フランシス・キダー(旧姓ターナー)は1843年、ケント州ニュー・ロムニーで生まれた。そして、1965年にウィリアム・キダーというジャガイモの卸業者と結婚したのだが、その前途は多難だった。というのも、ウィリアムは既にステイプルズという姓の女性との間の子供を2人も儲けていたのだ。では、どうしてそんな男と結婚したのかというと、フランシスもまた彼の子を身籠っていたのである。
時間軸に沿って状況を説明しよう。
フランシスがウィリアムと出会い、肉体関係を結ぶ。
→フランシスが妊娠する。
→結婚を迫るが、ウィリアムに内縁の妻と2人の子供がいることが発覚する。
→ドタバタする中でフランシスが娘を出産。エマと名付けられる。
→都合よく、ウィリアムの内縁の妻が病死する。
→女性問題がなくなったので、ウィリアムとフランシスは入籍する。
とまあ、こういった流れだったのだが、子供の問題はまだ解決していない。内縁の妻の親族との協議の結果、年少の子は親族が、年長のルイーザ(当時10歳)はウィリアムが引き取ることになった。まだ22歳のフランシスとしてはとても納得の出来る話ではない。
「どうして私がどこの馬の骨とも判らない子(しかも、そこそこ大きい)の母親にならなきゃならないの!」
引き取られたその日から虐待が始まったことは想像に難くない。
伝えられるところによれば、ルイーザは祖末な衣服を与えられ、地下室で寝ることを強いられて、食べ物も満足に与えられなかったという。そして、何かにつけては殴られた。曰く、返事が悪い。態度が悪い。目つきが悪い。ヴィクトリア朝の時代には体罰は当り前だったのだが、これはあまりにも酷いということでご近所さんが官憲に申し出て、キダー家にはルイーザの保護者を住まわせるべき旨の命令が下された。このことによりルイーザが虐待死することはなかったのだが、結果として殺人事件を招いてしまった。
1867年8月26日、2人の子供と共にニュー・ロムニーの実家を訪ねていたフランシスは、夕食後にルイーザを連れて散歩に出掛けた。しばらくしてフランシスだけが帰って来た。衣服はビチャビチャのドロドロだ。
「いったい何があったんだ?」
両親は訊ねるが、フランシスは押し黙ったまま、2階の自室に引き蘢ってしまった。ルイーザは帰って来ない。フランシスはルイーザを殺してしまったのではないだろうか?
やがて地元巡査が呼ばれて、フランシスは返答を余儀なくされた。
「ルイーザは暴れ馬に驚いて、排水溝に落ちてしまったんです」
ならば最初からそう云えよ。助けなかったのかよ、お前。
間もなくルイーザの遺体は近くの排水溝で発見されたが、深さは30cm程度で、ここで溺れるとはとても思えない。紛うかたなき殺人事件である。
かくして殺人容疑で有罪になったフランシス・キダーは、1868年4月2日に絞首刑により処刑された。当時25歳の彼女は、英国で公開処刑された最後の女性である。
(2012年10月24日/岸田裁月)
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