時だと言えるね。同じものが同じに出てきたんだもの。
25;その瞬間は神格化した人となる。
だからそういう時はその人は立派に一つの神格を造った人になるんだ。たとえ瞬間であろうと、悟りを開いた時は、その悟りを開いた時の心持ちを持つ人は神格化した人なんだ。
26;神、仏は形ではない
どんな場合であってもこの神、仏というものを形で考えちゃ駄目だよ。
27;神、仏は形ではない
正しい悟りを開こうとする者はどんな場合にも神、仏を人格視せず、神、仏を法則視しなけりゃいけないんだよ。精神的なものなんだから法則視しなきゃいけないんだ。形ないんだもの。
28;神仏は創造の力の根元
但し、ここで又言葉にとらわれないこと。法則視せよということは法則だと考えよということじゃないぜ。言葉に拘泥してからに理解を誤ると正しい悟りの本当の気持ちが判らない。天風哲学が神を法則視せよと言っているのは神、仏と称せらるるものは峻厳なる法則の鎧をつけて厳然として控えている目に見えないものなんだ。制限無く万能の力を持っている知るべからざるものであり、しかもいつまで経っても変わらない不変なもので永久的なものなんで、従って無限なもので完全なものなんだ。だから我々はそれをただ一つに比較を超越した絶対的なものだと考えりゃいいんだよ。比較を以て考えちゃ駄目だよ。もっと適切な考え方はねえ、神、仏とはあらゆるものを造る創造の力の根元。
29;神仏は創造の力の根元
神とはあらゆるものを造る創造の力の根元。
30;従って神は一切智と無差別愛と無限の愛
この考え方がいたずらに理屈の方面から神の正体を探ろうとする無駄な労苦を敢えてするよりは最も正確に神なるものを法則視して考える正しい考え方なんだ。そうしてこう考えるとその神なるものの持つところのものが一切智と無差別愛と無限の愛だという事も即座に考えられるね。これが結局仏のみちになってるんだ。
31;相対的なもので絶対的なものを見ることはできない。
その働きが現れだけは感ずるだけでもって見えないもんなんだ。どんなことしたって神を見ることは出来ない。働きは感ずることは出来ます。普通の場合に於いて人間の心的状態ではせいぜい良いところで理性心位しか活動してないんだものね。多くの人は。悪くすると理性すらも活動せしめず感情情念や動物的本能心のみで終始していることの方が一日の内多いんだろう。理性心や動物心じゃ神と称するものを見ることはおろか感ずることもできないでしょう。何故、それはねえ、理性心は由来相対的なもの、大自然いわゆる神なるものは絶対的なものなんだ。相対的なものでは絶対的なものをどうすることもできない。これが宇宙真理なんだ。判りやすく言えば無限の力を以てしないと見る能わざるものを有限の力しかないもので見ようとするのは丁度視野限界のある望遠鏡で宇宙の全体を見ようとするより先ず出来ない相談だ。だから理性心では永遠の見えざる光の中に実在する神と称するものは片鱗すらも発見することは出来ない。これ、当然なんだ。だから我々は見えないものを見ようとするよりは理性から超越して、理屈を飛び越えて神なるものを創造の根元の力なりと考える考え方を信念すりゃいい。
32;ただ信ずればよい。
大自然と称する神の命の中に無限があって不変があって建設があって完全があると信ずればそれでいいんだよ。簡単に迷いは解けるわけなんだよ、そこに。そして単に信ずるだけでなく人間がひとたび安定打坐によって心の中が本当に塵一点の曇りも無いものになるとそこにスーっと霊性心いわゆる本心なるものが渙発するんだ。すると神の中にある、大自然が包含する尊い以上のものがその時は人の命の中に入り込んでくる時なんだ。不可分の神聖なる結合が出来るんだ。united in one and all って状態になるんだ。
33;真理は神であり、神は真理である。
およそ真理とは自然の造ったものだね。自然が神だね。だから言い換えると真理は神の現れだと言えるね。従って真理とは神で、神は真理なりと言えるね。もう一編言おうか。真理というのは自然に出来たもの、そして自然というのは神だ、だから言い換えると真理は神の現れだと言える。従って真理とは神でさらに神とは真理なりと言える。判ったな。
34;この世の一切は真理によって支配されている
この世の一切は全てこの神、科学的に言えば真理によって支配され、真理によって支配されていないものは何物もない。
35;本心の発現はこの真理との一体化を意味する
人が本心を渙発するとこの本心なるものは真理の造り主たる絶対的な神なるものが人の霊魂を通じて人の心に現れ出たる時の状態をさして言うんだから、従ってこの本心はもちろん真理と共通しているわけだ。だから、この心が渙発すれば刹那その心を通じて我が生命は真理と一体化して来るのが当然な事実となる。
36;霊性意識の発現した人間
人がひとたび霊性意識を発現することが出来るようになるとしばしば霊感が発現し、霊感が発現すればその人の人格はいわゆる一段と向上して神格化し古来いうところの善知識とか、あるいは聖哲とか、あるいは哲人という大悟徹底した特殊の神懸かりの人となって、又そうなるとさらにしばしば閃光意識いわゆるフラッシュセンスという瞬間に大局までも、いわゆる宇宙の先天の一気をも認識する超意識が発動していわゆる神と称せらるる自然というものを明瞭に精神的に認識すると書いてあるね。
37;平素の心掛け=本心の渙発
とにかく我々は平素何をおいても第一番に何時でも随意随所本心が渙発出来るように自分の心をしなきゃいけないんだよ。それが今日の目的なんだから。如何に万巻の書を読み、如何に研究的にいろいろの物事を窮め尽くして、さらに又、出来るだけの努力をして信仰に帰依してもだよ、この本心の渙発法を徹底しないと所詮は正しい悟りを得られないわけなんだ。
38;平素の心掛け=本心の渙発
常にその心をして思考せしめることを努めて真善美に付いてのみであらしめる様に心がけ努力せよと、説かれた真理瞑想を思い出してご覧。人間の心の中で一番高い階級の尊厳な本心の渙発法は唯単に今言った様な心掛けを実行すりゃいいんだ。安定打坐するのも結局は自分の心が真善美以外に脱線しない様な清い心にするためだねえ。
39;平素の心掛け=本心の渙発
平素出来るだけその心をして思考せしめることが健康に対しても運命に対しても否、人事世事一切に対しても真善美以外に走らぬ様心掛けることを心掛けりゃいいんだよ。それがもう立派に安定打坐の目的に合致するんだ。
40;平素の心掛け=本心の渙発;実施上の注意点
特に言い足しておきたいことはそれだけのことが判ってもだよ、いざとなると何時しかその心が真善美以外に遠く脱線して折角の自覚もあわれ無価値にされてしまうことが往々ある。そりゃあるよ。そりゃ一体何故だろう。仮にもそうした心掛けを実行しようとする正しい理解が心の中にあるのね、それには一つ大切なことがあるんだよ。忘れられた大切なことがあるんだ。それは何かというと弁別ということなんだ。弁別というのは詳しく言うと自分が現在思い考えつつあることが真善美のいずれかに当てはまっているか否かを常に念を入れて厳かに吟味する事が弁別なんだ。内省検討だよ。
41;平素の心掛け=本心の渙発;実施上の注意点
この弁別が無いといけないんだよ。俺はもう悟れてると考える。自惚れしちまうと。仏教の教えにもあるね。「此処をしも、悟りの峰と思いなば、迷いに下る始めなりけり」「あっ、悟った、もう大丈夫だ」っと思っちゃいけないんだよ。それからまだ先に一つ山越え、2つ山越え、おてもやんじゃないけどそれでもう良いと思うとどういたしまして、雲路はるかの向こうに又山あり、又山あり。行けども行けども山、山、山。一つ悟ってこれで良いなんて思ったら大変なことだ。だから弁別心というのは今言ったこれで良いってことが無いんだから、しょっちゅう自分でわきまえていかなきゃいけない。かりそめにも悟りを開き尊い人生に正しく入らんとする者への一大至難の秘訣だよ、これが。この弁別ということが完全な注意で行われるようになると自然と心の態度も真善美から脱線する率が少なくなって従ってその当然の帰結として本心渙発の条件が立派に備わることになるわけなんだ。
42;平素の心掛け=本心の渙発
本心がひとたび渙発すれば刹那絶対と一致する。だから敢えて深く真理を理論的に究めずとても自然と人間の生命に絡まる宇宙真理はもちろん人生にてんめんする一切の真理は皆釈然として解かれる。人間の生命の強さや、偉さや、尊さや、ありとあらゆる一切私が悟れたのも結局は学問じゃないもの。私ばかりでなくあなた方だって勿論そうなるんだ。人生期せずして恵まれて豊かなものになれるように出来て入るんだ。要するに人生の一番大事なとこはこういうとこにある。これがいわゆる悟りの道、入聖開悟の悟諦なんだ。だから今日から改めて既に判り切ったことだろうけどいかなる場合であろうとも霊性意識いわゆる本心を渙発して処置することが一番尊いんだということを考えなきゃ駄目だよ。
43:平素の心掛け=本心の渙発
新鮮で正確な感受性というものは、これが無きゃ人生というものはいけないんだよ、この新鮮で正確な感受性というものは積極的な心で周囲に働きかけていく生き方でのみ作り上げられる。真善美を崩さずに自分並びに自分の周囲に働きかけていく心で生きなきゃいけない。そうすると新鮮で正確な感受性が自分の心にも出来て来るんだよ。
44;平素の心掛け=本心の渙発
真の知性とは積極的な情熱によって鼓舞されること無しには正しく発展しないのであります。つまり本心が渙発されないと本当の智というものが出てこないんです。そうするには積極的な情熱によって自分の心をしょっちゅう弁別していかなきゃいけないんだ。真善美という尊いものでピシッ、ピシッと打っていかなきゃ。
45;情熱の無い冷ややかな知性ではいけない
情熱の無い冷ややかな知性というものは唯学問をして理屈ばかりでこしらえ上げられた知性だ。詰まるところ行為の伴わない思索と同様なんだ。これを傍観者的という。
46;積極的な思索と行為の統一
真の歓びを感ずる驚嘆は、もう止めどもないうれしさを感じる驚きだ、積極的な情熱と知性の結合と同時に積極的な思索と行為の統一から生まれる。これが私自身の人生に生きる時のモットーです。
47;日常の人生に生きる時の心掛け
だからなんもかんもその一番の大根大元は日常の人生に生きる時の心掛けが真善美以外であらしめちゃいけないって事になるわけだよ。簡単なんだよ、結論は。
48;入聖開悟の悟諦
入聖開悟の悟諦
吾は今 わが心の中に、この世のすべてのもの
を正しく悟り得る、偉大なる「光り」あるものが宿り居ることを
厳かに信ずる。
この「光り」こそは この世に在る唯一つの絶対たる宇宙霊が、
わが霊魂の中に与え給いし慈悲の雫である。
この「光り」こそは わが命と宇宙霊とを、確実に結びつくる
くろがねの鎖である。と同時に
更に真理の扉を開く秘密の符丁を知る金鍵である。
そもやこの「光り」が、わが心の中に燦然として輝かば、
尊しや 宇宙霊は 世の人々のいう「神の啓示」なるものを、
量多くわれに与えたまう。
そして その能わざるなきの力を以て、迷いに眩むわれ等の心の眼を
正しく開かせたもう。
さらば 吾は今 この厳そかなる法則を、虔《つつま》しやかに行わんがために、
心の歩みを 宇宙霊に従わせて、ひたすらに真と善と美のみの上に運ばせ
よう。常に入聖指南の「弁別」の灯(ともしび)を手にして・・・・
そしてひたむきに この「光り」の発現に努めよう。
さすればこの妙なる「光り」は、やがてわが心の中に美しき悟りの花を咲かせ、
その稔りを豊かにして、わが命は 常に おののく如き歓びに満たされん。

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32.坐右箴言

無念無想の境地からもう一つ上の三昧の境地に入ると、宇宙の先天の一気と合致し、霊的境地になる。
そうすると、日常に生きる刹那刹那、順動仮我境に生きれる。
磨けばダイヤモンドになる心も何もしなければ泥石と同じである。
ダイヤモンドを貰いながら、泥石を貰ったのと同じである。
だから、折角貰ったダイヤモンドなのだから、しっかり磨いてダイヤモンドにしなければならない。
天風教義の目的は、人生を第一義的な生き方に生きることである。
第一義的生き方とは、どんな場合でも、病があっても、運命に非なるものがあっても、 心の中に幸福を感じせしめて生きる生き方である。
そうでなく、悲しい事柄があるから悲しい、苦しいから苦しい、つらいからつらいと感じる生き方は、第二義的な生き方である。
天風会では、そのように第一義的に生きる生き方として積極的な生き方をするように教えている。
何時も言っているように「強く、正しく、清く」である。
現在只今の境涯を感謝しない人はますます不幸になる。
自分で、「もっと不幸になれ、もっと不幸になれ」と自分を煽っているような人だ。
逆に、それ程でもないのに、今を感謝して生活する人は、立派な天風人である。
どんなに金や地位があってもそれだけで幸福にはなれない。
人生の幸福はその人の心を切り替えない限り感じることが出来ない。
人はだれでも幸福に生きられるように平等に神様はお造りになった。
この人は幸福に、この人は不幸になんて不公平なことはしない。
にもかかわらず、そのように感じて生きている人は少ない。
同じ時代、同じ所に住みながら、それこそ同じ家庭で育っても、一方で不幸だと感じる者がおれば、 一方で幸福だと感じる人がいる。
幸福なんて、「もの」じゃない「心」なんだ。
「そんなこと言ったって、とても幸福だなんて気持ちになれない」なんて思ったら駄目だよ。
病気とか、悲運とか何か非なるものがあるのは幸いなのだよ、相手があるからね。
何もなければ、暖簾に腕押しだよ、何もかも満足していたら、こんなつまらない人生はないよ。
人間は習慣の動物だ。何にでも感謝する習慣をつけ、何事に対しても感謝出来るように生きなさい。
実際死なずに生きており、こんな人生の真理を考えることが出来ることを喜ばなければいけない。
こんな事に気づかない人はあわれだ。間違った考え方が神の無限智との冥合を妨げている。
とにかく、宇宙真理をもっと大切に考えなさい。人間が作ったものじゃないんだから。
人間自身思い方考え方が左右しているのだ。
普段からそのように習慣づける事が必要だ。
何事に対しても歓喜と感謝の世界に生きなければならない。こんな人には幸福が来る。
もし苦しい事情があってもそれに関せず、それに関わらず生きれる事を感謝するべきである。
苦しいことや、悲しい事柄を考えずに、真なること、善なること、美なること以外は考えないようにしなさい。
これさえ悟れば暗闇のトンネルから明るい陽光の中に飛び出したような気分で生きられる。
病や不運はあるべき姿ではない。あるべき姿ではないから病は治るのだ。
あるべき姿であるならば、治るはずがない。
完全で有り能う様に出来ているのがこの世界なのだ。
この世に実在するのは宇宙霊ただ一つである。
これから生み出されたのが肉体であり、心である。
自分の心の中に消極的なものが発生したら直ちに、
そのことが誤りであることに気付かなければならない。
――――坐右箴言の誦句―――――

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37.長生きをするには

本日お集まりの方々は60前後の方が多いとお聞きしましたので本日の演題は「長生きをするには」ということでお話します。
人間として生まれて誰一人として早く死にたいと思う者はいない。しかし、長生きの人は少ない。それは生きられる命を完全に生かさないで、完全に生かすのを妨害する原因があることを知らないでいるからでは無いだろうか。自分の生存力を強固に確保することが大事だ。命有っての物だねだからね。現在の人びとは生活に注意を振り向ける割合に、生存に注意を振り向けていない。それが証拠に60になった人で何処も悪くない人は少ない。半病人以上の状態で生きている人が多いのは生命の生存力をどうしたら強固に出来るか考えていないからだ。たまにこんなことを研究している人がいても末梢的な事柄ばかりで根本的なことを考えていない。人間生命の生存の中枢となっているものが何であるかを考えなければいけない。医者が医学を勉強しているにもかかわらず長生きの人が少ないのは本当に学ぶべきことを学んでいないからだ。それは何かと言うと、神経系統の生活機能を完全にすることです。一番医学の中で遅れているのは神経系統の研究なのだが食うこととか着ることとか生活の抹消に関する事ばかりやかましく言う。どんなに栄養を摂っても身体に取り入れることが出来なければ全て排泄されてしまう。生きる力の中枢が完全でないと末梢的な手段だけでは末梢的な効果に終わってしまう。何を食うかで解決するならこんな簡単なことは無い。一番肝心かなめな基本的なことを忘れている。家を建てる時に大切なのは基礎であると同様に人間にとっては神経系統が生命運営の中枢になっている。神経系統の生活機能を完全にするには心の持ち方が大切だ。心をいかなる場合であっても積極的に把持しなければならない。明るく、朗らかに、生き生きと堅持しなければいけない。神経系統に直接影響するものは心なんであります。従って長生きの秘訣で一番最初に挙げたいことは、どんな場合であっても心を消極的にしてはいけないということです。心の持ち方を恬淡、溌剌、颯爽たる状態で持っていないと神経系統の生活機能が萎縮してしまう。その結果生きる力が衰えてしまうことになる。 第二に必要なことは血液とリンパを純潔にしておかなければならない。どんな風にしておくことかというと純アルカリ性でなければならない。血液が純アルカリ性であればバイ菌が体内に入ってきても冒されないで済むありがたい結果を招く。リンパが純アルカリならば強力な殺菌力がある。風邪などもひかないし、頭痛もなけりゃ肩もこらない。疲れやすい身体は血液やリンパが純潔でないからだ。多くの人が70近くになると疲れやすくなるのも血液とリンパが純潔でないからで、純潔に保てばそんな風になるものではない。それでは、血液をアルカリ性にするにはどうすればよいか。一番最初に気をつけなければならないのは食べ物である。どんなものを食べれば血液が弱アルカリ性になるかというと、蛋白質は植物性のものを摂るのが一番良い。蛋白質を動物性のものから摂ると副産物として尿酸が生成される、これが身体に良くない。膠状態の尿酸が血液の中を流れるため血管に沈殿し動脈硬化を早め血圧を上げる。私も若い時、医者から薦められて毎日大量の動物性蛋白を摂取したことがあるが40そこそこで血圧が160にもなった、早く気付いて止めたから良かったがあのままでは死んでしまっていただろう。動物性蛋白を摂取することはバイ菌の繁殖力を助けるだけだ。インドへ行った時ヨーガの部落では米を栽培しているがそれは砂糖などとの交換用で口にしない。主食は「ヒエ」である。我々はカナリアの餌にしているヒエである。それを水付けにしたものを、つまり火を加えていないものを口にすすり込むだけだ。噛めやしない。そしておかずは芋やゴンボや大根だけ。肉や魚は金輪際無い。殺す時に声を出したり、動くものは口にしないんだ。こんなんで一日1000Kcalあるかないか位しか口にしない。こんな栄養で大丈夫かと質問したら。「あの像を見ろ、あれはお前より小さいか?」「………」「わらやゴンボの根っこを食べているだけだろう、象の痩せたのを見たことあるか」と言われた。そんなわけで仕方なく出されたものを食べた。不思議なもので、本当に腹が減ってくるとまずいもうまいも無い。何でも食べられる。最初は情けない気持ちでいるが腹が減れば何でも口に入るものなら食べたくなる。しかし、果物はその辺に栽培されているので良質なものをいくらでも口にすることが出来た。そんな風にしている内に不思議なことにそれまで8年間午後になると必ず出ていた熱が出なくなリ、血痰も出なくなりとどんどん体調が良くなってきた。最初はそれが食物のせいだとは気付かなかった。気候のせいだと思っていた。そうこうしている内に身体に肉が付き出し半年間で5貫目も増えた。半年間で身体は完全に元気な状態に治ってしまった。もちろんこうなった背景には、食物だけでなく先に話した心も大いに関係するのだが私の身体の回復には食べ物が大きく関係していることに気付いた。それ以降現在でもどんな御呼ばれの席でも野菜と果物以外は口にしない。 人間が長生きをするという大きな事業は、まさに大事業であるが、「そうありたい」と思うだけで実現できるものではない。細心の注意で実行されなければならない。更に、単に長生きするだけでなく力強く生きなければならない。この中で70を越した人で2里を駈けれる人がいたら一緒に駈けましょう。これだけ私が元気でいられるのは、結局生命の生存力が強いからだ。これが弱いのは心の持ち方に問題があるか、食べ物に問題がある。皆さんも今日から一切動物性の蛋白質を摂らないようにすると半年も経たない内に身体の調子は変わってくる。ただし、3ヶ月ほどは体重が減るのは覚悟しておけ。半年経つと元へ戻る。その人間の健康を保持するのに必要な体重だけは戻ってくる。仕事等の関係でこれが実行できない人はせめて四足のものは摂るな。そして、野菜と果物を一生懸命食べるようにすると通じなどは実に快適ですぜ。一日に2度あるのが理想的なんだけどせめていっぺんはしなけりゃいけない。 次に必要なのは睡眠と運動。これらは少な過ぎても多過ぎてもいけない。それぞれ個人にとってそのレベルは違うが要するに快適に感じる程度が大切。 それから皮膚の抵抗力を強くすること。せめて冷水摩擦ぐらいはしましょう。私は毎朝10分ぐらい水風呂に入っている。寝がけにもするより一層良い。そうすれば断然風邪をひかないようになる。風邪は身体の生存力がバロメーターを低くした時の現象なんだからね。皮膚の抵抗力を強くすると風邪をひかなくなる。それが証拠に顔から風邪をひいた人はいない。 更に折りある毎に、時ある毎にたとえ一息でも二息でも深呼吸をしなさい。空気の新鮮、不新鮮よりも肺の抵抗力を強くすることが大切。深呼吸をするときは吸い込むことを先にせず、先ず肺の中を空っぽにすることを先にするんだよ。 最後に何故、心の持ち方が大切かを説明する。人間の身体は細胞で出来ているがその細胞の中にも神経がある。従って心の状態が消極的になると神経を通じてその影響が細胞に出る。このように心というものが結局人生支配の総司令官だと思えばよい。

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