エセル・リリー・メイジャー
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エセル・リリー・メイジャーは1891年、リンカンシャー州のヘンリー・ホーリー卿の地所で、猟場番トム・ブラウンの長女として生まれた。学校を卒業後、ドレスメーカーになるが、1914年に妊娠してしまう。当時は未婚の母になることは極めて不名誉なことだった。故に生まれた娘のオーリエルはエセルの妹として育てられた。
1918年6月1日、エセルはトラック運転手のアーサー・メイジャーと結婚する。
彼はオーリエルが実はエセルの娘であることを知らなかった。
翌年には息子のローレンスが生まれ、夫妻は幸せそのものだった。そして、1929年には両親のもとから独立し、カーク=オン=ベインに移り住む。
やがてメイジャーは嫌な噂を耳にする。それはエセルの年の離れた妹が、実は彼女の娘だというものだった。メイジャーは妻を問いただす。彼女は当初は否定していたが、やがて渋々ながらも事実と認めた。しかし、父親の名は決して明かそうとはしなかった。
これはメイジャーにとっては大打撃だった。なにしろ10年以上も騙されていたわけだから。その日からエセルに暴力を振るうようになり、大酒を飲んで遊び歩いた。
1934年5月、エセルは夫宛てのラブレターをいくつも発見した。それは近所に住む妙齢女性からのものだった。嫉妬の炎をメラメラを燃やしたエセルは、夫に復讐することを決意した。夫の不貞をご近所さんに吹聴してまわり、警察署に出向いて夫の飲酒運転を申告したのである。
そんなことしても、自分に跳ね返って来るだけなんだけどね。
で、実際に跳ね返って来たのだな。メイジャーに「もう、お前の面倒は見ない」と断言されてしまったのだ。エセルはラブレターを突きつけて「これをどうするつもりなの!?」と詰め寄ったが、メイジャーの返答は冷淡だった。
「何も。それについてはお前の好きにすればいいさ」
もはや夫婦の関係は修復不可能だった。
その直後の5月22日、メイジャーが突然の病いに倒れた。手足の痙攣が酷く、話すことも出来ない。医師は癲癇の類いではないかと診断したが、そうではなかった。実はストリキニーネ中毒だったのである。そして、2日後の5月24日に回復することなく死亡した。
エセルはすぐにでも夫を埋葬しようとしていたのだが、警察には匿名の告発文が届いていた。
「メイジャー家の近所の犬が、メイジャー氏から貰ったコンビーフを食べた直後に死にました。メイジャー氏もそのコンビーフを食べたことで死んだのではないでしょうか?」
これを受けて、メイジャーと犬が検視解剖に回されて、ストリキニーネによる毒殺事件であることが発覚したわけである。
刑事はエセルを尋問した。
「旦那さんの死因は毒殺でした。何か心当たりはありませんか?」
するとエセルはこのように答えた。
「主人がストリキニーネで死んだとは知りませんでした」
(I did not know my husband died from strychnine poisoning.)
刑事は尋ね返した。
「私はストリキニーネについては一言も口にしていませんよ。どうしてそれが判ったのですか?」
(I never mentioned strychnine, how did you know that ?)
すると、彼女はこのように答えた。
「あら、ごめんなさい。間違えました」
(Oh, I'm sorry. I must have made a mistake.)
自白したも同然である。
かくして、夫殺しの容疑で有罪となり、死刑を宣告されたエセル・リリー・メイジャーは、同年12月19日に絞首刑により処刑された。残された2人の子供のことを思えば、気の毒な事件である。
(2012年10月27日/岸田裁月)
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