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城戸熊太郎


 

河内十人斬り」の呼称でお馴染みの事件である。

 ところは大阪府石川郡赤坂村。この地に暮らす城戸熊太郎は些か間抜けな博打打ちだ。妻がある身分でありながら、森本とらの長女おぬいにうつつを抜かし、妻を追い出して共に暮らし始める。ところが、このおぬいがなかなかのクセモノで、村の顔役、松永伝次郎の次男寅次郎とも密通を重ねていた。このことを知った熊太郎の怒るまいこと。これはいったいどういうことだと母のおとらに詰め寄ると、逆に反撃されてしまう。不甲斐ない熊太郎は月々のお手当を一銭も払っていなかったのだ。だから「別れるならばこれまでの分、耳を揃えて払って貰いましょう」とやり込められてしまったのである。

 払えるものなら払いたいが、あいにく熊太郎はすっからかん。金策をあれこれと思案して、以前に博打で勝った時に松永伝次郎に金を貸したことを思い出す。ところが、伝次郎はそんな記憶はないの一点張りで、金を返すどころか、子分に命じて熊太郎を袋叩きにする始末である。女を取られるわ、借金を踏み倒されるわ、おまけに半殺しにされるわで、熊太郎の松永一家への怒りは頂点に達した。かくして復讐を思い立った次第である。

 それは明治26年(1893年)5月25日のことである。午後11時頃、熊太郎と弟分の谷弥五郎はまず伝次郎の家を襲い、伝次郎の三男三女の3人を斬り殺して火を放った。伝次郎自身は傷を負いながらも隣家に逃げ延びた。熊五郎はその後、伝次郎の長男、松永熊次郎の家を襲い、熊次郎はもちろん、そのと幼い長男次男長女の4人を斬り殺した。次男と長女は首を打ち落とされていたという。そして、仕上げとして三町ほど離れた森本とらの家を襲った。おとらは猟銃で背中を撃ち抜かれて即死、おぬいは納屋で頭を撃ち抜かれていた。
 なお、そもそもの発端のおぬいの密通相手、松永寅次郎はその晩は不在だったために難を逃れた。

 通報を受けた地元警察は、大阪府警本部に協力を求めて、二人が逃げたと思われる金剛山に非常線を張ったが、その行方は杳として知れなかった。二人の遺体が発見されたのは事件から2週間後の6月7日のことだ。熊太郎は弟分と共に自らの命を断つことで騒動にけりを付けたのである。

 なお、この事件は河内音頭に取り上げられて大人気の演目になり、今日もなお歌い継がれている。
「男持つなら熊太郎、弥五郎、十人殺して名を残す」
 彼らが半ば英雄視されているのは、生き方がヘタな、同情すべき半端者だったからだろう。

(2009年5月19日/岸田裁月) 


参考資料

『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)


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