摩利支天(梵語 Marici) 翻訳 威光・陽琰(かげろう)
摩里支・末利支とも表し 摩利支菩薩・摩利支提婆とも称す
元来はインドの民間信仰の風神の1つとして『バガヴァッドギーター』にあらわれ、
また火星・生主・梵天の子、あるいは迦葉波仙人の父とされているが、
インド神話の中で活躍する帝釈天やアグニ、ヴァーユ、ルドラ、ヴィシュヌ、
シバなどの諸神ほど、その名は知られていない。
『仏説摩利支天菩薩陀羅尼経』によれば、常に日の前に居て、日に仕えるが、
その姿は日から見えず、また人からも見ることはできないのである。
それ故に、人に捉えられたり欺誑されることもなく、害されたり,
また怨まれる者に自分のことを知られることがないというのである。
そして人が摩利支天の名を知り、念ずれば摩利支天と同様の功徳が得られるというのである。
その姿については『仏説摩利支天経』や『摩利支提婆華鬘経』によれば、天女の姿に似ており、
左手を乳の前に当てて拳をつくり、その中に天扇を握っている。右手は腕を伸ばし,5本の指も
伸ばして掌を外に向けて下に垂らしているのである。
一方、『大摩里支菩薩経』には天女像とはまったく異なる姿が説かれている。
即ち三面六臂の忿怒相で、1面は菩薩面をなし、もう1面は童女面をなしている。持ちものは
天女像の場合、天扇だけであったのが、
弓、箭、針、線、鉤、羅索、金剛杵などの武器を持つのである。
針や線は害する者の口と眼とを縫い合わせて害を加えさせないようにするためで、弓と箭等を持つの
三面六臂あるいは八臂の姿をなす摩利支天は猪の上に乗っていることが特徴的である。
インドはナーランダ寺などに古像が存し、唐では不空が白檀像を刻んだといわれている。
わが国では中世に忿怒の摩利支天が、武士の守護神として信仰され、また、これを本尊として護身、隠身、遠行、得財、論争勝利などを念ずる
摩利支天法と称する修法が行われたといわれている。
日蓮聖人においては、『四条金吾釈迦仏供養事』に「大日天子居し給ふ。(略) 前には摩利支天女まします」(定1184頁)とあり、
図録『日月之事』(定2304頁)にも同意の図が示されている。これら真蹟遺文をみると、聖人は摩利支天を天女として受けとり、
日天信仰の内に組み入れられたものであったようである。
後世、久遠成院日親に摩利支天信仰が見られる。
京都本法寺に伝わる『摩利支天勧請記』によれば、『四条金吾殿御返事』定406頁)、『秋元殿御返事』(定1685頁)
(両所共に真蹟無し)に基づき、剣を持ち、忿怒の姿をとる、法華経行者の守護神としての摩利支天を信仰していたようで、
日親が将軍足利義教への諌暁によって投獄され数々の拷問を受けた際にもその容貌は変化せず、一毛も損じなかった。
これは摩利支天の霊威であるとし、以後、日親が書した曼荼羅には、しばしば摩利支天が勧請されたと記されている。
現在も同寺には摩利支天堂があり猪に乗った摩利支天が勧請されている。
日蓮宗事典より