1967年3月2日の夜、ヘンリー・オン・テムズで赤いモーリス・ミニが道路脇の木に激突したとの通報があった。巡査が駆けつけると、現場には数人の野次馬がいた。彼らによれば、乗っていたのは男女2人で、既に救急車で運ばれたという。彼らが駆けつけた時、もう1人の男が現場にいたが、「毛布を取ってくる」と云うなり、そばに停車してあったコルティナで走り去った。
大した事故ではなかった。ボディは殆どそのままだし、フロントガラスも割れていない。ところが、運転席は血まみれだ。この程度の事故でどうしてこれほど出血するのか? 病院に連絡したところ、運転していたジューン・クック(41)は首の骨を折って死亡していた。頭部もかなり損傷している。一方、夫のレイモンド・クック(32)は無傷だった。
後日に事情聴取されたクックはこのように供述した。
「木曜日の夜はいつも夫婦で外食するのが習慣でした。あの日はパングボーンのジョージ・ホテルで食事し、いけないことですが酒も飲みました。帰りは当初は私が運転していたのですが、途中で気分が悪くなり、妻に代わってもらいました。すると、その直後に対向車のヘッドライトに眼が眩んだようで、気がついたら木に激突していました」
しかし、現場にはスリップした痕跡はない。その代わりに少し離れたところに黒い染みがあった。血痕である。これはおかしい。事故に偽装した殺人の可能性が濃厚だ。
聞き込みを続けた警察は、クック夫妻の仲が悪かったことを突き止めた。原因は夫の浮気である。夫人の父親曰く、
「浮気の相手は看護婦でね、たしかキム、ええと、ミュールとかいったかな。あの野郎、この間までその女と暮らしてやがったんだ。戻ってきたのは2ケ月前だよ」
クックには妻を殺す動機があった。夫人はかなりの資産家で、1万ポンドほどの預金があり、様々な不動産を所有していた。夫が女と暮らし始めると、彼女は共同名義の3千ポンドの口座を解約した。干上がってしまったクックは詫びを入れて自宅に戻った。それが2ケ月前なのだ。
やがて報道で事件を知った者から警察に通報があった。その日に現場付近でコルティナ(現場から走り去った例の車)を見たというのだ。
「どうして憶えてるかってえと、実家の隣に住んでいる女が助手席に乗ってたんですよ。それで興味本位でナンバーまで控えたんです。えへへ。色っぽい女ですよ。名前はキム・ニューエルっていうんですけどね」
この女がレイモンド・クックの愛人「キム、ええと、ミュール」に他ならない。コルティナを運転していたのはエリック・ジョーンズ(46)というリース会社の経営者だった。
キム・ニューエル(23)は元々はジョーンズの愛人だった。当時の彼女はまだ十代で、従って同意の有無に拘わらず強姦罪が成立する。また、ジョーンズは妊娠した彼女に堕胎を強要している。彼がキムの云いなりになったのは、警察に訴えると脅されたからだろう。
事件の晩、供述通りにジョージ・ホテルで食事をしたクック夫妻は、帰宅途中にジョーンズに制止された。
「車が故障した。町まで乗せてくれないか」
後部座席に乗り込んだジョーンズは、すぐさま夫人の頭を強打。失神した夫人を引きずり出すと、クックが頭を支え、ジョーンズがジャッキで殴ってとどめを刺した。それから自動車を木にぶつけて事故を偽装したのである。
2人の愛人を手玉に取り、己れの手を汚すことなくクック夫人を亡き者にしたキム・ニューエルは「稀代の悪女」としてマスコミに叩かれ、実行犯の2人と共に終身刑に処された。13年間服役した後に仮釈放されて、1991年に癌のために死亡したと伝えられている。
|