移転しました。https://www.madisons.jp/murder/text_japan/noguchi_osaburo.html

 

野口男三郎



本件をモチーフにした花輪和一著『肉屋敷』
お淋は夫の病を治すために殺人を繰り返す

 明治35年(1902年)3月27日午後9時頃、東京府麹町区在住の印刷工の長男、河合荘亮(11)が殺害された。荘亮は母親と湯屋に行った帰りに砂糖を買って来るよう頼まれた。それっきり梨のつぶてだ。いつまで経っても帰って来ない。心配した両親が近所の者と探し回ったところ、午後10時頃、自宅付近の民家の勝手口前で無惨な遺体が発見された次第である。
 遺体は頸部に切り傷があるだけでなく、左右の臀部の肉が切り取られ、両眼が抉り取られていた。死因は窒息死である。間もなく60mほど離れた場所で少年の下駄が発見された。おそらく、この場所で少年は扼殺されて、遺体発見現場まで運ばれて臀部を切り取られたのだろう。

 少年の父親には思い当たる節があった。実は午後9時頃に勤務先から帰宅する折り、殺害現場で不審な男とすれ違っていたのだ。その男は鳥打ち帽に二重回し(和服用の外套)という出で立ちで、二重回しの中に何かを抱えているようだった。すれ違う際、男が「いいかい、しっかりしろよ」と云ったのを父親は耳にしている。その時は酔っぱらいでも介抱しているのかと思ったが、今思えば、二重回しの中にいたのは息子だったのだ。殺害現場に通り掛ったのがその父親だったとは、何たる運命の悪戯だろうか。

 では、その男とはいったい何者なのだろうか? して、その動機は?
 11歳の少年のこと。大人の恨みを買う筈がない。両親にも恨まれる覚えがない。母親は継母だが、家庭は至って円満だった。臀部の肉が奪われていることから男色家の犯行か? それとも「人肉は業病に効く」との迷信を信じる輩の仕業なのか? 様々な憶測が飛び交えども、捜査は一向に進展しなかった。



 3年後の明治38年(1905年)5月25日、やはり麹町区の薬剤商、都築富五郎(23)の遺体が豊多摩郡代々幡村代々木の山林で発見された。荒縄で首を絞めたような痕があるため、当初は首吊り自殺と思われたが、捜査が進むにつれて他殺の線が濃厚になった。富五郎は野口男三郎(26)なる人物から土地売買の儲け話を持ちかけられ、前日に350円もの大金を銀行から引き出していたのだ。男三郎が富五郎を誘き出して殺害し、金を奪ったと見るべきだろう。

 男三郎は金に困っていたにも拘らず、富五郎の殺害後は急に金回りがよくなり、下宿先の魚屋に「このたび満州軍司令部付の通訳官に任命された」などとホラを吹き、軍服やサーベルを買い求めていた。つまり、彼奴は満州に高飛びしようとしているのだ。そうはさせてなるものか。かくして指名手配された男三郎は、5月28日午後6時、麹町区飯田町(現飯田橋)停車場にて知人に見送られて、まさに旅立とうとしているところを逮捕された。その際、男三郎は忍ばせていたストリキニーネで自殺を企てたが、あっさりと刑事に取り上げられてしまった。



 野口男三郎(旧姓武林)は高名な漢詩人、野口寧斎(事件当時は故人)の義弟だった。大阪の桃山英学院で学んだ後、上京して理学博士の石川千代松宅に寄宿し、東京外国語大学露語科に通っていた。通学の乗物代を節約するため、毎朝暗いうちから提灯を提げて出掛けるほど真面目な学生だった。石川博士の信頼も厚く、その紹介で野口寧斎の家にも出入りするようになる。

 当時の寧斎は既に癩病(ハンセン病)を患っていた。あの正岡子規でさえも「文人の最も不幸なる者野口寧斎、次に予」と同情を寄せている。寧斎の父、野口常共(肥前諫早の藩士)もまた癩病で39歳の若さで死亡している。寧斎は母と妹のソエとの3人で暮らしていたが、業病の血統を残さぬためにと兄妹共に生涯独身を貫く誓いを立てていた。
 ところが、男三郎によりこの誓いは破られてしまう。ソエが男三郎とデキてしまったのだ。母は二人の仲を認めて、男三郎を自宅に迎え入れるが、寧斎は認めようとはしなかった。男三郎にはその理由が判らなかった。彼はまだ寧斎が癩病であることを知らなかったのだ。

 ソエとの蜜月の日々を送っていた男三郎は、勉学に身が入らず、二度の落第を経て退学処分になる。寧斎に知られたら一大事。追い出されるに決まっている。已むなく男三郎は学校に通う振りをし続けた。真面目な学生が詐欺師へと転じたのは、この辺りからである。
 暇潰しのために麹町の二松学舎に通っていた男三郎は、やがて論語の講義で驚くべきことを耳にする。孔子の門人十哲の一人、伯牛にまつわるエピソードに触れた折りのことだ。
「伯牛疾(やまい)有り。子、之を問ふ。窓より其の手を執りて曰く、之、亡はれし命なるかな。斯の人にして斯の疾有るや」
 伯牛は癩病だったのだ。講師はこの一節を読んだ後、不用意にもこう洩らした。
「野口寧斎もまた然るか」
 え? 寧斎が癩病? 確かに床に伏してはいるが、まさか癩病とは…。
 寝耳に水だった。慌てて野口家に戻った男三郎は、大阪の実家に急な用事が出来たと偽って、野口家の郷里である長崎県諫早まで出向いた。そして、父親が癩病で亡くなっていることを突き止めたのだった。
 寧斎が結婚に反対している理由はこれだったのか…。
 ソエを溺愛していた男三郎は、ソエだけでも業病から救おうと医学書を読み漁った。ところが、今とは異なり当時は癩病は不治の病。治療法はまだ発見されていなかった…。



 男三郎の身辺を調べ上げた警察は、野口寧斎が癩病を患っていた事実に注目した。「人肉は業病に効く」との俗説がある。ひょっとしたら、この男が3年前の少年殺しの下手人ではないのか? その過去を徹底的に洗ったところ、明治35年3月28日、すなわち少年が殺害された翌日に、男三郎が京橋区南金六町の瀬戸物屋にて焜炉と鍋を購入していたこと、その晩に同区木挽町にて舟を借りて、浜離宮付近の海上で3時間に渡って何事かをしていたことを突き止めた。如何にも怪しい。厳しく追及した結果、男三郎は少年殺しを認めた。供述調書によれば、犯行は以下の如し。

「あの日、野口宅に帰りかけていた夜9時頃と思いますが、写真屋の前から十歩ほど先に男の子の行くのが見えました。すぐに実行したいと考え、後ろからその子を抱いて、両腹と脇を押さえて突き上げました。子供が声を上げましたので、手ですぐ口を押さえました。そうして奥の方の井戸のそばで、どこの肉を削ろうかと考えましたが、臀の肉が一番よかろうと思って、ナイフで臀肉を切り取りました。そうしてハンカチーフに包んで野口家に持ち帰りました。
 翌朝、学校に行くふりをして書籍と共に少年の肉を風呂敷に包みました。同時に木炭を持ち、京橋の陶器商の三銀に行きましてコンロとナベを買い、木挽町の釣り舟屋で舟を借りて、櫓艚(やぐらぶね)を漕ぎ、一人で海上に出ました。御浜御殿から一丁ほど離れた海の沖で錨をおろし、釣りをしているように装い、持って行った肉を塩水で清め、2時間ほど煮ました。
 コンロ、ナベ、肉などの残りものはすべて海中に投棄し、その汁だけを持って戻り、それから赤坂の交番のそばの店で鶏のスープ一合を購入し、自宅へ帰りました。それは午後の3時頃だと思います。それから兄(寧斎)に、今日はよいスープを買って来たと申して、人肉の汁にスープを混ぜ、さらに五香という支那の香料を加え、飲みよいようにして兄に勧めました。兄はそれを飲みました。それから私の部屋にソエを呼んで、よいスープを買ってきたからと申しました。私が飲まなければ、ソエは飲まないと思いましたので、私から鶏だけのスープを飲んで見せました。するとソエは兄に飲ませたのと同じスープを安心して飲みました」

 また、男三郎はこのようなことも供述したという。それは事件の2週間ほど前、3月12日のことだった。近所の縁日に出掛けた男三郎は、寧斎を慰めるために夜店で早咲きの桜を一鉢買い求めた。寧斎はたいそう喜び、以下の故事を語って聞かせたという。
 昔、支那で然る徳の高い学者が業病を患った。ほとんどの門弟が師を捨てて立ち去る中で、一人の若い門弟だけが残って介抱に手を尽くした。或る晩、夢の中で神仙が現れ、「南方三千里の向こうに霊薬がある。これを取るにはただ至誠のみ」と告げて消えた。門弟は遥か三千里の旅の末、ようやく霊薬を探り当てた。それはなんと一塊の人肉だった。師に勧めたところ効果は覿面で、業病はたちまち治癒した…。
 こう語り終えた寧斎は「師弟の間、すでにかくの如し」と一言添えると、男三郎の顔をじっと見つめたという。
 恰も寧斎が犯行を教唆したかのような供述である。しかし、その真偽は確かめようがない。寧斎が死んでしまっている今、真相を知っているのは男三郎のみなのだ。



 少年殺しの後、男三郎は卒業の時を迎えた。ところが、外国語大学はとっくに退学になっている。已むなく男三郎は卒業証書を偽造した。いやはや、とんだ門弟である。
 さて、お次は就職だが、露語科を「出た」とはいえ、嘘っこなのだからままならない。銀座の貿易商の求人募集に応募したところ、テストとして出されたロシア貨幣の文字が読めなかったというから、こりゃ相当のお馬鹿さん。これまでいったい何を学んで来たというのか。
 結局、男三郎には詐欺師になる道しか残されていなかった。一年志願兵に行くと偽って、明治36年12月に野口家を後にする。出向いた先は神奈川県三浦郡三崎だ。自らを「参謀本部通訳官」と偽り、
「自分は秘密の用務で派遣された者だが、しばらく滞在させてもらいたい」
 などと嘘八百を並べて、地元の有力者をまんまとだまくらかしたのである。それだけではない。その長女ミサオは疎か、妻ツネにまで手をつけたのだから不届き千万。ツネと共に東京に繰り出し、方々の旅館を泊まり歩くこともあったというから、いやはやなんとも。甚だ呆れた男である。挙げ句に、横流しの金の延べ棒を安く世話すると偽って、大金を掠め取ろうとしたところでようやく主の逆鱗に触れ、ここらが潮時と退散した次第である。

 男三郎が10ケ月ぶりに野口家に帰還すると、ソエは臨月を迎えていた。そうなのだ。ソエは妊娠していたのだ。こうなってしまえば頑固な寧斎も二人の仲を認めざるを得ない。かくして男三郎は晴れて婿入り、「野口男三郎」と名乗ることを許されたのである。
 しかし、その一方で、ツネとの関係はなおも続いていた。たびたび東京に呼び出して、旅館での逢い引きを繰り返していたのだ。その噂はやがて寧斎の耳にも入る。何たる男だ。働きもせずにブラブラする毎日。おまけに浮気三昧とな。このままではソエが不憫でならぬ。かくして男三郎は離縁を迫られ、野口家から追い出されるハメになるのだった。

 男三郎としては何としても離縁だけは避けたかった。ソエのことは勿論、野口家の財産を当てにしていたからだ。寧斎の命は長くはない。亡くなれば全財産が懐に転がり込む。だから、なんとかそれまでは野口家の一員であらねばならぬ。ところが、寧斎の決意は堅かった。如何なる詫びも頑として聞き入れなかったのである。

 そんな中、寧斎が死亡した。明治38年(1905年)5月12日未明のことである。布団から上半身を乗り出し、舌を出した状態で死んでいるのを発見されたのだ。家人は事情を表沙汰にすることを憚り、死因を脳溢血として埋葬した。今となっては男三郎に殺害された可能性が濃厚である。早速、遺体を掘り起こして解剖したところ、前胸部の左右に溢血が見つかり、脳溢血に非ず、明らかに外力による死であることが判明した。
 男三郎はこの日、友人に頼んで、わざわざ横須賀から野口家に手紙を出していた。つまりアリバイ工作をしていたわけだ。かくなる事実を突きつけられては云い逃れは出来ない。男三郎は寧斎殺しも自供した。

 尤も、少年殺しと寧斎殺しについては証拠不十分として無罪となった。当時随一と云われた敏腕弁護士、花井卓蔵の功績が大きかったようだ。但し、物的証拠が揃っている薬剤商殺しについては有罪となり、死刑判決が下された。その際、男三郎は少しも悪怯れることなく、涼しげな顔で裁判官を見上げていたという。嘘の上に嘘を重ねて来た男三郎のことだ。ひょっとしたら現実感がなくなっていたのかも知れない。

 ああ世は夢か幻か
 獄舎に独り思ひ寝の
 夢より醒めて見廻せば
 あたりは静かに夜は更けて

 これは男三郎が獄中で作した詩だと云われている。「ああ世は夢か幻か」のくだりに現実感のなさが窺える。
 ちなみに、この詩は演歌師により『天然の美』(見世物小屋でよく流れるあの曲)の替え歌として歌われて一世を風靡したという。当時の人々にとって男三郎の犯罪はそれほどの関心事だったのだ。

(2009年6月1日/岸田裁月) 


参考資料

『ミステリーの系譜』松本清張(中央公論社)
『明治百年100大事件・下』松本清張監修(三一書房)
『バラバラ殺人の系譜』龍田恵子(青弓社)
『日本猟奇・残酷事件簿』合田一道+犯罪史研究会(扶桑社)
『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)
『月ノ光』花輪和一(青林堂)


counter

BACK