フランク・ロイド・ライトは近代アメリカを代表する建築家である。我が国でも帝国ホテル旧ライト館の設計者として知られている。そんな彼が大量殺人事件に巻き込まれたのは1914年のことである。
1867年にウィスコンシン州で生まれたライトは、新古典主義全盛の当時のアメリカにおいて、自然との調和を図るプレイリースタイルを提唱し、建築家としての地位を確立した。ところが、1909年のスキャンダルでその名は地に落ちてしまう。彼は既に6人の子持ちだったのだが、施主の奥方ママー・チェニー(旧姓ボースウィック)とデキてしまい、欧州に駆け落ちしたのである。1911年には帰国したものの仕事の依頼は激減。妻も離婚には応じてくれなかった。已むなく彼はウィスコンシン州スプリング・グリーンに代表作の1つ、タリアセンを建築し、愛人とその2人の子供を住まわせたのである。
仕事の依頼は次第に増え始めたが、順風満帆とは云えなかった。更なる悲劇がライトを襲ったのだ。1914年8月15日、2ケ月前に雇い入れた黒人の下男、ジュリアン・カールトンがいったい何を思ったのか、ダイニングルームのドアに施錠すると、ガソリンを撒いて火を放ったのである。そして、窓から逃げ出す人々に次々と斧を振り下ろした。これにより以下の者が死亡した。
ママー・ボースウィック
ジョン・ボースウィック(ママーの子)
マーサ・ボースウィック(同上)
トーマス・ブランカー(建築監督)
エミル・ブロデール(設計士)
デヴィッド・リンドブラム(造園家)
アーネスト・ウェストン(ウィリアム・ウェストンの子)
ボースウィック母子以外はいずれもライトの門弟だった。ウィリアム・ウェストンとハーブ・フリッツ、そして下手人の妻でコックのガートルード・カールトンはどうにか一命を取り留めた。彼女にとっても夫の狼藉は寝耳に水の出来事だった。また、ライトはシカゴに出掛けていたために難を逃れた。
間もなく近くに隠れていたカールトンは逮捕された。動機については何も語ることなく、7週間後に獄中で餓死。よって動機は未だに謎のままである。とある文献によれば「発狂」したとあるが、その真相や如何に?
ちなみに、悲嘆に明け暮れるライトのもとに舞い込んだのが帝国ホテル設計の依頼だったというから、なんという運命の巡り合わせであろうか。
(2009年2月2日/岸田裁月) |