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オイゲン・ヴァイトマン
Eugen Weidmann (フランス)



ヴァイトマンの似顔絵

 1937年暮れ、パリは連続殺人の脅威に怯えていた。
 まず9月8日、ジョゼフ・クーフィというハイヤー運転手が、パリ=オルレアン街道沿いで血まみれになって発見された。彼は「ディクソン」と名乗る自称アメリカ人を乗せた後、行方不明になっていた。
 10月16日には、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで、ロジュ・ル・ブロンという若い興行師の遺体が発見された。遺体は車の後部座席に布をかけられた状態で、墓地裏に放置されていた。
 11月25日には、レイモン・ル・ソーブルという不動産業者が、「ショット」と名乗る客と共に訪れたサン・クルーの邸宅で血まみれになって発見された。
 3人とも銃で首の後ろを撃たれていた。

 冷酷非情な殺人鬼がパリ近郊をウロウロしていることは間違いない。パリっ子たちは震え上がったが、警察は最後のケースで犯人の目星をつけていた。事件のあったサン・クルーに住む「サワーブライ」と名乗る男だ。
 12月8日、警官たちが彼の家に訪問すると「カールラー」と名乗る男が応対した。
 よく名乗るなあ。
 この「カールラー」と名乗る男が「サワーブライ」であり「ディクソン」であり「ショット」であり、本名オイゲン・ヴァイトマンであることは云わずもがなである。もはや云い逃れは出来ないと悟るやヴァイトマンは発砲、警官2名が負傷するも、敢えなくお縄となる。

 いざ逮捕されるとヴァイトマンは素直に犯行を認め、他にも殺していることを自供した。かつての相棒フリッツ・フロンマーと、ジェーン・ド・コーヴァンジェニンヌ・ケラーの3人である。動機はすべてが金目当て。その金額の少なさに刑事は耳を疑った。ル・ブロンの5000フランが最高額で、フロンマーは100フラン、ケラーに至ってはたったの50フランだったのだ。こんなはした金で殺されたのでは堪らない。

 1908年にフランクフルトで生まれたヴァイトマンは、まともな教育を受けていたにも拘らず、気がついたら詐欺師になっていた。そして、ムショの中で今の相棒たちと出会う。内の1人が殺されたフロンマーだった。
 シャバに出るとフランスに渡り、相棒たちと強盗を繰り返していた。誘拐も企んでいたという。そんな毎日の中で良心がどんどんと擦り減って、一連の犯行に及んだのである。しかし、50フランて。

 法廷でのヴァイトマンは、まるで人が変わったように懺悔した。そして、上告することなく、1939年6月17日、ギロチンによりに処刑された。フランスでの最後の公開処刑だった。

(2007年10月31日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『世界犯罪者列伝』アラン・モネスティエ著(宝島社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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