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ヒルマ・マリー・ウィッテ
Hilma Marie Witte (アメリカ)


 インディアナ州トレイル・クリーク在住の未亡人、エレイン・ウィッテ(74)は地元ではかなり知られた人物だった。ベル・テレフォン・カンパニー退職者会の会長を務めていたのだ。会員たちが彼女に最後に会ったのは1983年のクリスマス・パーティーにおいてだった。それ以来、彼女の姿を見た者はいない。嫁のヒルマ・マリー・ウィッテにその行方を問いただすと、
「母は年末から新年にかけてカリフォルニアに滞在していました。よほど西海岸が気に入ったらしく、今では観光地を転々としています」
 この言を誰もが疑わしく思った、何故ならウィッテ夫人は友人に告げずに旅に出掛けるような人ではなかったし、誰一人として旅先からの便りを受け取っていなかったからだ。

 行方知れずになって5ケ月が過ぎた頃、友人たちは地元の警察署長に相談した。署長も夫人とは旧知の仲だった。息子のポールが3年前に「不慮の事故」で死亡したことも知っていたし、嫁のヒルマとの「破廉恥な馴れ初め」も知っていた。2人はフロリダのヌーディスト・キャンプで出会ったのだ。その時、ヒルマは僅か16歳だった。そして、ポールの死後、ヒルマは2人の息子と共にウィッテ夫人に引き取られたのである。
 署長が改めて問いただせども、ヒルマは前言を繰り返すばかりだった。
「滞在先の住所とかは判らんのかね?」
「はい、それがまるっきり。気ままな一人旅を楽しんでいるようで」
「だけど、もう5ケ月だぞ。おかしいとは思わんのか?」
「もちろん思いますよ! 母が今どこにいるのか、あたしが訊きたいぐらいですわ!」
 おっと、まさかの逆ギレ。このヒルマという女、かなり勝ち気なようだ。

 数週間後、ヒルマと息子たちはプイと行方を暗ましてしまう。その足取りを追うと、カリフォルニア州サンディエゴのモービル・パークにいることが判明した。しかも、ウィッテ夫人の名前で郵便私書箱と銀行口座を開設し、夫人の年金小切手を不正に受け取って換金していたのである。
 おそらく、ウィッテ夫人は最早この世にはおるまい。間もなくヒルマと長男のエリック(18)は、銀行に小切手を換金しに来たところを逮捕された。

 警察はトレーラー・ハウスで留守番していた次男のブッチ(15)の身柄も押さえて尋問したところ、素直に犯行を自供した。
「母さんがおばあちゃんの小切手を偽造しているのが見つかっちゃったんだ。だから、殺さなければならなかったんだよ」
「で、誰が殺したんだ?」
「僕だよ」
「えっ? 君が?」
「そう。僕が殺したんだ。母さんに云われたんだよ。お前はまだ子供だから、もしバレても死刑にならないって。兄さんはもう18歳だろ? だから、大人として扱われちゃうんだ」
「どうやって殺したんだ?」
「母さんは枕を使った窒息死を提案したんだけど、結局、僕のボウガンで」
「えっ? おばあさんをボウガンで殺したのか? 君が?」
「うん。寝室で寝ているところをね」
「そんなことをして何とも思わなかったのか?」
「別に何とも。どうでもいいって感じかな」
(I felt neutral about it. I didn't care one way or the other)
 いやはや、物凄いモンスターを育ててくれましたねえ、お母さま。

 やがて質問は遺体の在り処へと移る。
「で、遺体は今、何処にあるんだ?」
「もうないよ」
「えっ?」
「だから、ないんだよ。バラバラにした。ナイフやチェーンソーやノミを使ってね。で、方々のゴミ箱に捨てて回ったんだ。ゴミの圧縮機に入れたり、電子レンジで煮たりもした。野良犬に喰わせたこともあったよ」
 バラバラにした遺体は一旦は冷蔵庫に保管して、少しづつ始末したらしい。最後の一切れはサンディエゴで捨てたというから、遺体処理に関してはかなり慎重だったようだ。遺体さえ見つからなければ断罪されないとでも思っていたのだろうか?

 ヒルマと息子たちの犯行が明らかになった今、その夫にして父親の「不慮の事故」も殺人だったのではないかとの疑惑が浮上した。それはこのような「事故」だった。
 1981年9月1日の昼下がり、ポール・ウィッテ(43)は居間のソファで昼寝をしていた。と、そこにエリック(当時15歳)が拳銃をいじくりながら通りかかり、カーペットのしわにつまずいて、弾みで父親に向けて発砲してしまった…。よくもまあ「不慮の事故」として処理されたもんだと呆れるが、ヒルマやブッチ、そしてヒルマの母親マーガレット・オドンネルが涙ながらに証言したため、事故扱いになったらしい。

 一方その頃、検察側はブッチを少年としてではなく成人として起訴する方針を固めていた。その上で司法取引を持ち掛けた。つまり、母親を売れと教唆したわけだ。死刑判決をちらつかされては折れないわけには行かない。
「すべてが母さんの指示でした。兄さんが父さんを殺したのも」
 間もなくマーガレット・オドンネルもこのように供述した。
「ヒルマは当初、食事にトランキライザーを混ぜることでポールを殺そうとしました。でも、眠るばかりで一向に死にません。そこで息子の手を借りて、直接的な方法を取ったのです」

 かくして実の息子と母親に売られたヒルマ・マリー・ウィッテは、2件の殺人とその共謀で有罪となり、合計170年の刑が云い渡された。しかし、それにしても未成年の我が子を殺しの道具に使うとは…。いやはやなんとも、トンデモない鬼嫁がいたものである。

(2010年2月11日/岸田裁月) 


参考資料

『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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