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ピエール・ヴォワルボ
Pierre Voirbo (フランス)



マセ刑事の名推理

 当館の御常連ならば、小説のような名推理は現実の殺人事件ではほとんど見られないことにお気づきだろう。解決の鍵となるのは多くの場合、自白やタレ込みで、だからこそ冤罪の危険が常につきまとう。しかし、名推理が解決に導いた例もないことはない。本件がその1つだ。

 1869年1月25日、パリ市内ブランセス通りでの出来事である。井戸水の味がおかしいことに食堂の主人が気づいた。覗いてみると酷い臭いだ。水面には黒い包みが浮かんでいる。これはいったいなんじゃらほい。拾い上げて、包みを開くや否やギャッと叫んだ。中に入っていたのは紛れもなく人間の片足だったからだ。
 事件を担当したギュスターヴ・マセ刑事は、井戸の中からもう片方の足を発見した。やはり黒い袋に包まれている。履いたままの靴下には赤い糸で「B」と刺繍されていた。
 バラバラ死体は前年の暮れに既にいくつも見つかっていた。12月17日にはジャコブ街で大腿骨が、サン・マルテン運河ではいくつもの肉片が押収された。2日後には「口髭の男」がセーヌ川に肉塊を投げ入れるところを目撃されている。
 12月22日の早朝には、問題のブランセス通りで2人の巡査が付近をウロつく「口髭の男」に職務質問している。彼はこのように答えた。
「汽車でパリに着いたばかりなんだ。馬車が見つからずに困っている」
 男は手提げのバスケットの中に2つの長い包みを持っていた。それは何だと訊ねると、男は「ハムだ」と答えたという。
 この背が低くて丸顔の「口髭の男」が井戸に2つの足を遺棄したと見て間違いないだろう。

 マセ刑事は足を包んでいた袋に注目した。それはキャラコ地で、丁寧に縫い込まれており(だから1ケ月もの間、腐敗物が滲み出さなかった)、明らかに職人の仕事だったのだ。マセは近所のおばちゃんに訊ねた。
「この辺に仕立て屋は住んでないかい?」
「仕立て屋はいないけど、お針子ならいるよ」
 食堂の2階に住んでいるマチルダ・ゴブだ。彼女が下請けをしている仕立て屋の中にピエール・ヴォワルボがいた。背が低くて丸顔の「口髭の男」だ。マチルダは云う。
「ヴォワルボさんは親切だよ。いつも井戸水を汲んできてくれるから」
「口髭の男」と井戸がここで結びついた。

 ヴォワルボの身辺を洗ったマセは、デジレ・ボダスという資産家だが変わり者の男と交流があったことを掴んだ。ボダス。イニシャルは「B」だ。彼の叔母に確認を求めたところ、
「このBはあたしが刺繍したんだよ」
 被害者はボダスと見て間違いないようだ。
 ところが、隣人たちによれば、ボダスは死んではいないという。夜になると明かりが灯るからだ。半信半疑のマセはボダスの部屋に踏み込んだ。そして、やはり死んでいることを確信した。部屋の中は埃まみれだったのだ。しかし、蝋燭を灯した跡だけは新しい。つまり、誰かが夜になると忍び込んで、蝋燭を灯してはその生存を偽装していたのだ。
 ボダスの金庫は空っぽだったが、懐中時計の中から各種有価証券の番号を控えた紙切れが見つかった。そして、その番号はヴォワルボが最近換金した有価証券のそれと一致した。

 身柄を押さえられたヴォワルボは知らぬ存ぜぬで押し通したが、その所持品からは翌日発の汽船の切符が見つかった。行き先はアメリカだ。高飛びする気まんまんやないけ。マセは直ちにヴォワルボの自宅を捜索した。そして、地下室のワイン樽の中から残りの有価証券を発見した。ハンダ付けされたブリキ缶に入れられ、ワインの中に吊るされていたのだ。

 ヴォワルボがボダスを殺害したことは間違いない。しかし、そのことを裏づけるだけの証拠がない。そこでマセは刑事コロンボのような一か八かのはったりをかました。
 ボダス遺体を解体したのはタイル貼りの地下室に違いないと睨んでいたマセは、ヴォワルボを地下室まで連行し、その眼の前で水指しの水を床に垂らした。
 水はゆっくりと床を流れ、やがてくぼみに溜まった。それまでは平然としていたヴォワルボの顔色が変わった。
「この部分のタイルを剥がしてくれ」
 部下たちが慎重にタイルを剥がすと、その下には血糊がびっしりとこびりついていた。
 ガックリとうなだれたヴォワルボはすべてを告白した。

「あの頃の私は現在の妻に求婚中でした。金さえあれば彼女の両親の同意に漕ぎ着ける。そう思ってボダスさんに借金を申し入れたのです。ところが、にべもなく断られました。こうなったら彼を殺すしかない。そう思い込んでしまったのです。
 その日、私は彼をお茶に誘い、後頭部をアイロンで殴って殺害しました。そして地下室へと運び、バラバラにして、主に川に捨てて回りました。頭部は浮かび上がらないように、耳と口に溶かした鉛を注ぎ込みました。
 お察しの通り、12月22日に職務質問を受けたのは私です。怖くなった私は、近くの井戸に両足を投げ捨てたのです」

 この手柄で一躍有名になったギュスターヴ・マセは「名刑事」として知れ渡り、後に警視総監の地位にまで上り詰めた。
 一方、ヴォワルボは裁判前の拘留中に、隠し持っていたカミソリで喉をかき切って自殺した。後味の悪い結末である。

(2007年3月13日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『犯罪コレクション(下)』コリン・ウィルソン著(青土社)
『死体処理法』ブライアン・レーン著(二見書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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