1935年3月23日深夜、ボーンマスでの出来事である。小間使いのアイリーンは自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。慌てて階下に駆け降りると、主人のフランシス・ラテンベリーが床に倒れ、奥方のアルマがその体を揺さぶっている。高齢なので心臓発作かと思ったがそうではなかった。頭から大量に出血していたのだ。アルマは血だまりの中から入れ歯を拾うと、夫の口に押し込んだ。そうすればしゃべれると思ったのだろう。ところが、後頭部を強打されていたフランシスは既に虫の息で、しゃべるどころではなかった。
医師が呼ばれて手当てをしている間、アルマはウイスキーをガブ飲みし、泣き喚きながらウロウロするので邪魔になってしょうがない。警察が駆けつけた時にはすっかり酩酊状態で、巡査の1人に抱きついたかと思うと、支離滅裂なことをがなり始めた。泥棒の仕業だの、先妻の子の仕業だの、本当は自殺だのと一貫しない。そして、最終的には自分の犯行であることを認めたのだ。
病院に運ばれたフランシスは、4日後に意識不明のまま死亡。その日、小間使いのアイリーンは住み込み運転手のジョージ・ストーナーからトンデモないことを告白された。実は御主人様を殴ったのは自分だというのだ。
「あんた、なんで警察に云わないのよ! 奥様が捕まっちゃったじゃない!」
「いや、云おうと思ったんだけど、酒飲んで酔っぱらっちゃって…」
「そんなの理由にならないでしょ!」
アイリーンはストーナーの気が変わらないうちに通報し、かくして自白者が2人現れる珍事が勃発した。果たしてどちらが真犯人なのか? それとも2人は共犯者なのだろうか?
さて、ここで時間を遡り、登場人物の関係を整理しておこう。
アルマはもともとは音楽家だった。トロントの交響楽団でヴァイオリンとピアノを弾いていたという。上の写真はその頃のポートレートである。しかし、最初の夫を戦争で失ったのを機に赤十字に従軍、戦地で2人目の夫に出会い一男をもうけるが、性格の不一致ゆえに長続きしなかった。
実家に戻ったアルマは高名な建築家、フランシス・ラテンベリーと出会う。2人はやがて恋仲となるが、フランシスは20歳以上も年上で、しかも妻帯者だった。3年かかってようやく離婚が成立すると、フランシスは新妻を連れてボーンマスに移住し、悠々自適の隠居生活を始めた。
1934年9月、そろそろ自分で車を運転するのがおっくうになってきたフランシスは、住み込みの運転手としてジョージ・ストーナーを雇い入れた。これがそもそもの間違いの元。まだ17歳のあどけない少年に、近頃ご無沙汰のアルマのちょめちょめが疼いちゃったのである。ほどなく2人はラブラブに。フランシスはそのことに気づいていたが、勃たない負い目もあるので見て見ぬふりをしていたらしい。
次第にストーナーが夫気取りでアルマにあれこれ指示し、御主人様であるフランシスに異常な嫉妬心を抱くようになった。アルマはアルマでそのことを楽しんでいたようである。2人でロンドンに繰り出すと、可愛い愛人のためにハロッズで散財してスーツやらなんやらを買い込み、おまけに自分で指輪を買って、それをわざわざ彼にプレゼントさせたというから呆れてしまう。
フランシスが襲われたのは、2人がロンドンから帰って来た翌日のことである。
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