「鈴弁殺し」または「山憲事件」の呼称でお馴染みの事件である。
大正8年(1919年)6月6日午後4時半頃、新潟県三島郡大河津村の信濃川下流の岸辺にトランクが漂着しているのを牛乳配達人が発見した。蓋が少し開いており、中から凄まじい臭いがする。恐る恐る覗いてみて仰天した。中身は人間の胴体だったのだ。
それは頭部と脚が切断された男性の胴体だった。陰毛が白髪混じりであることから老人と推測された。臭気を防ぐためだろうか、大量のナフタレン(防虫剤)が撒かれていたが、そのことが却って臭気を倍加していた。
また、トランクには「KY」の二文字が刻まれていた。おそらく犯人、若しくは関係者のイニシャルと見て間違いないだろう。
(註:大正8年6月14日付の東京日日新聞号外では『K. Yamada』とまで刻まれていたとされている)
新潟県警は直ちに付近の旅館や車夫、船頭等に聞き込みをして回り、間もなく主犯の当たりをつける。山田憲(30)。農商務省外米管理部に勤務するエリート官僚である。
山田憲は新潟県南蒲原郡中島村の豪農の家に生まれた。東京帝国大学農学部を卒業後、農商務省の技師(技術関係を扱う高等官)となり、大正7年(1918年)4月より設置された外米管理部の主任に抜擢される。
当時は米の価格が極めて不安定だった。米を買い占めて価格をつり上げる悪徳業者が跋扈していたのだ。そこで時の寺内内閣は、外米の輸入を政府が管理することで米価の調整を図った。かくして外米管理部は設置された。
註:但し、寺内内閣自体は同年7月22日に富山県魚津に端を発した米騒動の責任を取る形で、9月21日に総辞職している。
その政策は以下の如し。まず、資力と信用の備わる商店を指定して、公定価格で外米を販売させる。商店には100斤(約60kg)につき30銭の手数料を与え、損失が出れば補償する…。なんと、損失を補填してくれるのだ。これほどうまい話はない。いずれの商店も指定されるべく名乗りを上げるが、政府が指定したのは東京の三井物産と湯浅商店、大阪の岩井商店、神戸の鈴木商店の4店だけだった。
間もなく神戸の大黒商店と内外貿易、名古屋の加藤商店の3店が仲間入りしたが、ここで諸君もお気づきかと思う。そう。このようなケースには必ず贈収賄の影が付きまとう。本件の被害者、鈴弁こと鈴木弁蔵(60)もまた主任たる山田に執拗に働きかけた一人だった。
横浜の農家に生まれた鈴木弁蔵は、米屋の丁稚奉公からの叩き上げで巨万の財を成した人物である。主に外米の買い占めで暴利を貪っていたようで、その評判はよろしくない。むしろ悪評が目立つ。『東京日日新聞』大正8年6月14日号外によれば「性来強慾の男にて、利益のためには身命を賭するも辞さざるほどにて、同業者の間にはズル弁の綽名を以って知らるるくらいなり」。
そんな鈴木の働きかけを、山田は当初は相手にしていなかった。山田の経歴からも判る通り、エリート中のエリートだ。正義漢だったのである。
ところが、米相場に手を出して、多額の損失を抱えるようになると雲行きが怪しくなる。大正8年(1919年)4月頃には、損失は1万円にも膨らみ、毎日のように債権者に負われる始末。妻の実家から3千円を借りて穴埋めをしたものの焼け石に水だ。にっちもさっちも行かずに焦りに焦っていた。
そんな時に脳裏に浮かんだのが「ズル弁」こと鈴木弁蔵だった。
「米の価格をつり上げて暴利を貪った男だ。少しぐらい懲らしめても、神はお許し下さるだろう」
そうかあ? お前も一緒に地獄行きと違うかあ?
大正8年(1919年)5月20日、山田は鈴木を呼び出して、このように切り出した。
「先日、指定された商店は20円出しましたよ。まあ、すぐに取り返せる金額ですから、先方としては安い出資でしょう」
鈴木は「おっ」と身を乗り出した。阿吽の呼吸というやつである。ようやく主任が乗って来たことを理解したのだ。山田は話を続ける。
「どうです? 一緒に事業を始めませんか? 資本金は30万円。折半して15万円ずつということで」
ところが、さすがは「ズル弁」。この話にすぐには飛びつかなかった。
「15万は大金ですからねえ。ちょっと考えさせて下さいよ」
値切りの交渉を始めたのだ。やるねえ「ズル弁」。こういう人、俺も何人も見てきたよ。
山田としては「チェッ」ってなもんである。すぐにでも飛びつくと思っていたのに、なんちゅう古狸だ。仕方ねえなあ。
「それでは私が10万円出しましょう。あなたは24日までに5万円を用立てて下さい」
10万円も泣かれちゃ「ズル弁」も首を縦に振らないわけには行かぬ。かくして商談は成立し、5万円は5月24日に山田側に支払われた。その際に農商務省局長代理秘書官に扮したのは、山田の同居人にして共犯者、渡辺惣蔵(27)だった。
その後、いくら待てども鈴木のもとに指定商の通知は届かず。さては騙されたかと鈴木は山田に5万円の返還を迫った。ところが、うち8千円は既に相場の穴埋めに使ってしまっていたのだ。返せる筈がないではないか。仕方がないので山田は逆ギレ。
「せっかく便宜を図ってやったのに騙されたとは何事だ! もう少し待ってくれたまえ!」
切羽詰まっていた。このままでは鈴木は必ず俺を告発することだろう。そうなってはおしまいだ。鈴木を殺るよりほかにない。
「あんな奴、生かしておいては国家のためにならぬ。省内には奴のために自殺した者が二人もいるのだ。殺すしかない。力を貸してくれ」
頼まれちゃった共犯者の渡辺は思いとどまるように説得したが、山田の意志は固かった。渡辺は恩義がある手前、手伝わざるを得なかった。
「5万円を返済する。5月31日午後8時頃に自宅まで来て欲しい」
かかる手紙を鈴木に郵送し、二人は殺害の計画を練ったのである。
5月31日、妻と書生たちを寄席に送り出した山田は、渡辺に鈴木を恵比寿駅まで迎えにやらせ、二階の座敷で酒を振る舞った。そして、折りを見て、
「5万円はもう少し待って欲しい」
と頭を下げた。鈴木は居丈高に声を荒げた。
「約束が違うじゃないか! これじゃ詐欺だ!」
「申し訳ない。あと3日待って下さい」
眼の前で山田に土下座されて、やれやれ、判りましたよ、あと3日だけですよと怒りを納めたその隙に、渡辺が鈴木の背後に回り、バットで頭に一撃喰らわせた。ギャッと叫んで倒れたところを、すかさず手拭いで首を絞めた。そして、山田が短刀で頸動脈を切断し、とどめを刺したのである。
翌日、山田は麻布で米屋を営んでいる従兄弟の山田庄平(38)に事情を打ち明け、渡辺と二人で死体を信濃川に沈めて欲しいと頼んだ。そして、行李に隠していた死体を物置でバラバラにした後、大小2つのトランクに胴体、頭、手足、凶器と衣類を収納した。
6月2日、渡辺と庄平の二人は午後8時13分上野発の新潟行きに乗り、翌3日午前6時に長岡駅で下車。山田の幼馴染みという船頭の高野久蔵のもとを訪ねた。彼に宛てた山田からの手紙には「この荷物を至急実家に届けてくれ」とあった。
「ああ、いいよ。憲さんちは川下だ」
地元の出世頭からの依頼とあって高野は快諾してくれた。
「だけど、随分と重そうだな。何が入ってるんだい?」
「実は戦時禁制品が入ってるんです。どうか内密にお願いします」
「なあに、しゃべりゃしないよ。俺と憲さんの仲だからな。だけど、そんなもん、なんで実家に届けるんだい?」
「いや、出来れば遺棄して貰いたいんで…」
「ああ、なるほどね。そういうことかい。よっしゃ、協力しよう」
ということで、それぞれのトランクに石を3つずつ括りつけ、ドボンと放り込んだわけだが、重石が外れてしまったのか、岸辺に漂着してしまった次第である。
事件が報道されたのは6月8日のことだった。記事を一瞥して愕然とした山田は、渡辺を伴って警視庁に出頭した。
「このたび信濃川で発見された首なし死体の身元は、外米輸入商の鈴木弁蔵です。ここにいる渡辺の犯行ということが判りましたので、自首するように説得し、こうして連れて参りました」
人がいいなあ渡辺惣蔵。殺しの手伝いのお次は身代わりかい。
だが、捜査のプロをそう易々と騙せるものではない。その供述に次々とボロが出始めて、主犯たる山田憲は逮捕されたのである。
結局、山田憲には死刑、渡辺惣蔵には懲役10年、山田庄平には懲役1年6ケ月(執行猶予3年)の判決が下された。
なお、山田が鈴木弁蔵から詐取した5円のうち、残っている4万2千円は鈴木家に返還され、同家はこれを慈善団体に寄付したという。「正義のために殺した」とか山田が法廷でほざいたために、そうせざるを得なかったのだろう。
(2009年11月14日/岸田裁月) |