たまには場所を変えて、船上の殺人事件を一席。
1902年10月半ば、12人を乗せた英国船籍の帆船ヴェロニカ号は、メキシコ湾を出てウルグアイのモンテビデオに向っていた。
船長のアレクサンダー・ショーはそれはそれは厳しい男だった。かたや船員どもは軟弱者。どいつもこいつも故郷を追われて已むなく船員になったような奴ばかりだ。仕事は半端だし、すぐにサボる。船長の右腕、アレクサンダー・マクロード一等航海士は彼らをびしびしと取り締まった。
凪のために船が思うように進まず、食料や水を切り詰めなければならなくなると次第に不満が募り始めた。なんだよ。船長たちはたらふく喰ってやがるのに、俺たちにはこれだけかよ。喉が渇いたぜ、ちくしょ〜。酒が飲みたいぜ、ちくしょ〜。女を抱きたいぜ、ちくしょ〜。船という密室の中で幾分頭がおかしくなっていたのだろう。拳銃を密かに忍ばせていたドイツ人船員グスタフ・ラウとオットー・モンソンは、他の数名と結託して船を乗っ取ることにした。
それは12月の初めに決行された。まず憎きマクロードとその取り巻き2人を叩き殺し、船長とフレッド・エイブラハムソン二等航海士を銃で脅して人質にした。
「このままで済むと思うな。叛乱は重罪だぞ」
「てやんでえ。手前みたいなアンポンタンが船長だから、こんなことになっちまったんだ」
ラウは斧で船長を叩き殺した後、エイブラハムソンを海に突き落として射殺した。
ラウが予め考えていたシナリオはこのようなものだった。嵐でマクロードが海に投げ出され、エイブラハムソンが負傷したために、船長はラウを二等航海士代理に昇格させた。やがて船で火災が起こり、救命ボートで脱出しなければならなくなった。1艘は船長が、もう1艘はラウが指揮に当たった。そして、ラウのボートだけが生き延びた…。
叛乱者たち7人はヴェロニカ号に火を放つと救命ボートでブラジルを目指した。その間、ラウは例のシナリオを仲間に何度も復唱させたが、どうしても覚えられない馬鹿が2人いる。こんなの生かしておいたら命取りだぜ。2人はまもなく始末された。
5人が救助された当初は、ヴェロニカ号の遭難は事実として受け止められていた。ところが、叛逆には直接加担していない黒人コックのモーゼス・トーマスが寝返り、真相が明らかになったのである。首謀者のラウとモンソン、オランダ人のウィレム・スミスの3人が裁かれて有罪になったが、モンソンだけは若さゆえに死刑の執行は免れた。
(2007年1月13日/岸田裁月)
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