一政米吉(30)は、この手の残虐な事件とは最も無縁の人物に思える。宮崎県東臼杵郡細島町に生まれ、徴集に応じて小倉第六師団に入営。極めて優秀で、早いうちから昇進し、二等から一等軍曹を経て、陸軍戸山学校助教授に抜擢される。日清戦争では大本営に配属され、各地の戦闘に貢献した。帰国後は曹長に昇進し、勲八等を授かる。軍人としては申し分ない出世ぶりである。
妻おいしを娶り、牛込区原町に一軒家を構え、端からは何不自由ない暮らしを送っているかに思えた。ところがどっこい、その家計は火の車だった。越後の縮商、配野伝兵衛からの20円もの借り入れをしており、その厳しい取り立て故に首が回らない状態に陥っていたのである。
それは明治30年(1897年)9月11日のことだった。陸軍戸山学校に伝兵衛を呼び出した米吉は、夕暮れまで酒を酌み交わした。学校を後にした頃には陽は既に暮れていた。戸山辺りは当時は淋しかったのだろう。人っ子一人いないことを確認すると、米吉は伝兵衛の背後から軍刀で斬りつけた。仕上げに頭を斬り落とし、遺体を高田馬場付近の草むらに遺棄したというから如何にも凶悪だ。
凶悪な反面、杜撰でもある。己れの職場近くで手を下すとは具の骨頂。考えた末の犯行とは思えない。間もなく犯行の際に右眼下に負った傷ゆえに疑われて、まず警視庁に召喚された後、大手町憲兵隊に引き渡された。陸軍軍法会議にて裁かれて、翌年2月に無期徒刑が下された。
(2009年5月19日/岸田裁月) |