講演内容
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「中村天風師の講演テープ」のページを再オープンいたしました。
What's New!
2017年2月7日 Now is the latest moment
2016年11月8日 心と身体の関係
2015年2月6日 「天風会の復活」
2014年9月11日 「掴んだものを放す」
2014年6月22日 「究極の目的」
2014年5月30日

「講演テープ」のページ再オープン

2014年2月5日 「一語一会」
2013年12月3日 「胸の底が涼しくなけりゃア」
2013年10月15日 「リアリスト」
2013年10月03日 「ウサギとカメ」
2013年09月14日 ”黒船到来になるか「ミロス理論」"
2013年09月01日 ”「幸せ」"
2013年08月25日 ”「日々を生きるとは」"
2013年08月15日 ”「道子」"
2013年07月24日 「天風会員の皆さんへ」
2011年10月01日 ”テープを聴く会;終了"

この上に「続ける」というボタンがあります。
そこをクリックする毎にプラス言葉が順次表示されるようにしてあります。
表示される順番は都度変化します、最初に出てくる言葉も都度違います。
先入観無く漫然とクリックしていると、ある言葉をきっかけに心が積極的に切り替わる瞬間があります。
言葉の意味を考えない事です。言葉の持つ「言霊」の力を感じるままに、感じ取るだけでいいのです。
あなたの心の中であなた自身気づかずに沸々と醸成されていた「言葉」が、ふと芽を出した瞬間に立ち会う事になるでしょう。
それは、感動的で素晴らし瞬間です。
いつまで押していても何も感じられない時があります。
そんな時は、心の中に不安や焦りがあるのです。
そんな自分であることを素直に認めて、淡々と静かな気持ちに戻ろうと思えばいいのです。
また、何かを期待して押していては何時まで経っても何の感動もありません。
とらわれの無い静かな気持ちの時は、まったく予期しない言葉にハッとさせられます。
その意味でこのコーナーは、現在のあるがままのあなた自身を鏡に映すように気づかせてくれます。
そして、そのありのままの自分から、始めることにしましょう。あなたの人生を、今。
あなたのお好みの言葉を連絡頂ければ追加します。
今!

75歳!!

此処、京都!

ありがとうございます


72歳を少しまわってやっと気が付いた。もう、ええカッコするのは止めよう、気取るのは止めよう。過去の恥を隠すのは止めよう。自分の欠点や弱点を恥ずかしく思うのは止めよう。本当に止めよう。そして、あと僅かかも知れないが残された時間、ほんとの俺自身を生きよう。 「もし、喜べなかったら本心を生きていない時」 当方へのメールは
こちらをクリック→ 京田辺市;松井




Now is the latest moment


Today is the first day of the rest of your life.
という言葉があるそうです。
イギリスの宗教関係の建物の正面壁に書かれているそうです。
そしてこの言葉が如何に素晴らしいか語られていました。

でもこれを聞きながらふと思いました。これよりは
Now is the latest moment of the past of my life.
の方が良いと思うのです。
「今は私の今までの人生で最新の瞬間です」と言ってる積もりです。(笑)
間違っていましたら教えてください。

言いたかったのは、漠然と残りの人生に希望を持つよりも、
今この瞬間にしっかり責任を持つ気迫こそが大事じゃないかということです。
もし今、目の前のことで少しでも自分の目指す生き方にそぐわない部分があるとしたら
「なんだ!75年間も生きていろいろ経験もし勉強もしてきた結果が今のはずだ。
その結果がこんなざまか!何を経験し、何を学んで来たというのだ。
こんな目に遭ったのは生まれて初めてだ、なんて言わせないぞ!」
とまあ、この方が判りやすいと思うんですが、どう思われますか?
ありがとうございます。

心と健康の関係が明確になった


我々が健康で更に長生きするには”心”が大きく関係していることが判ってきた。
従来、ストレスが身体によくないことは判っていたが、
逆にストレスと真逆の精神状態が積極的に健康長寿に関与していることが科学的に証明された。

長寿遺伝子と心
健康長寿に影響する因子の割合
遺伝:環境=25%:75%

環境には運動、食事があるが心も大きな因子である。

長寿のカギは慢性炎症にあり、この働きを抑えることがポイント。
ここに心が大きく関与している。

慢性炎症の程度は血液中のCRP値の値で判る。
0.3以下が正常値。

84人について心の満足感と炎症の関わりを調べた結果
CTRAという遺伝子群の働きが判った。カリフォルニア大学

人が生活の中で感じる満足感といった精神的な感覚が、
身体の中の炎症反応と関わりがあるということが見えて来た。
しかし、高いレベルで満足感を感じているのにどういうわけか遺伝子の状態がよくない人がいる。
とても満足なのに炎症の進んでいる人である。

食欲、買い物、性欲、娯楽等の
快楽型満足。
ボランティア活動、家族を大切にする、世のために働く、アート作品を発表する等の
生きがい型満足。

満足感の違いに遺伝子はとても敏感であることが明らかになった。
人類は社会的に集団生活を行い生き延びてきた。
つまり人間の脳や神経は社会とつながり、お互いに助け合うように
生物学的にプログラムされていると考えられる。

精神状態の働きと炎症との関係がいずれ解明される日が来る。
単に「病は気から」という時代ではない。

さらに
老年的超越
長寿すると精神的に豊かで幸せになることが判ってきた。

118歳イタリア女性。1800年代生まれの唯一の地球人。
14年間寝たきりの生活でありながら
「今までで一番幸せだったことは?」と問われて
「今、ここに居て独り身でいることが一番幸せ」と答える。
ほとんど寝たきりで過ごす今が人生で一番幸せなのである。

これを老年的超越という。
今の状態をどう受け止めているか。
人間は70歳以降ポジティブ感が増加している。
脳の「前帯状皮質」(人間の感情を司る部分)は記憶などの機能とは異なり加齢による衰えはない。
つまり、人間の感情は加齢にも拘らず衰えない。

ポジティブな写真とネガティブな写真を並べると若者は両者を同率に記憶するが
高齢者はポジティブな方を多く記憶する。
高齢者が長い人生で獲得する心理状況と思われる。
身体的にはそう見えなくても実は心は幸せに暮らしている。

NHKスペシャル;あなたもなれる“健康長寿”
徹底解明 100歳の世界
より

天風教義は何故普及しないのか?

Kさん、あなたの 「天風教義は何故普及しないのか?」という疑問に対する私の見方を聞いてくれますか? 山下良道さんの本、【青空としてのわたし】幻冬舎 を読まれたのでお分かりと思いますが
答えは「天風会は”白い雲”の教え」だからです。
瞑想は皆”青空”を目指します。
従って、天風会が現在のままでは青空を目指す人達は見向きもしないでしょう。
むしろ会員の中で”青空”に目覚めた人たちは離れていくでしょう。

天風先生自身は”青空”に生き、会員にも”青空”を勧められたのは講演で述べられている通りです。
でも先生は「諸君には無理だ」とハッキリ言われ「手っ取り早くhow to do を教える」と明言されています。
この為会員は”安定打坐”を他の”観念要素の更改”や”積極観念養成法”と同列のいわば選択科目程度に捉える結果になってしまいました。
先生も、判りやすい”白い雲”をとりあえず教えることに重点を置かれました。
結果、折角の教義も世間一般のハウツーものになってしまいました。
禅寺のように”霊性心”一筋の教えに徹していたら、今の天風会の評価ももっと一般的になっていたと思います。
でも、何を始めるにも遅いということはありません。
Kさんのような会員が、改めて天風教義の原点に立ち戻って活動を地道に続けていけば、あなたの願いが叶えられる日が来ると信じます。
ありがとうございます。

掴んだものを放す

私達は、信念は確信だと、こういう形でしっかりと得るものだと思うんですけれども、
しかし、その一旦、仏法を判ったという、その掴んだものをもう一回放す、
そうしたら最後は、裸一貫で生まれて、裸一貫で死んでいける。
仏法なんぞ全部取ってしまって、裸一貫で死んでいける身となる。
こういうところに、本当の信心の醍醐味というか姿があると思わせられる。
NHK 宗教の時間・2014年8月31日 放送
「決めないままの安心〜高光大船師のまなざし」大谷大学教授…水島見一 より。

究極の目的

「究極の目的は何か。」
私は、それには解答がないと思います。
人間には、それは永久に解らない、そのようにできているのがこの世界だと思います。
もし,判るようなことがあれば、大変なことになる、想像できない恐ろしいことになる、そんな気がします。
だから、安心して生きれるように、それは決してわからないようなシステムに創造主は我々を創られたと思います。
究極の目的、それは判らないけど、確かに存在しています。
ここで円錐形を考えてみてください。
円錐の頂点は一点ですが、そこから少しでも下がると円周になります。
頂点を目指す我々はその円周上にそれぞれが存在しています。
360度、それこそ無限のアプローチがあり得るのです。
北壁ルート、チベット側登はんルートなんてもんじゃありません。
皆それぞれに自分の立ち位置を言うだけです。
私はそんな風に考えています。

胸の底が涼しくなけりゃア

『男は気性一つが身上だ。こころ意気ってものが第一だ。胸の底が涼しくなけりゃア、人間の皮はかぶっていても、人間じゃアない。男じゃアない。江戸ッ子のうれしいところは、何よりも義理ってものを大事にするからだ。壁一つ塗らせても解る。心底のさっぱりした者の塗ったのは、さあッと乾いて、しっくり固化っていて、まるっきり上りが違う。恐ろしいものだ。』
「魔像 新版大岡政談」林不忘より

リアリスト

【リアリスト】とは、どんな人だろう。
リアリストとは、次のような人のことだと思います。

数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、
確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。
でないと後の教えようがない。この確かさに信頼して初めて前へ進めるのだから。
つまり、右足を出してそれに全身の体重を託し、つぎに左足を出してまた体重を託するというふうに
一歩一歩踏みしめて進んでいくのが科学の学び方にほかならないのだから。
しかし、この学び方ができるかどうかは小手先の技術の問題ではなく、むしろ道義の問題である。
ある程度「人」ができなければ、何も学ぶことができないのではないか。
岡潔  「春宵十話」  情緒と智力の光  より

私と同年代の人と話す時がある。
「今、あなたは幸せだと思っていますか?」
答えがはっきりしない。つまり、YESでもNOでもないのだ。
「今のあなたは人生の目的をすべて達成したといえますか?」
答えがはっきりしない。つまり、YESでもNOでもないのだ。
「そもそも、それではあなたにとっての人生の目的は何かつかんでいますか?」
やはり、答えがはっきりしない。つまり、YESでもNOでもないのだ。
人生の終わりが近いというのに、こんなことでいいのだろうか?
安心して人生の幕を下ろせるのだろうか、この人は?
周りを見回してみても、分別顔の人は多いが安心し切ったような顔を見ることが少ないのはこの為なのか。
そんなものは観念の遊戯と決め付けて、自ら諦めの口実にして、自分を納得させているのだろうか。
このような質問に対して逡巡するようでは、とても情けないとはいえないだろうか。
この人はほんとの人生を生きてきたといえるのだろうか。とてもリアリストとはいえない。
私はこんなふうに考えてしまう。

でも、救われる思いをする時もある。
話していて、ふと素になる瞬間がる、そんな時に素直に”これではいけない”という気持ちになるらしい。
その瞬間、その人の表情が一変する。まだ何も解決していないのに、ただ、門口に立っただけだというのに。
つまりは、それまでは本当は求めていることを心の奥底では知りながら、意識では自分には出来ないと思い込み、
それを認めたくないために、その気持ちを一所懸命押さえ込んでいたのだが、
今、自分本来の欲求を素直に認めた瞬間に味わう解放感から来るものなのだろう。
そこから本当のその人にとっての生活が始まるのだから、こんな瞬間に立ち会えることは幸せである
実際、宗教書を読んだり、哲学を勉強したり等自己啓発にいくら努めても効果が無いのは実にこの点にあると思う。
肝心の目的があいまいなまま、いくら努力しても本末転倒であることに気づかないみたいだ。
努力していればいつか、目的が達成できるように思っているが、その目的について明確なものを持っていない。
最初に挙げた岡先生の言葉で言えば
「確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられる」でないのだ。
自動車を走らせながら、いつか目的地に着くだろうと夢想しているに過ぎないのではないだろうか。
まず、目的地を明確にして、その後、車を走らせるべきなのにである。
本来なら目を輝かせて語るべき「その人の目的」について、
はっきりと口に出来ないで、てれるようではハッキリ自覚できていない。
と私は思う。

ウサギとカメ

先日、NHKの「宗教の時間」という番組で福岡県にある心空院の御住職小金丸泰仙さんが江戸時代の真言密教僧の慈雲尊者の教えをお話でした。

自分の心を観るというのは自分とは離れた心を観る事になる。つまり、客観的に観る。
そうすると観ている時、考えている時、もう自分の心そのものから離れたものを観ている。
これは仏教的な観かたではない。
”心自不知心”(こころみずかららこころしらず)。そういう時が本当の心。
心を出してみてそれを分析するというか、証明するというか、そういう観かたでは本当の心というものはわからない。
たとえば、眼は自分の眼を見れない、舌は自分の舌を味わえない。それと同じである。
”心自不知心”その知らないところに仏の心がある。

次に”真祈り”という冊子に次のような一文がありました。
一般に「アキレスとカメ」として知られている話だがこの文ではウサギとカメで説明しています。

ウサギがカメを追い越せるかどうか。
ウサギがカメに追いついたとする。その時間の間に、カメはちょっと前に出ているという。又ウサギがカメに追いつく。その間にちょっと前に出ている。また追いつく、必ずちょっと前に出る。どこまでも、無限分の一秒まで差がある。だからウサギはカメに絶対追いつけない。
悟りはあくまでも、結果を掴む、先に。今ここから順番に修行して悟るというのだったら、掴めない。順番に段階を追って、悟ろうとするのは、絶対にゴールに近づかない。既に悟っていると結果を先に掴んでしまったら、ゴールを先に掴んだら、後は今どこにいても、すーと入ってしまう。一番最後の結果だけ、的だけ、ゴールだけ掴んだらいい。それが悟りを掴む方法。

以上、二つのお話で皆さんは何かに気付かれたのではないでしょうか。
ウサギがカメに勝つ事は皆さん知っていますので、誰もがこの話を一笑に付すことでしょう。
しかし、心のことになると、しかも自分の心のことになるとどうでしょうか。
”心自不知心”など考えた事も無いため”心を出してみてそれを分析するという”ことを、
つまりいつまで繰り返しても、限りなく近づくことは可能でも、決して目的を達する事が出来ない努力を しているのではないでしょうか。
しかし、諦める事はない。それが出来ると先人達は断言する。
延暦寺も、高野山も、永平寺もそれを証明している。

黒船到来になるか「ミロス理論」

2ヶ月前にこのページの「天風会員の皆さんへ・・・元会員より」の中で
天風会がより良くなるための提案をしました。そこでは
「ここに泳げるが、本人は自分は泳げないと思って泳ごうとしない人がいたとします。
彼が泳ぐためには自分は泳げるのだと気付く事であって、泳ぎの練習をすることではないのです。
むしろ、そんな練習を何十年しても泳げる事に気付くことにはならないし、従って泳げないでしょう。」
と書きました。
それから2ヶ月、先日新しい情報に接しました。
スイスに在住の真美子さんから「ミロス理論」の翻訳文(DVDの書き起こし文)を頂きました。
そこから一部抜粋させていただき,ここで表題の意味を考えたいと思います。
以下の引用文は真美子さんの善意で無償で提供頂いたものです。
ミロスアカデミー関係者の皆様からご指導をいただければ真摯に検討させて頂きます。

「思考がすべてを創りだしているという考えにもとづいて、いい言葉を発しようと薦める。いつもプラス言葉、いつもプラス発想、イメージ法、将来こういう風になろうとイメージする。
でもこれは反対に不足感があるからそういう発想になる。
実際には、幸せになりたいと思えば思うほど、反対の不足感もどんどん大きくなっていく、ということである。世界中でプラス発想を促すので、今の世の中はその真逆にある不足感ばかりになってしまっている。」

今,天風会でやっている行修のほとんどがこれではないだろうか。
私が”泳ぎの練習”という部分です。
”そんな練習を何十年しても泳げる事に気付くことにはならないし、従って泳げないでしょう”というのはこのことです。

では”自分は泳げるのだと気付く”にはどうすればいいかについてはきわめてシンプルです。
「3次元を超越する生き方が*生きる*ということ。」
「4次元の本来の自分の位置を知って、与える受け取ると実践してゆく」
この4次元の本来の自分というのは
「われわれの本当の実在は鑑賞者である。ただみているだけ。4次元の位置で」
という事から、天風会でいうところ”宇宙霊の目を通してみる自分”ということになる。

それは
「マイナスとプラス、おろかと悟りを超えた本当の高次元のプラス思考である」
つまりは”自分は泳げるのだと気付く”ことになる。

天風会では、宇宙霊との一体化を目指している、これは目的として間違っていない。
しかし、ミロスは
「この肉体を自分であると思っているので、こういった人間の意識が4次元的存在ということが決していままで分からなかった。」
宇宙霊が自分自身であると言い切っている。

以上は,私の考え方が正しいと主張するものではない。この様なアプローチもあり得るという紹介です。
事実、私自身はこの考え方には賛成できない。
私は本文中に書いたように、日本の伝統的な方法がわかりやすいし効果的で
しかも応用ではこの方法の比ではないと確信するからだ。
理由はこの方法は自分を客観視する事を容易にするが、具体的な日常生活で応用する段になると
様々なケースがあり得るので、果たしてそれらに対応できる思考が身に付くか疑問だからです。
少なくとも私は出来ないし、しようとも思わない。他の人にも勧めたくない。
だが、この方法が身に付く人は多いだろう。特に西洋人には。日本人にも多くいるだろうと思う。

この理論が今日本に浸透し始めている。
天風会が革新を先送りしているとアッという間に席巻されるかもしれない。
ミロス理論が良いものならそれでもいいのだが、解りやすく入りやすい天風会の教えの良さを残したいのです。
ありがとうございます。 

[以下は皆様からの質問に答えた内容を編集したものです]
●向上心をもってより良い人生を求めるのは間違いなのですか?
間違っていません。生きている限り一歩でも半歩でも進化向上を目指すのは当然です、
問題はその手段なのです。手段の誤りを申し上げているのです。

●現在天風会の活動に積極的に参加していて人生は充実しています。問題ですか?
問題ありません。昔の私もそうでした。貴方の様な方には何も申し上げる事はありません。
私の言っていること等は無視して、今の生活を大事にしてください。
努力しているが何故か掴めない、こんなはずじゃないと感じている方へのメッセージです。

●手段の違いということですが、天風会の行修は禅や念仏行に及ばないのですか?
行そのものには何も違いは無いと思います。禅の修業でも正しくしていなければ効果は無いでしょう。
天風会の行修メニューを正しく実践されてる方もおられるでしょう。
この「正しく」という点が「手段」の最も重要な点です。
例えば「力強い自分」を目指すのか「力強さをその一部とする大きな自分」を目指すのか。
イソップ物語の「太陽と北風」、外套を脱がすにも正しい手段があるように。

●”手段”とか”正しく”とかいろいろ話されますが結局は”不足感”がある点では同じではないですか
売り言葉に買い言葉みたいな応酬になってしまい、うまく伝わっていないようですね。
そこで、法然さんに説明してもらいます。

道心のおこる時乗ぜず、道心をさきとして本願をつぎにおもう時乗ぜざるなり。
道心おこる時乗ずるなり、その故はこの道心にて往生すべからず。
ただ本願の称名を念々相続せんちからによりてぞ往生は遂ぐべきとおもう時に
他力本願に乗ずるなり。
「法然上人のご法語」 浄土宗  より引用

「道心のおこる時乗ぜず」「道心おこる時乗ずるなり」その違いがうまく説明されています。

●実際の日常生活でどんな違いがあるのですか。できるだけ具体的に説明してください。
天風会の朝の言葉に「怒らず怖れず悲しまず」とありますが怒りの感情が起こってからこの言葉を思い出しても間に合いません。
仮に押さえ込んでみても一寸気を緩めると、すぐに再燃しますのでじっと耐えるだけです。他の感情も同じです。
では、普段からそんな感情に襲われないようにするにはと意識するならば、そこには屈託のない本来の心などありません。
何も考えなくても、そのままマイナス感情の出て来ない、出ようのない世界に住んでしまうのが日本に千年近く伝わる仏教の教えなのです。
それが出来るからずっと続いているのです。それを取り入れる安定打坐が必要だと思うのです。
  

「幸せ」

TVの「のど自慢」の画面では、ひょうきんな老人が会場の笑いを誘っていた。
妻がポツリと「男の人はやっぱり三枚目が得ね、皆に愛されるもの」と言った。
そして、しげしげと俺を見ながら「あんたも二枚目でなくて良かったね」と笑った。

ベランダの防水工事が始まるので洗濯竿を室内に取り込むことになった。
両手で竿を持った私の姿を見て妻が急にケラケラと笑い出した。
「ブブカみたい、歳とったブブカ!」ポールを両手に持った助走前の格好。
こんな屈託の無い笑顔が見られるのなら、ブブカにだろうが何にだろうがなってやる。
それにしても、いつまでこの笑顔を見れるのだろうか。
ありがとうございます。

水上勉「わが六道の闇夜」の一節を読んで涙が止まりませんでした。
「家出することは家を捨てることである。父母を捨てることである。11歳の得度式の際に、私は山盛松庵師からこのように得度の意義を教わったが、父を捨てることはまあ出来たように思うが改札口でペコリと私に向かって、卑屈なお世辞を一つした母へつのる情は、捨てるわけにゆかなかった。左様、私はずぶぬれの手拭と、蓑にくるまって、それから母が、どのような思いで、本郷から岡田部落への雪道を帰っていったかを思うと、捨てられるどころか、いつかこの母を安楽な椅子にすわらせてやりたいと願った。私の出家は、つまり母を抱き直す出発であった」
http://www10.plala.or.jp/apoe/mys_sakka03.html
上記の一節で
「改札口でペコリと私に向かって、卑屈なお世辞を一つした母」と記されておりますが,
ご本人の述懐として
「それまで頭にしていた姉さんかぶりを取ってその手ぬぐいを持った両手を膝の所に揃えて、深々と頭を下げ、その頭をずっと上げようとしなかった」
と聞きました。


「夕べのリクエストに応えて今朝はパンにしようか〜〜〜〜な!」
朝の目覚めと同時に妻の素っ頓狂な声が聞こえてきた。
それに応えて「よっしゃ!」と俺も叫ぶ。
老夫婦の今朝が始まる。
60を過ぎた妻の新婚時代と変わらないはしゃぎ様にしみじみ幸せを実感する。
ありがとうございます。


72歳の誕生日に
満72歳、今まで生かされてきたこと、第一この世に生まれてきた事自体,全く自分のあずかり知らぬ事です。
神様がこの世に送り出してくださったのです。
父母はじめ皆様との出会い、そのご縁も全て神さまの采配で自分で段取りしたことは一切ありません。
そんなすべて神さま任せで来た72年間が現実なのに
今更残りの人生を何とかしたいなんて思うのは馬鹿げたことです。
72年間一度も出来なかった事がこの先出来るようになるとは考えられません。
また、何とか健康になってもっと長生きしたいという気持ちがあるのは
今までの人生が素晴らしかったからです。
それなら、そのままその素晴らしい人生を送らせていただいた神さまにこれからも、お任せする事が当然です。
そこに一切疑問を挟む余地はありません。
まさに 
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
です。

「日々を生きるとは」

外にとうとくいみじき相をもほどこさず、内に名利の心もなく、三界をふかくうとみていとうこころ肝にそみ、
浄土をこいねごう心髄にとおり、本願を信知して、むねのうちに歓喜し往生をねがいて念仏をおこたらず、
外には世間にまじわりて世路をはしり、在家にともないて利養にかたどり、妻子に隋逐して、行儀更に遁世のふるまいならず。
しかりといえども、心中には往生の心ざし片時もわすれがたく、身口の二業を意業にゆずり、世路のいとなみを往生の資糧とあてがい、妻子眷属を知識同行とたのみて、
よわいの日々にかたぶくをば、往生のようやくちかづくぞとよここび、命の夜々におとろうるをば、穢土のようやくとおざかるとこころえ、
命のおわらん時を生死のおわりとあてがい、かたちをすてん時を苦悩のおわりと期し、・・・・

現代語訳

(外見に貴く立派な姿は見られませんが、心に名誉欲や物欲もなく、三界という迷いの世界を嫌い厭う思いは心底深く、浄土への往生を願う心は骨の髄まで染みわたり、
本願を仰ぎ信じて、胸の内は喜びに満ち、往生を願ってお念仏を怠りません。
ただ外見では、世俗にまみれながら日々の暮らしに追われ、家庭にあっては物欲があるようにもみえ、
妻子とともにいて、その行いは世俗を逃れる振る舞いとはいえません。
しかし心の中では、往生の志は片時も忘れられず、迷いの世界を離れ出るに、身と口の行いを心の行いに委ねているのです。
すなわち、世俗の営みも往生の糧になると理解して、妻子や親族も往生の導き手・同志であると頼りにし、
一日一日余命が減っては往生が次第に近づいて来たと喜び、生きる力が夜毎に衰えてきては、穢土からようやく遠ざかれると心得、
この命が尽きる時こそ生死の迷いの終焉と心得、この肉体を捨てる時こそ、苦しみ悩みの終焉と思い定めるのです。) 
ー配流より上洛の後示されける御詞ー 「法然上人のご法語A」 浄土宗  より引用
2013-08-20
私はこの御詞を初めて読んだ時、理解出来ませんでした。
しかし、その後、「阿弥陀様」=「真理」=「神」=「宇宙霊」ということが以下の解説を読み解りました。

『法性法身(阿弥陀如来の本当のすがた)は、「いろもなし、かたちもましまさず」(聖典554)と言われるように私たちには見えません。目に見えない清浄・真実のすがたを、仏教では涅槃(ねはん)、一如(いちにょ)、あるいは真如(しんにょ)などと呼びます。
「真如」とは「かくあること。ありのままのすがた。」の意味で 「普遍的真理。あらゆる存在の真のすがた。」とも書かれています。』

これはまさに宇宙霊そのものではありませんか。

『親鸞聖人は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となのりたまいて、無碍(むげ)のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまう(中略)この如来を方便法身とはもうすなり。」(『一念多念文意』聖典543)と記されています。
我々にわかりやすいように名を示し形を現し、すべての命を救済するはたらきをされるのが「方便法身」としての「阿弥陀如来」です。』
http://www.h5.dion.ne.jp/~souonji/Q&A04.htm

往生は「死後」ではなく「今、此処」にあると思っています。
従って死を待ち望む気持ちは無く、むしろ生きている今こそチャンスだと思っております。
地獄も極楽も往生次第ですから、この世を穢土と決め付けて厭うどころか、極楽の材料と考えております。
私もこのように生き且つ死んでいきたいと思います。


「道子」


「別れよう」搾り出すようにつぶやいた。
その瞬間、道子は顔を上げた。
今まで見せたことのない眼差しでじっと俺を見つめた。
沈黙が流れた。道子は一言も口をきかなかった。
道子の表情には怒りも、悲しみもない。俺はわけがわからなくなった。
が、考えても見なかったことが目の前で起きた。
道子の眼にみるみる涙が溢れ出てきた。
俺は、いたたまれずに、振り向くとその場を逃げるように立ち去った。 
道子が見せた初めての涙であり、道子の涙もその顔もそれっきり見ることはなかった。
26歳の弱い男がいた。
46年経った今もあの涙を忘れる事はない。
幸せに暮らしていて欲しい。
笑顔のある日々であって欲しい。

贈り物
半年にわたる道子との日々の中で食事をしたのは一回だけ。
初めての日にラーメン店で焼き飯を食べた。それっきり無い。
クリスマスも正月も共に過ごしたが何も買ってやらなかった。
道子の誕生日が何時なのかを聞こうともしなかった。
店が終わって深夜タクシーで駆けつける道子にタクシー代を払う事もしなかった。
    もし、一回でも心のこもった食事を二人でしていたら・・・
    さり気ないプレゼントを一品でも贈っていたら・・・
    朝帰って行く道子に、タクシー代を渡す心配りをたとえ一回でもしていたら・・・
道子はどんなにか嬉しかったろう。
そんな思い出が一つでもあったら、道子はそれを大事にしてくれただろうに。
26歳の弱い男がいた。

言葉
「好き」も「嫌い」も二人の間に交わした記憶がない。
一度だけ道子が自分の考えを口にしたことがあった。
付き合って3ヶ月ほど過ぎた頃「家族に会って」と。
俺は返事をしなかった。道子はそれ以上何も言わなかった。
ブーツが埋まりそうな雪の中を歩いてきた道子に「寒かっただろう」と言わなかった。
眠い眼をこすりながら着衣する道子に「ごめん」の一言も口に出来なかった。
毎日会っていながら、交わ言葉といえば「うん」程度の言葉だけだった。
一度ぐらい「好きだ」って言っとけば良かった。
きっと道子は喜んでくれただろう。
口にすることが怖かった。
26歳の弱い男がいた。

ありがとう
初めての夜、道子がポツリと言った。
「どうせ遊びでしょう」。
「そう思うなら、このまま今別れた方が良い」と俺はうそぶいた。
怖かったのだ、貯えも、住む所も、定職も持たないその日暮らしの自分の将来が。
しばらくの沈黙の後、彼女は身体を寄せてきた。
26と22の身体にはそこまでが限界だった。
住む世界がまるで違う二人。未来が果たして築けるか自信がなかった。道子もそれを感じていたと思う。
それだけに二人の逢瀬には、これで最後になるかもしれないという不安感がいつも付きまとった。
俺のずるさは、いつか道子が俺に愛想を尽かしてくれることを期待していた。
道子の本当の気持ちはわからない、今も。
ただ、道子のひたむきな、一途な振る舞いが今も俺を放さない。決して俺を放さない。
本人は、もう遠うに俺のことなんかは忘れているだろうに。
しかし、70を過ぎた今も、生きることの素晴らしさを狂おしいまでに蘇らせてくれる。
ありがとう、道子。どうか幸せであって下さい。心からお祈りします。ありがとう。
2013-08-08


天風会員の皆さんへ・・・元会員より

現在の天風会員の数は約2000人という。私が入会した20年前、退会した10前とほとんど変わらない。
私は決して不熱心な会員ではなかったと自負している。10年間、9割以上の出席率で各行事には参加していた。認められたのだと思うが運営委員にも選ばれた。会員から提供して頂いた費用でゴルゲ村にも行かせて頂いた。幸せで夢中な日々でした。 そのことについて現在の会員からよく質問を受ける。
また、ストレートに「何故、退会したのですか?」 という質問も受ける。
最近まではそれに対してはうまく説明できなく、結果的に現体制に対する不満という形になってしまった。
以前、このページにもそのような記述をしていた時期がありました。反省しております。
当時の記事を読まれた方にはお詫び申し上げます。
さて、次の一文に触れてこれらの問題が判りかけてきたので書いてみます。
先ず、その一文とは

中村天風「一日一話」 <理屈じゃないんだ>
 人間の生命エネルギーの中枢の母がつくる一番大根大もとは、
科学的に考えてもいけない、哲学的に考えてもいけない。
あるものはあるのだから、あるものとしてあるとして考えられる
考え方が一番いいんだ。
哲学者が考えればこうだ、あなた方ならこうだという考え方をするものだから、 ごちゃごちゃになっちゃう。
 「あるものはある」これは科学でもなければ哲学でもない。
「あるものは、ある」それを理屈なしに考えるのが、考え方としては 本当の考え方じゃないか。

この一文を読んで皆さんはどういう感想を持たれるだろうか?
「天風会員が日曜行修や講演会で学んでいる今の方法はこれでいいのか?」と思われませんか?
積極観念を身につける為に頭で考えて理解しようとしても無理だと明言されているのです。
ただ、それらは既にあると信念化する以外には方法がないといわれているのです。
すると皆さんは次のように反論されるかもしれません。
「その信念化の為に積極観念養成法や観念要素の更改をしているのではないか」と。
ここです、勘違いされるのは。
ここに、泳げるが、本人は自分は泳げないと思って泳ごうとしない人がいたとします。
彼が泳ぐためには自分は泳げるのだと気付く事であって、泳ぎの練習をすることではないのです。
むしろ、そんな練習を何十年しても泳げる事に気付くことにはならないし、従って泳げないでしょう。
道元さんも仰っておられます。
仏道を習うというは、自己を習うなり。
自己を習うとは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるとは、
万法に証せらるるなり。
積極観念養成法や観念要素の更改が「自己を忘るる」でしょうか?

我々会員が目指すものは「完成された人格」であり「安心立命」の境地です。
同じ目的で日々精進を重ねている人たちが天風会員以外にも沢山おられます。
その人達に学ぶべきです。例えば仏教の世界があります。他にもあるでしょう。
悟りを求めて只管打座する姿勢にたくさんのヒントがあります。
千年以上の歴史を重ねてきた修行法です。効果があるから生き残ってきているのです。
既に実績のある方法を参考にして安定打坐の方法を変えていけば道は開けると思います。
私の場合は現在、浄土宗の念仏行をベースに禅の公案やその他の教えを参考にして自分流の安定打坐をしております。
「極楽往生」は「神人冥合」、「南無阿弥陀仏」は「ありがとうございます」と内容は浄土宗とは違います
修行の手法と言えば浄土宗の皆さんに叱られますが、千年間続いてきた実績のある方法を見習わせて頂いております

会員の皆さんから「先生が教えておられた積極観念の養成法その他の方法は間違っているというのか?」とお叱りを受けそうです。
先生がご存命中はご指導いただいた方法が有効に機能していたと思います
何故なら、中村天風という存在が圧倒的な現実感をもって、絶対積極の姿を具現し会員に感化されていたからです
当時の会員は、何よりも中村天風に間近に接する事で自身の心の中に内在する力を感じ取る事が出来たと思います
それがあっての様々な方便が「観念要素の更改」等で、いわばこれらは二次的なものだと思います、当時も今も。
しかし、現在は先生のような存在が会の活動の中で見えてきません。するとどうなるでしょう。
「仏作って魂入れず」の状態、「画龍点晴を欠く」となってしまい、肝心な部分が生かされないのです。
従って、先生のおられない今は、先生ご存命中とは違った学び方がどうしても必要だと思います。

学ぶ目的が違っていた事に気が付けば、日々の修行の方法も変わってくると思います。
そして、それこそ確実に効果が実感できる学び方だと思います。
こういう点に考慮した運営がなされていれば、現在の会の形も随分変わったものになっていたと思います。
今のままでは100年後には天風会は忘れ去られると思います、
この貴重な教えを将来にわたって残すためにも、
この教えに接する者に真の覚醒をもたらす方法を今、確立すべきだと思います。
それがこの教えに触れる幸せに浴した私達の責任であり、天風先生の教えの実践になると思います。
そこまで実践する者が先生の仰る真のリアリストではないでしょうか
いかがでしょうか。
2013/07/24

天風会に入会した時は皆さん一様に熱く燃えておられます。
しかし、時間の経過と共に「あの最初の時の感動は何だったのか?」となってきます。
これも,以上の様なことが原因だと思われます。
私も「成功の実現」を読んで感動して即入会した。7年間はわき目も振らずだった。でも、どうしても越えられない壁を感じた。 まだ、たった7年ではと思い、30年、40年という先輩を片っ端から訪ねた。自分の将来を探していたのだ。でも、見つけられなかった。皆さんが天風先生の話をされる時は瞳が輝く。でも、ご自分の話になると無い。謙虚なんかじゃない。隠せない何かが無い。折角生まれてきて、折角、素晴らしい生き方を教わっているのにそれを手にすることなく、一歩手前で妥協して生を終えるなんて出来ないと思い、手探りで新しい道を探り、今は本当に満足している。だから、私のように悩んでいる会員は必ずおられると思うので,その人達へエールを送るつもりでここに一文を掲載します。 2013/07/25

梅津 雅典 様からメールを頂きました。ご本人の了解を得ましたので掲載いたします。
梅津様 ありがとうございます。

> <理屈じゃないんだ>という言葉から察すると「科学的」は元より「哲学的」も
> 理性心の働きということなんですね。

そうだと思います。

> とするとこの天風先生の言葉はつまり、理性心では会得出来ない、霊性心=直観
> で受け入れなさいということでしょうか。

そう思います。

> 『百尺竿頭進一歩』の竿頭までは現在の天風会で教えることは出来るが、その先
> の一歩は教わることは出来ず、自分から歩を進めるしかないということかと。

「自分から歩を進める」というのでは未だ自分があります。
教わり学ぶ事ではないと・・・。気が付く事だと。

> 真理瞑想行は真理を会得した人だけが授けることが出来るが、果たしてそれが出
> 来る人が何人、、いや、いらっしゃるのでしょうか。

おられるでしょうが現状ではそのような人が表に出てこないシステムになっているように思います。
でも、大事なことはそれ以前の問題です。先ず、各個人がハッキリとした自覚も持つ事だと思います。
我一人でも、正しい道を目指すという気概、それこそ信念が不可欠だと思います。
モチベーションがあればその達成の方法はまたいろいろと考えられます。
仮に指導者がなくても自力で・・という意欲があれば、その段階で指導者の問題は解決すると思います。
天風会にいなくても、広く世界に求めれば、特に仏教の世界にはプロが沢山おられます
出来ようが、出来まいがとにかくボトムアップでは無理といわれておられるのですから、
あとはトップダウンでのアプローチしかありません。

> 水に入って、心と体の力を抜けば自然に体は浮きます。これが本来の姿なのに、
> 現在の天風会では、ああだこうだと一生懸命に頭で浮かぶ練習をしている、とい
> う様な意味合いを松井さんは仰っているのでしょうか。

そうなんです。自然に力を抜く事に気付くべきと思います。
いくら「人間には生まれながらに・・・」と説かれても納得いかない、つまり力が抜けないのです。

> う〜ん、まとまりません。済みません、、。

お互い理解しあえるということは、こんな姿が本当なのではないでしょうか。
「うん判った」と簡単にいえない姿こそ真に誠実な対応だと思います。

私もこの問題をこれからも考え続けます。
それらを適宜、HPに追加して参ります。

こんな機会を与えていただいた梅津さんに感謝しております。

これからもお互い精進して参りましょうね。
2013/07/25

山田 常幸 様からメールを頂きました。ご本人の了解を得ましたので掲載いたします。
山田様 ありがとうございます。

私自身は現在天風会員でありながら未だ行修会にも講演会にも熱心に参加せずその内容について何も言うことはできませんが
大事なことは各々が自分で確と自分自身を掴むことかなと思います。

天風師の教えは山に登るための道案内、
実際に山に登るのは各々個々人あり、その各々個々人の人生道程こそが
その人にとっては真に大事なことであろうと思います。
天風道は、迷い・誘惑・雑念妄念を掃い正しい人間の道を踏み違えないための
素晴らしいガイドブックだと思いますが、そこには貴方自身の人生は書いてありませんよ!
ということではないかと思います。
だから、先哲の教えを参考にしながらも、自分の生き方は自分自身で創ってゆくより方法は無いと覚悟することが肝要かと思います。

> 中村天風「一日一話」 <理屈じゃないんだ> 
という一文については、鈴木大拙さんの以下のような言葉が思い出されました。
1+1は =2であり、=3でもある、赤いものが赤であり、黒でもあるというと西洋人は
「そんな訳の分からんものは分からない。分からないものは認められない」というが分からなくても事実そうなんだ。

未だ理屈が分からない赤ん坊も元氣に生きている。
蟻ん子も何も考えないだろうけどチョコマカと力強く活動している。
雑草も取り除いても取り除いても蔓延ってくる。
人間も然り、元々具わった同様な力強い活きる力がある。
この根源的な力の存在を信念して、この力を現実生活に存分に働かせるように導いてくれるのが天風道だと思います。

元々具わっている根源的な力を見失うと碇を無くした船のように荒波に翻弄され漂い
羅針盤も無く航海術もなければ目的地には着けないように
信念が無ければ決断も実行もおぼつかず、世間の出来事に心を奪われ欲に振り回され、
ただ徒に時を費やし、生活に必要な術も身に付けられず満足な生活も送れない
というのが複雑な社会を生きる現実ではないでしょうか。

天風道によって人間の自然なありのままの姿に気付き
そこを礎にして、また羅針盤として複雑、困難な現実社会を生き抜く術を身に付け
人としての本分を全うすることが悔いのない人生を送ることでもあると思います。
そういった意味で天風先生の指し示す先のところも
> 教わり学ぶ事ではないと・・・。気が付く事だと。
ここが大切なことだと私も思います。

私自身は自然な人間の道からしょっちゅう脱線するせいか
天風先生の言葉に触れるたびに反省と新たな発見の感激を覚えます。
行修会にも講演会にも参加したいという思いが募りますが、
まず足下のことを何とかしたいという思いが強く、
天風道を物差しにしながら日々を送っています。

<返信>
> 私自身は現在天風会員でありながら未だ行修会にも講演会にも熱心に参加せず
> 大事なことは各々が自分で確と自分自身を掴むことかなと思います。

この点が素晴らしいと思います。
入会すると、すぐに行修会にも講演会に参加したくなるものです。
私自身そうでした。
その点、山田さんは当時の私やほとんどの会員と違ってしっかり自分を見つめておられます。
文中にも書きましたように、その姿勢が一番、会員個人個人に必要な自覚なのだと思います。
かっての私にはそれがありませんでした。責任は全て自分にあるのだという自覚がありませんでした。
時間がかかりましたが、これではいけないと自分なりに努力して、改めて様々な先生に教えを頂きました。
そして、やっとこれで良いのだと思える生き方を手に入れました。

> 行修会にも講演会にも参加したいという思いが募りますが、
> まず足下のことを何とかしたいという思いが強く、
> 天風道を物差しにしながら日々を送っています。

「まず足下のことを何とかしたいという思い」を選択するのではなくて、
天風会の行事に参加する方を選択する会員がほとんどです。私もそうであった様に。
でも、貴方は違う。天風会によりかかっていない。私はそんな会員に会ったことがありません。 冒頭の喩えで言うならば、貴方は自分が泳げるとはまだ思っていないかもしれない。しかし、全く泳げないとも思っていない。
そこで、自分はどこまで泳げるか確認しようとされている。確認するよりも、いち早く天風教義で解決しようとしてきた私とは違う。だから、貴方を尊敬します。
貴方は言うかもしれない。「単に忙しいから参加していないだけです」と。何とでも言うがいい(笑)。 どうかそこに踏みとどまって下さい。必ずブレークスルーする時期が来ると信じます。人間とは変わらずにはいられない生き物です。良い方向にも悪い方向にも。だからどちらを向くかがとても大切なのだと思います。
貴方のような方にこそ天風会のリーダーになって欲しいです。
貴方のような方の価値をわかる天風会になって欲しいです。

今の姿勢をどうか堅持されて、山田さんの天風ワールドを確立されてください。
必ず、いつか、というのではなく、既に、今、そのままの生き方に手応えを感じておられるはずです。
「天風道を物差し」ということはそのまま「本心良心に悖らない」生き方になると思います。
日常での実践が全てだと思います。私も励まされました。
今、この瞬間から「俺もやるぞ!」という気がまたぞろ湧き出しました。
嬉しいですね、楽しいですね、
「嬉しくなかったら、それは本心を生きていない時だ、踏み外している時だ」と
ある先生が言われました。
先ず、嬉しい、嬉しさを実感できる今を生きたいと思います。
<更に受信>
その通りですね。
相変わらず凹んだり脱線したりの毎日ですが、
私も、今この時、一生一度の貴重な時を、「何がこようと楽しく生きるぞ!」と
自らに発破をかけています

<更に返信>
ボクサーの内藤大助さんの言葉を思い出しました。
「カッコ悪い自分をカッコいいと思う自分はカッコいい」
一方的にボコボコに打ちのめされた顔は腫れ上がって目も開けられない。
何万という観衆の憐憫あふれる眼差し。普通ならすぐにでもその場を立ち去りたい心境の試合後。
にもかかわらず、・・・・である。

>「何がこようと楽しく生きるぞ!」

勝ち、負けに価値があるのではなくて、否、もちろんそれは価値のあることだけど、更に高いレベルで生きる人間の姿がある。その生き方こそ、本当の「成功」だと思います。内藤選手の姿にそれを見ることが出来ます。
この気持ちが天風先生の仰る「天馬空を行く」の境地だと思います。
現象の成功、失敗とは無関係に、することが全て意味のある、楽しい事になる。
天風先生に感謝しましょう。

ありがとうございます。
2013/07/28

<更に返信>
山田さん、いつもありがとうございます。

> 天風先生は天風哲学は人間科学とも言ってますが、
> 人間科学であるなら何も他人に聞かなくても、教えを請わなくても
> 己自身の中に求めるものが全てがあるはずだという信念があるからです。
> 日常生活こそ鍛錬の場だと思うからです。

若狭小浜の発心寺、原田湛玄老師は「今、此処、が一番大事」とお話です。
この言葉を思い浮かべる時、刃を突きつけら様な緊迫感を感じなければ嘘でしょうね。
「今」の自分の姿が一切です。他には何も無い。
こんなことしていられない・・・・。他人事ではない。
私も、初心に戻り自分の道を進みます。 もう、この記事もこの一文で最後にします。更新もいたしません。
短い期間でしたが、みなさん、ありがとうございました。
2013/07/31

最後にふさわしい一言を山田さんから頂きました。
「嬉しくない、楽しくないときは、知らず何らかの不安や恐れ、焦り等が
 積極精神を曇らせているときですね。
 自分の心を積極的に振り替えるだけで、パーッと楽しい人生になりますね。」
梅津さん、山田さん、貴重なご意見、ありがとうございました。

天風会の発展と
今後の皆様のご活躍をお祈り申し上げます。
2013年7月末日  京都 松井 進