ドナルド・ラングは耳が聞こえず、口がきけず、おまけに読み書きが出来なかった。1945年にシカゴで生まれた彼は、生後6ケ月の時に高熱のために耳をやられた。ところが、親が貧しい黒人労働者だったために手話や読唇術は疎か、読み書きさえも教わらなかったのだ。ジェスチャーだけが唯一の意思伝達手段だった。
そんな恵まれない境遇にも拘らず、明るい性格の彼はめげることなく、物心がついた頃からローディング・ドックで働き始めた。なかなかの働き者で、職場での評判も良かったという。そんな彼が連続殺人犯になるのだから、世の中判らないものである。
1965年11月下旬、37歳の黒人娼婦アーネスティン・ウィリアムスはいつものようにサウス・サイドの酒場で客を取っていた。そこに現れたのがラングだった。彼は娼婦の股間を指差すと10本の指を広げた。「10ドルでやらせろ」のジェスチャーである。商談は成立し、2人は店を出て行ったわけだが、ラングは職場の仲間から娼婦の買い方だけは教わっていたようだ。
翌朝、彼女の遺体が酒場の外で発見された。刺殺だった。「彼女は聾唖の黒人に買われたよ」とのタレ込みにより、間もなくラングは逮捕された。
取調べにおいて、ただただナイフを突き刺す仕草を繰り返すばかりのラングを訴追することは極めて困難に思われた。そこで同じく聾唖の弁護士ローウェル・マイヤーズが雇われたわけだが、彼にもラングは手に負えなかった。なにしろ筆談さえ出来ないのだ。
検察側はナイフを突き刺す仕草を自供と受け取っていたが、マイヤーズは異議を申し立てた。ラングは殺害現場の目撃者であり、犯人の仕草を真似したものと主張したのだ。
おかげでラングは大幅に減刑されて、施設に収容されるだけに留まる。そして数年後には釈放されて、元の職場に戻って行った。釈放してはダメなんだってば。
1972年7月、39歳の黒人娼婦アーリン・ブラウンはいつものようにサウス・サイドの酒場で客を取っていた。そこに現れたのがラングだった。彼は娼婦の股間を指差すと10本の指を広げた。
相変わらずだなあ。
店を出た2人は1時間なんぼのモーテルに入った。1時間後、次の客がクロゼットに収納されたアーリンの遺体を発見した。彼女は酷く殴られて、絞殺されていた。
今回ばかりはローウェル・マイヤーズにもどうにも出来なかった。ラングの靴下には血が付着していたのだ。かくして有罪になった聾唖者は25年の刑を云い渡された。
なお、ラングはこの他にも何人もの娼婦殺しが疑われている。その動機については、コミュニケーションが出来ないのでさっぱり判らない。性的なものであることはまず間違いないだろうが。
(2009年2月4日/岸田裁月) |