ロバート・ブラックは1947年4月21日、スコットランドのグランジマウスで生まれた。私生児だった。母親は彼を育てることを拒否した。故にすぐさま里子に出された。
性的にはかなり早熟だった。僅か5歳の時に女の子と性器をいじり合うことで快感を覚えた。8歳の時には肛門に異物を挿入することで快感を覚えた。この性癖は成人後も続き、後に逮捕された時には肛門のセルフ・ポートレイトがいくつも押収されている。ワインボトルや電話の受話器、テーブルの脚などが肛門に挿入されている写真である。想像するだにおぞましい。
11歳の時に里親が亡くなり、孤児になったブラックはフォールカークの養護施設に預けられた。素行は悪くなるばかりだった。
初めて強姦を試みたのは12歳の時だ。しかし、失敗に終わり、警察に通報されてマッセルバラの養護施設への移転を余儀なくされた。そこで彼は男性職員に性的に虐待された。心は益々ねじ曲がって行くばかりだった。
やがて15歳になったブラックは、養護施設を出てグラスゴー近郊のグリーノックに移り住み、デリバリー・ボーイとして働き始めた。その間に何十人もの少女にイタズラしたことを告白している。そして、17歳の時に初めて御用となる。7歳の少女を廃屋に誘き出して、首を絞めて意識を失わせ、その上で自慰をしたのである。しかし、年齢が考慮されたのか、この時は訴追されることはなかった。
この事件の後、グラスゴーに移り住んだブラックは、建築用品店での住み込みの職を得た。ここで彼は生まれて初めて年相応の女性を相手に恋というものを経験する。勇気を振り絞って結婚を申し込んだが、残念なことに、にべもなく断られた。これを機にブラックは今まで以上に自暴自棄になって行く。そして、店主の9歳になる孫にイタズラし、店から叩き出されるのだった。
已むなく故郷のグランジマウスに戻ったブラックは、ここでも7歳の少女にイタズラして逮捕された。そして1年間、ブタ箱に放り込まれた。
釈放後、ブラックはスコットランドを後にしてロンドンに上京した。しばらくは彼の病気は治まっていた。この大都会ではチャイルド・ポルノが容易に手に入るからだ。後に逮捕された時、彼の部屋からは山ほどのチャイルド・ポルノ(雑誌やビデオ)が押収されている。
ロンドンでのブラックはスイミング・プールの監視員として働いていた。時にはプールの底に潜り、少女たちが泳ぐ様を見上げてニヤついていたという。しかし、或る少女に手を出したために解雇された。その後は長距離のトラック運転手に転職した。
1982年7月30日、スコットランドとの境界付近の町、コーンヒル=オン=トゥイードで11歳の少女、スーザン・マックスウェルが行方不明になった。彼女の遺体は400kmも離れたユートクセターで発見された。
1983年7月8日、エディンバラで5歳の少女、キャロライン・ホッグが行方不明になった。彼女の遺体は480kmも離れた場所で発見された。その場所はスーザン・マックスウェルの遺体の発見現場から30kmしか離れていなかったため、捜査当局は同一犯の犯行と考えた。
1986年3月26日、リーズで10歳の少女、サラ・ハーパーが行方不明になった。彼女の遺体はノッティンガムで発見された。遺体はやはり30km圏内にあった。同一犯の可能性が高い。
プロファイラーが示した容疑者は、スコットランドとイングランドを行き来する長距離ドライバーだった。イングランドからスコットランドに出向き、その帰りに少女を誘拐して、性的に虐待した挙げ句に殺害し、途中で遺棄する。そんな犯人像に最も合致するのがロバート・ブラックだったわけだが、当時は彼はまだマークされていなかった。
彼が遂に御用となったのは1990年7月14日のことだった。エディンバラ近郊で6歳の少女を誘拐したブラックは、目撃者の通報を受けたパトロールカーに追われて、カーチェイスの挙げ句に逮捕されたのである。
ブラックは3件の殺人で有罪となり、終身刑を宣告された。彼はこの他にも10件以上の殺人に関与したことが疑われている。
(2011年1月22日/岸田裁月) |