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キティ・ジェノヴェーゼ事件
Murder of Kitty Genovese (アメリカ)



キティ・ジェノヴェーゼ

 キャサリン・ジェノヴェーゼ、通称キティ・ジェノヴェーゼは1935年7月7日、ニューヨーク州ブルックリンで、イタリア系家庭の第一子として生まれた。下には4人の兄弟姉妹がいる。
 父親のヴィンセントは1940年代に作業服を供給する事業を立ち上げて、かなりの成功を収めていたが、1954年にはコネチカット州ニュー・カナーンに移住することを決意した。妻のレイチェルが目の前で殺人事件を目撃したからだ。
「ブルックリンは子供を育てるには治安が悪過ぎる」
 しかし、既に19歳になっていたキティだけはブルックリンに残ることを選んだ。快活だった彼女は、田舎に引き蘢ることが嫌だったのだろう。

 1963年、キティは友人のメアリー・アン・ジェロンコと共に、クイーンズのキュー・ガーデンズに引っ越した。ブルックリンとは異なり、閑静な住宅地だ。彼女たちが入居したのはオースティン・ストリートに面した、1階が店舗になっている2階建てのアパートだった。
「82-70 Austin St, Queens, NY」
 当時のキティは近くのバーで支配人として働いていた。夜の仕事だから帰りはいつも遅かった。車で通勤しているとはいえ、深夜に一人で帰宅することに当初は不安を覚えた。しかし、ブルックリンで生まれ育った彼女は次第にそんな生活にも慣れて行った。

 キティには夢があった。いつの日かイタリアに渡り、修行して、両親と共にイタリアン・レストランをオープンすることだ。そのために今はいくら辛くても懸命に働いている。ところが、その夢は叶うことはなかった。彼女を待ち受けていたのは、理不尽な突然の死だったのだ。


 1964年3月13日午前3時15分頃、キティはいつものように帰宅し、アパートに隣接する駐車場に車を停めた。そして、車に鍵を掛けている時、駐車場に佇む男の人影に気づいた。すると男は足早に近づいて来た。彼女は慌てて逃げ出した。
 アパートの入口までは30mほど離れていた。中に入れば助かったかも知れない。しかし、彼女は途中で追いつかれ、背中をナイフで数回刺された。深夜の住宅地に悲鳴が響き渡った。

「Oh my God ! He stabbed me !」

 日本語に訳すと嘘っぽくなるので、敢えて原文のままにする。

「Please help me ! Please help me !」

 近くのアパートのいくつもの明かりが点灯した。何人かが窓を開けて階下を見下ろしたが、声を上げたのは、向かいの7階に住むロバート・モーザーだけだった。

「Hey, let that girl alone !」

 これを受けて、男はその場から立ち去った。付近は再び静寂に包まれた。聞こえるのは、すすり泣くキティの声のみだった。アパートの明かりは次々と消えて行った。
 この時点で警察に通報した者は一人もいなかった。

 重傷を負ったキティは、建物の壁を伝わって入口までどうにか辿り着き、施錠されたドアの前で一息つくと、朦朧とした意識を取り戻そうとしていた。
 と、そこに男が再び現れた。男はなおも彼女をナイフで刺し続けた。彼女は叫んだ。

「I'm dying ! I'm dying !」

 再びいくつものアパートの明かりが点灯した。
 6階に住むサミュエル・コシュキンは警察に通報しようとしたが、妻がこれを諌めた。
「もう誰かがとっくに通報してるわよ。あまり関わらない方がいいわ」
 しかし、実際にはまだ誰も通報していなかった。
 その頃には男は現場から立ち去っていた。

 時刻は午前3時25分になっていた。キティはまだ生きていた。彼女は壁を伝って、裏口からアパートの中に入ろうとした。ところが、このドアもまた施錠されていた。力尽きた彼女はその場に崩れ落ちた。
 そこに男が三たび現れた。やり残したことがあったからだ。それは彼女を犯すことだった。その後、彼女の財布から49ドルを奪い、男はようやく現場から逐電した。事件発生から既に30分が経過していた。

 最初に警察に通報したのは、キティと同じアパートに住むカール・ロスだった。午前3時50分頃のことだ。
「うちのアパートの裏口で女性が倒れている。負傷しているようだ」
 ところが、その前にロスは友人に電話を掛けて、自分はどうするべきかと訊ねていたのだ。その前にさっさと通報しろよ。人が死にかけているのだよ。緊急を要するのだよ。

 パトロール・カーが現場に到着したのは、その3分後のことだった。間もなく巡査たちはキティの姿を発見した。衣服は切り裂かれ、そばには財布が落ちていた。
 彼女は17ケ所もナイフで刺されていた。まだ息はあったが、午前4時15分に到着した救急車で病院に運ばれる途中に死亡した。


 2週間後の3月27日、ニューヨーク・タイムス紙にこのようなタイトルの記事が掲載された。
『38人の目撃者、警察に通報せず』
 この「38人」とは、キティが襲われた時に部屋の明かりを点けた人々のことだ。彼らは事件に気づいていたにも拘らず、どうして通報しなかったのだろうか? 誰かがもっと早く通報していれば、キティ・ジェノヴェーゼは死ななかったかも知れないのに…。
 後に社会心理学者は彼らの心理を「傍観者効果(bystander effect )」という言葉で説明した。すなわち、自分以外に傍観者が多ければ多いほど、人は自ら進んで行動を起こさない。38人の誰もが「もう誰かが通報しただろう」と思い込んでしまったのである。また、事件に巻き込まれたくないという思いも働いたことだろう。



ウィンストン・モーズリー

 ニューヨーク・タイムス紙に「38人」についての記事が掲載された時、キティ殺しの容疑者は既に逮捕されていた。ウィンストン・モーズリーという29歳の黒人である。但し、彼は殺人容疑で逮捕されたわけではない。事件の6日後の3月19日に強盗容疑で逮捕されたのだ。そして、その後の取調べでキティ・ジェノヴェーゼを含む3人の女性の殺害を告白したのである。

 1963年 7月20日 バーバラ・クラリック(15)
 1964年 2月29日 アニー・メイ・ジョンソン(25)

 いずれもクイーンズで暮らす女性で、犯行の目的は強姦だった。それまでにも女性を強姦したことは何度もあったが、あまり興奮出来なかった。そこで殺すことにしたのだという。屍姦を好む傾向があったようだ。
 モーズリーが法廷で、キティ・ジェノヴェーゼの殺害をこのように語った。

「あの晩、私は女を殺すつもりで家を出ました。凶器は盗んだハンティング・ナイフでした。
 私はあの駐車場で彼女を見つけました。その後を追い掛けて、背中を2回刺しました。彼女はその場に倒れました。その時、辺りの部屋の明かりがいくつも点灯しました。私は自分の車に戻り、少し遠くに移動させました。部屋から覗いている連中に顔を見られないためです」

 彼は車に戻る前にロバート・モーザーに「Hey, let that girl alone !」と怒鳴られていたが、大して気にしていなかった。

「どうせ、すぐに窓を閉めて寝るだろうと思っていました。実際にそうしたようです」

 モーズリーは殺人者としての経験から「傍観者効果」に気づいていたのだろう。どうせ誰も通報しやしない、と。結果、最悪の結末を迎えてしまったのである。

 1964年6月15日、ウィンストン・モーズリーは3件の殺人容疑で有罪となり、死刑を宣告された。しかし、1972年6月に全米で死刑執行が停止されたため、事実上、終身刑に減刑された。彼はこれまで実に44回に渡り仮釈放を申請しているが、そのたびに却下され続けている。

(2011年12月14日/岸田裁月) 


参考資料

http://en.wikipedia.org/wiki/Murder_of_Kitty_Genovese
http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/predators/kitty_genovese/1.html
http://www2.selu.edu/Academics/Faculty/scraig/gansberg.html


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