ケベック州モントリオールのコンコルディア大学に機械工学科の教授として勤務するヴァレリー・ファブリカン(52)は極めて気難しい男だった。1979年に旧ソヴィエト連邦のベラルーシからカナダに移住し、翌年から同大学に勤務したわけだが、当初から同僚とのいざこざが絶えなかった。そもそも彼がカナダへの移住を余儀なくされたのも、その気難しい性格ゆえだった。余りにも多くの問題を起すため、祖国にいられなくなってしまったのである。
やがてファブリカンは或る研究を巡って2人の同僚と対立し、彼らの名前を全ての学術論文から抹消すべきだと主張して裁判所に提訴した。ところが、法廷での傍若無人な振る舞いが災いして法廷侮辱罪に問われてしまう。こうなってはもう面倒見切れない。大学は彼に解雇の意向を伝えた。事件が起きたのはその直後のことだった。
1992年8月24日午後2時30分、ファブリカンは機械工学科の事務所があるヘンリー・F・ホール・ビルの9階に降り立った。ブリーフケースの中に3挺の拳銃と銃弾を忍ばせていた。そして、同僚の部屋に押し入ると、以下の者を射殺した。
ミッシェル・オグボン
アーロン・ジャン・サベー
フワヴォ・ジオギャ
マチュー・ドゥグラス
但し、対立していた2人の同僚は、たまたま現場にいなかったために難を逃れた。また、事務員の女性も被弾したが、幸いにも一命を取り留めている。
その後、同僚1人と警備員1人を人質に取って立て籠ったファビリカンは、自ら緊急通報センターに電話を掛けた。
「たった今、人を何人も殺した。テレビのレポーターと話がしたい」
よっぽど鬱憤が溜まっていたのだろう。彼はその後1時間にも渡って、オペレーター相手にあれこれとグチっていたという。そして、話に夢中になり、銃を机の上に置いたところを人質の警備員にタックルされて、遂にお縄となったのである。
法廷において、ファブリカンは正当防衛を主張した。「連中が俺の生存権を奪いやがった」との云い分である。こんな屁理屈が通らないことは云うまでもない。
また、5ケ月も続いた審理の過程で、彼は弁護人を10人もクビにした。言動も支離滅裂だし、判事が「こいつ、クルクルパーかも?」と疑問を抱くのも宜なるかな。審理は一旦中断されて精神鑑定が行われたが、結論は「かなりのパラノイアだが、責任能力には問題なし」。かくしてファブリカンは4件の殺人で有罪となり、終身刑が云い渡された。
(2011年1月24日/岸田裁月) |