コロラド州デンヴァー在住のセールスマン、ルイス・ホセ・モンジェとその妻ドロレスは大家族を夢見ていた。1963年初頭にはその夢はほぼ実現していた。上は18歳から下は0歳まで、実に10人もの子供に恵まれたのだ。しかも、その年には11人目が生まれようとしていたのだから、なんともはや物好きな夫婦である。
端から見ればルイスほど理想的な父親はいない。妻を愛し、家族を愛する満点パパさんだ。ところが、その実際はそうでもなかった。実は彼は妻だけではなく、他の女とも性交渉を重ねていたのだ。その女とは驚くなかれ、娘のジャネット(13)だったのだから、こりゃ大問題だ。
妻はやがてそのことに気づいた。
「あんた、いったい何考えてんのよ!」
すまん、俺が悪かった。つい出来心だったんだ。もう二度と悪さは致しませんと約束すれども、誘惑には勝てなかった。またしても行為に及んでしまう。
「何遍云ったら判るの! こんどやったら児童虐待で訴えるわよ!」
ひええ、そいつは勘弁してけろ。それではおいらのメンツが丸潰れ。心底反省すれども、誘惑には勝てなかった。まったくなんてえ親だい。情けない。こいつの理性とちんぽこはいったいどういう構造になっているのだろうか?
それは1963年6月28日の晩のことだった。どうにも堪らなくなったちんぽこ親父は、性懲りもなく夜這いを働く。ジャネットの寝台に入り込むと、もそもそと動き始めた。もそもそ。もそもそ。もそもそもそもそ。同室のアンナが目覚めて云った。
「またあ? いい加減にしてよ、パパ。ママに云うわよ」
あら、ショックぅ! 云われては大変だ。満点パパさんが一躍、虐待親父に早変わり。それではおいらのメンツが丸潰れ。どうしよう。どうしよう。どうしようったらどうしよう。
殺してしまおう。
後の供述によれば、ルイスは家族を皆殺しにした上で、自らも死のうと思っていたという。
まず、火掻き棒を手にした彼は、妻の頭をしこたま打ち据えた。その死を確認すると、傍らですやすやと眠る末っ子のティナ(11ケ月)にナイフを突き刺す。
ふぎゃあ。
騒がれては堪らない。枕で顔を覆い、息をしなくなるまで押さえつけた。矢継ぎ早にトーマス(4)を窒息させて、お次はフレディー(6)の番だ。彼は一番お気に入りの息子だった。ごめんな。不甲斐ないお父ちゃんを許しておくれ。火掻き棒で二度打ち据えると、口を押さえて窒息させた。
ここでルイスはふと我に返る。最愛の息子を殺めてしまったことで気力が失せてしまったのだろうか? とにかく、フレディーを最後に皆殺し計画は頓挫し、さめざめと泣きながら兄貴に電話している。
「妻を殺っちまった! 子供も殺っちまった! 早くここに来てくれ! 誰かを殺す前に止めてくれ!」
当初は極刑を受け入れ、あらゆる弁護を拒否したルイスだったが、いざ死刑が云い渡されると、一転して控訴審を争い始めた。その心変わりの背景には、当時の英米における死刑廃止の気運の高まりがあったのだろう。しかし、コロラド州市民は死刑を維持することに同意し、ルイスの控訴も退けられた。ここで彼は奇妙な主張を試みる。自らの処刑はデンヴァー・シティー・ホール前で公開で行われるべきこと、テレビ中継もされるべきことを主張したのである。死刑の醜悪さ、理不尽さをアピールする意図があったようだが、世間には悪足掻きとしか受け取られなかった。
かくしてルイス・ホセ・モンジェは1967年6月2日、コロラド州立刑務所のガス室において処刑された。その後10年間、1977年1月17日にゲイリー・ギルモアが処刑されるまでは、アメリカで処刑された死刑囚は1人もいない。
(2008年10月25日/岸田裁月)
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