オルガ・ヘプナロヴァは1951年6月30日にプラハの裕福な家庭に生まれた。父親は銀行員、母親は歯科医である。しかし、経済的に恵まれた環境にも拘らず、彼女は精神的なトラブルを抱えていた。そして13歳の時に睡眠薬で自殺を図る。その後の1年間は精神科病棟に収容されていた。
1973年6月10日、オルガは以下の手紙を2つの新聞社に郵送した。
「みなさん、これはただの手紙ではありません。宣言文です。私がこれからすることを見くびられないために書いているのです。正気を疑われたくはありません。
今日、私はバスを盗んで、群衆の中に全速力で突っ込むつもりです。プラハ7区のどこかでそれは起こるでしょう。人を殺すつもりです。そして、私は裁かれ、罰せられるでしょう」
結局、バスは盗めなかったようだ。已むなくトラックを借りた彼女は、プラハ7区にある路面電車の停留場へと向かった。しかし、彼女が着いた時にはまだ人影はまばらだった。そこでグルッと一回りして戻ってみると、電車を待つ人々は25人ほどに増えていた。うん、これならよし。覚悟を決めた彼女はアクセルを踏んでハンドルを切り、群衆の中に突進した。
結果、8人が死亡(うち3人が即死)、12人が負傷(うち6人が重傷)。未曾有の大惨事となった。
この事件、あの事件に似ているなあと思われた方も多いかと思う。そうなのだよ。実は先駆者がいて、しかも女だったのだ。
体力的に劣る女性が大量殺人に挑む場合、トラックのような文明の利器に頼らざるを得ない。そして、この方法ならば女性でも大量殺人が可能なことを彼女は実証してみせたのだ。
動機は、多くの大量殺人者と同様に、社会に対する憎悪だった。彼女はこのように語った。
「人知れずに自殺して、この世からおさらばするのは簡単だ。だけど、この世を裁くのは難しい…。これは私による裁きなんだ。死刑を宣告してやったんだよ」
法廷でも弁護人に協力せず、正気だと云い張り、そして死刑判決が下されると、これを受け入れて控訴しなかった。しかし1975年3月12日、いざ処刑当日となるとイヤだイヤだと駄々を捏ね、処刑場まで引きずって行かなければならなかったという。こんなにクールな女でもやはり死ぬのは怖いのだ。
(2009年2月6日/岸田裁月) |