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堀文左衛門


 

 明治44年(1911年)2月16日午前8時半頃、長野の善光寺に以下のような電報が届いた。
「ケサコウリ1コテツヨリオクル、ウケトリタノム、コウノヒロキチ」
 発信元は東京の浅草郵便局だった。
 電報の通りに行李が届いたのは午前10時頃のことだ。寺の事務員は団体参拝者の荷物だろうと思い、旅館に連絡したが心当たりはないという。念のために「コウノヒロキチ」なる者がいないか調べさせたが、宿泊名簿に該当者はいなかった。
 その翌日も誰も受け取りに来なかった。3日目にようやく不審に思って中身を確認したところ、坊主頭で真っ黒な顔の女性の遺体が現れて、吃驚仰天した次第である。

 年齢は50歳前後、身長5尺というから1m50ほど。肥満体で、経帷子を身につけ、鼻には綿が詰められていた。顔が真っ黒なのは漆を塗られていたからだ。これでは人相が判らない。おそらく送り主は、遺体を身元を隠すために顔に漆を塗り、頭髪を剃ったのだろう。
 行李の中には遺体の他に以下のものが入っていた。
「法誉妙順禅定尼」との戒名が書かれた紙。
「東京市浅草黒船町、中野とり同行二人」と書かれた巡礼札。
「埋葬料」「回向料」と書かれた5円入りの紙包み。
 はて。送り主は遺体を無断で送りつけて、供養したつもりなのだろうか?

 浅草黒船町には「中野とり」なる人物が実在した。54歳の御婦人である。ところが、当人はぴんぴんしている。故に遺体は彼女ではない。
 彼女の供述によれば、8年前に善光寺参りをしたことがあるが、同行者は200人もおり、遺体の身元については全く心当たりがないという。
 長野署の依頼を受けた警察庁は、併せて「コウノヒロキチ(河野広吉?)」なる人物も捜索したが、こちらの方は見当もつかなかった。おそらく偽名なのだろう。

 前日の2月15日に、上野駅から長野駅宛に行李を送ったのは50歳前後の男だった。男は午後1時30分頃、手荷物係に長野行きの二等切符を見せて、
「この行李を配達料付き手荷物として発送して欲しい」
 と頼んだという。しかし、残念ながら、手荷物係は男の人相や風体については殆ど記憶していなかった。

 男は切符を買うことは買ったが、翌朝に浅草で電報を打っているので、長野行きの列車には乗っていない。物理的に不可能だ。ということは、乗りもしない列車の切符を買ったことになる。如何にも不自然じゃないか。かくして警察庁は犯罪性ありと判断、2人の刑事を長野署に送った。
 ところが、長野署では死因に問題なしとして、遺体を仮埋葬に付してしまっていた…。
 今日では考えられないことだが、当時は遺体を無断で送りつけて供養してもらうってなことが普通に行われていたのだろうか? まさかそんな筈はないだろう。故に長野署のこの対応は、治安を守る警察として怠慢と云わざるを得ない。警察庁の刑事たちも大いに呆れ、遺体をよこせと喰い下がったが、長野署側は頑として受け入れず、結局は引き下がらざるを得なかった。

 事件が進展したのは3月5日になってからだった。或る車夫が出頭し、2月15日に浅草東本願寺の玄関番、堀文左衛門に頼まれて、行李を上野駅まで運んだ旨を供述したのだ。
「もしや、あの行李が善光寺の死体詰めではなかったかと思うと、もう気味が悪くて…」
 直ちに東本願寺に出向いたところ、文左衛門は2月28日に大阪に引き払った後だった。しかも、文左衛門にはコウ(50)という妻がいたが、2月25日頃から姿が見えなくなったという。遺体はコウと見て間違いないだろう。

 文左衛門にはハルという情婦がおり、そのことでコウとの喧嘩が絶えなかったという。早速、ハルのもとに急行したところ、彼女もまた何処に引き払った後だった。ハルの実家は大阪だ。二人して大阪に高飛びしたと踏んだ刑事たちは、大阪市北区西野田玉川町の実家を見張るよう曾根崎署に打電した。
 かくして3月7日午後3時頃、文左衛門はハルと共に実家の敷居を跨いだところを逮捕された。その際、文左衛門は抵抗することなく、すっかり観念した様子だったという。
「判ってます。ご迷惑かけて申し訳ありません」
 ハルは事件に関係ないとして、すぐさま釈放された。

 文左衛門は取調べに対して、涙ながらに全てを自供した。供述によれば、犯行は2月14日午前3時頃のことだった。いつものように喧嘩が始まり、文左衛門はコウをどやしつけると、コウは、
「私は死んだ方がいいんだ! いっそ殺せ! さあ殺せ!」
 売り言葉に買い言葉だ。これを受けて文左衛門は、
「よし! それなら望み通りにしてやる!」
 と手拭いで首を締めつけた。どれほど締めていたのだろうか。気がついたらコウは息をしていなかった。まさか本当に死ぬとは思わない。どうしたものかと思案した文左衛門は、生前のコウの言葉を思い出した。
「私が死んだら、亡骸は善光寺様に収めて下さい」
 ならば望み通りにしてやろうと、行李で送った次第である。

「法誉妙順禅定尼」という戒名は、文左衛門自らがが考えたものだという。また、「東京市浅草黒船町、中野とり同行二人」という巡礼札は、コウが善光寺参りをした際に、同行者と交換した名刺の中に含まれていた一枚だった。つまり、コウは同行者200人のうちの一人だったのだ。

 近所の者には「コウは実家に帰った」と吹聴していた文左衛門だが、事件が大々的に報道されるや気が気でなくなり、自首を決意し、ハルに全てを打ち明けた。ところが、ハルを大阪に帰した後、今一度ハルに会いたくなり、家財を売り払って大阪に逐電。ハルと共に大阪や京都を見物し、そしてハルの実家に立ち戻ったところを逮捕されたというわけだ。文左衛門の供述が事実ならば、事件は間もなく自首という形で解決していたのだ。
 かくして堀文左衛門は妻殺しの容疑で有罪となり、無期徒刑が云い渡された。

(2009年6月9日/岸田裁月) 


参考資料

『日本猟奇・残酷事件簿』合田一道+犯罪史研究会(扶桑社)


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