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清水定吉


 

 明治15年(1882年)から4年に渡って、東京府内では拳銃強盗が相次いでいた。被害は実に80件以上にも及び、既に5人が死亡している。市民は早く逮捕せいとやいのやいのと責っつくが、警察はその手掛かりすら掴めていなかった。

 そうした中、明治19年(1886年)12月3日午前5時頃、日本橋区馬喰町2丁目1番地の絵草紙屋、石川スズ方に覆面を被った強盗が押し入った。雇い人の岡島長次郎が抵抗すると、強盗は拳銃を発砲。弾は岡島氏の右腿を貫通したが、幸いにも命に別状はなかった。一方、強盗はというと、発砲音にビビって何も盗らずに逃走した。
 通報を受けた久松警察署の小川佗吉郎巡査は、現場に向かう途中で不審な男を見かけた。按摩姿なのに小走りなのだ。誰がどう見てもこいつは怪しい。呼び止めると男は素直に応じたものの、右手は懐に入れたままだ。
「その手を出せ!」
 小川巡査が命じると、男は忍ばせていた短刀でいきなり斬りつけて来た。これを巧みにかわす小川巡査。ところが、短刀を奪い取ろうとして左手に深い傷を負ってしまう。この隙に男は拳銃を取り出し、乱射しながら逃走した。それでも小川巡査は諦めなかった。尚も執拗に追い掛けて、浜町河岸で遂に追いつき、捕縛するに至ったのである。まさに警察官の鑑と云えよう。

 男の名は清水定吉(50)。本所松坂町2丁目3番地において揉み療治を営んでいた彼は、強盗後は盲人の按摩師に扮装することで巧みに捜査の手から逃れていたのだ。犯罪歴は古いが、拳銃強盗を思い立ったのは明治15年夏。たまたま日本橋浜町で拳銃と実弾59発を拾ってからだという。たまたま拾うものなのだろうか、拳銃って。
 結局、清水には死刑判決が下されて、明治20年(1887年)9月に処刑された。

 一方、清水を見事に逮捕した小川巡査は、その功績が認められて警部補に昇進するも、逮捕時に負った傷が悪化し、明治20年4月26日に死亡。まだ24歳だった。誠に残念なことである。
 小川警部補の殉死を惜しんだ府民は、当時の浜町川に架かる橋を「小川橋」と命名した。川が埋められた今日でも、功績を讃える石碑が残されている。

(2009年5月17日/岸田裁月) 


参考資料

『日本猟奇・残酷事件簿』合田一道+犯罪史研究会(扶桑社)
『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)


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