黒沢清と云えば、「脱構築」の《神田川淫乱戦争》や《ドレミファ娘の血は騒ぐ》、その反動とも思える「古典への回帰」の《スウィートホーム》の印象が強かったので、初めて《CURE》を観た時は大いに戸惑った。
「この人、いつからこんな作風になったんだ!?」。
で、遡って作品を鑑賞して、本作からであることを確認した。
長回しの芝居の中で唐突に出現する殺人現場。「おいおい、いきなり殺すなよッ」。観客の心の準備を無視したグランギニョールは、本作から黒沢映画の名物となる。
本作の前に黒沢清は、哀川翔とのコンビで《傷だらけの天使》の現代版《勝手にしやがれ!》シリーズを6本も監督している(岸田今日子役は洞口依子。岸田森役は大杉漣)。そんな中で、もともとの出自が「脱構築」の黒沢監督は、物語を壊したくて壊したくてたまらなくなったのだろう。しかし、Vシネマの枠ではなかなか難しい。そこで、その枠でも物語を壊す方法を模索していたのではないか?。その試みが本作であり、その成果が《CURE》以降に応用されたように思える。その意味で本作は、今日の黒沢清誕生の記念碑的作品と云えよう。
物語は極めて単純。オーソドックスな復讐ものである。
子供の頃、家族を皆殺しにされた主人公=哀川翔は、今では刑事となっていた。そして、担当事件の黒幕が皆殺しの犯人であることを知る。
「やっと見つけることができた」。
しかし、事件は思いのほか複雑で、逆に妻を殺されてしまう。打ちのめされた主人公は、刑事を辞職し、復讐の鬼と化すのであった.....。
よくある話であるが、撮り方が「変」なので、そのギクシャクぶりが妙に印象に残る。先に指摘した「唐突に出現する殺人現場」は云うに及ばず、「二人が真正面から撃ち合っているにも拘わらず、全然当らない決闘シーン」とか、「撃たれた筈の哀川翔がまったく無傷でいるラスト」とか、「変」な描写がどんどこ出て来て、観客は大いに困惑する。困惑するが、それが「わざと」やられていることも観客には判る。そのために「なんだかよく判らないけど、ひょっとしたらスゴイ映画なのではないか?」と錯覚してしまうことになるのである。
(あ。実際にスゴイ映画ですよ。なんだかよく判らないけど感心させられるという意味で)。
本作から得られるものは多いが、中でも、オツムの足りない殺し屋に扮した六平直政の怪演は特筆されるべきであろう(左写真下)。
それから、その兄貴に扮した「セクハラAV監督」清水大敬もなかなかの名演である。
|