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ラルフ・ロボウ
Ralph Lobaugh (アメリカ)



60歳になったロボウ(左)

 それは1944年2月2日の冷たい雨の晩だった。インディアナ州フォートウェインでのことである。ハーツェル通りに面した農家の軒先に1人の女性が倒れていた。ウィルヘルミナ・ハーガ(38)。暴漢に襲われて、ここまで逃げ延びて来たらしい。頭部を鈍器で何度も強打され、首を絞められている。既に意識不明の状態に陥っていた彼女は5日後に死亡した。財布や指輪が盗まれていなかったので強盗目的ではない。しかし、強姦された形跡はなかった。

 またしても雨の晩の出来事だった。1944年5月22日、フォートウェインのフィルモア通り北に住むアンナ・クゼフ(20)は、ゼネラル・エレクトリック社での午後11時から午前7時までのシフトに勤務するために、午後10時頃に家を出た。ところが、その晩は出勤しなかった。
 翌朝、彼女の遺体が自宅付近の空き地で発見された。前歯が1本折れるほど顔面を殴られ、首を絞められている。このたびは死後に強姦されていた。
 一方、遺体発見現場からほど近いセント・メアリーズ川では男の溺死体が浮いていた。クライド・シェーラー(54)。死後6〜8時間と推定される。彼もまたゼネラル・エレクトリック社で、午後3時から11時までのシフトで働いていた(但し、先週から欠勤が続いていた)。際立った外傷はないが、その左中指には歯形があった。アンナのものだろうか? しかし、警察はアンナの事件とは無関係だと発表した。

 またしても雨の午後の出来事だった。1944年8月4日、フォートウェインのキンスムーア通りに住む高校生フィリス・コニン(17)は、午後2時30分に親友のバーバラ・クリズウェルからの電話を受ける。映画への誘いだった。2人は午後3時45分にダウンタウンにあるパラマウント劇場前で落ち合う約束をした。ところが、バーバラは25分も遅れてしまう。午後4時10分に劇場前に着いた時にはフィリスの姿はなかった。午後5時まで待ったが、彼女はとうとう現れなかった。
 2日後の8月6日、フィリスの遺体が郊外の空き地で発見された。全裸で、やはり首を絞められている。頭蓋骨も陥没している。現場の状況から、どこか他の場所で犯されて、殺害されて、遺棄されたものと思われた。
 なお、遺体のそばには革のトレンチコートが捨てられていた。男物だ。襟には血が付着している。犯人のものと見て間違いないだろう。
 聞き込みにより、知り合いの少女が当日の午後、黒いシボレーに乗っているフィリスの姿を目撃していることが判明した。場所はパラマウント劇場にほど近いジェファーソン通り。
「フィリスは私に気づいて、手を振ってくれたわ」
 つまり、フィリスは劇場に向かう途中か、もしくは劇場前で黒いシボレーに乗り、連れ去られたのである。しかし、新聞部に在籍していた彼女は、見知らぬ男の車に誘われるままに乗るような軽率な娘ではない。故に顔見知りによる犯行と推測された。

 またしても雨の晩の出来事だった。1945年3月5日、フォートウェインのマクレラン通りで陸軍兵士の夫と暮らすドロシア・ハワード(36)は、ウエストメイン通りの居酒屋で飲んでいた。夫が夜勤の日はたいがい飲み歩いていたようだ。へべれけであるにも拘らず、なおも酒を注文する彼女を店主は諌めた。
「お客さん、ちょっと飲み過ぎですよ」
「うるさいわねえ! さっさとよこしなさいよ!」
 しばしの口論の後、憤慨した彼女は客の1人を従えて店を出る。軍服姿の若い男だった。その数時間後の3月6日午前3時30分、警邏中の巡査が居酒屋からほど近い路地裏で瀕死のドロシアを発見した。衣服を剥ぎ取られて犯されている。11日後に死亡。雨の中に放置されたために肺炎を拗らせたのだ。
 やがて1人の男が名乗り出る。彼女と共に店を出た男だ。チャールズ・ダッドソン(26)。彼女の夫と同じ陸軍兵士だった。曰く、
「彼女はかなり飲んでいました。店を出るなり、ひっくり返ってしまったんです。すると、見知らぬ男が近づいてきて、彼女を抱き起こしながら私に囁きました。『なあ、路地裏に連れて行こうぜ』」
 もちろん、如何わしいことをするためである。
「彼女を路地裏に連れて行こうとすると、背後から自動車のライトに照らされました。私はびっくりして、その場から逃げ出しました。そして、そのまま基地に帰りました。その後のことは知りません」
 彼らを照らした自動車の運転手がその後の一部始終を見ていた。ダッドソンが去った後、もう1人の男は「さあ、もう一杯やろう」と千鳥足のドロシアを連れて路地裏に消えたという。この男が犯人と見てまず間違いないだろう。


 いずれの事件も進展がないままに2年余りが過ぎた。ところが、1947年6月9日に事態は急展開する。1人の男が出頭し、ウィルヘルミナ・ハーガとアンナ・クゼフ、そしてドロシア・ハワードの殺害を自供したのである。ラルフ・ロボウ。30歳の元海軍兵士である。
 センセーショナルな事件が起こるたびに「俺がやった」と名乗り出る、頭のネジが外れた輩が存在する。ロボウもこの類いに違いない。というのも、ドロシア・ハワードの件は明らかに他の3件とは異質だからだ。首を絞めていないのである。にも拘らず、ロボウは「それも俺がやった」と云う。一方で17歳のフィリス・コニンは「やってない」。やがて前言を翻し「実は何もやっていない」。次の日になれば「やっぱりやった」。自供と否認を繰り返すこの男が精神を患っていることは明白である。
 ところが、ロボウはフィリス・コニンを除く3件の殺人容疑で起訴されて、1948年2月9日には死刑判決を下されてしまう。
 いったいどうして?
 この点、ロボウが起訴されたのが市長選の直前だったことから、政治的な陰謀を囁く声もある。つまり、一向に進展しない殺人事件を解決に導き、現職の共和党側に有利に事を運ぼうとしたというのだ。あり得ない話ではない。しかし、この目論見は失敗に終わる。選挙で勝利したのは民主党のヘンリー・ブランニングだった。

 なお、先ほど「異質」だと述べたドロシア・ハワードの件については、今日では一応の解決を見ている。現場にいた陸軍兵士チャールズ・ダッドソンが容疑者を特定しているのだ。ロバート・クリステン。36歳の好色漢だ。ロボウの裁判中は4件の「女性に対する淫らな行為」の報いとしてフォートウェインから追放されていた。1949年11月になってようやくデンヴァーで逮捕され、ドロシア殺しで裁かれた。一審は終身刑。ところが、上告審では証拠不十分を理由に無罪放免となった。「疑わしきは罰せず」というわけだが、殺す意図はなかったとしても、ドロシアを強姦したのはクリステンと見てまず間違いないだろう。


 さて、話はこれで終わらない。この後、事件は劇的な展開を迎える。
 またしても雨の晩の出来事だった。1949年8月17日午後10時、警察はフォートウェイン南西部に住むサイモン・スパークスから通報を受ける。なんでも妻のレオナ(19)が連れ去られたというのだ。
「それで奥さんはどうしました?」
「今ここにいます」
「えっ? 連れ去られたんですよね?」
「それがどういうわけか、すぐに解放されたんですよ」
 つまり、こういうこと。売りに出していたスパークス夫妻の家を見に来た男が、レオナを一目見るなり暴れ出し、強引に自分の車に押し込む。ひとしきり走ったところでヤバイと思ったのだろう。トンボ返りで戻って来るなり彼女を突き飛ばし、一目散でトンズラしたというわけだ。
 サイモンは車のナンバーを控えていた。所有者の名はフランクリン・クリック(30)。この物語の第二の主人公である。

「彼はベルトを外すと、それで私の首を締めたんです」
 レオナのこの証言に担当刑事はピンと来た。ウィルヘルミナ・ハーガもアンナ・クゼフも、そして17歳のフィリス・コニンも、みな首を絞められていたのだ。現場の人間は誰もロボウの犯行だなんて思っちゃいない。早速クリックを洗うと、出て来るわ出て来るわ、彼の犯行を匂わせる事実が次々と明らかになった。
 まず、ウィルヘルミナ・ハーガが殺害された当時にクリックが勤めていたREAマグネットワイヤ社は、彼女が勤めていたインカ・マニュファクチュアリング社から数ブロックしか離れていない。
 また、テイラー通りにある現在のクリックの住まいは、アンナ・クゼフの遺体発見現場から1ブロックも離れていない。目と鼻の先なのだ。
 更に驚くべきことに、アンナ・クゼフが殺害された当時、クリックはフィルモア通り北に住んでいた。なんと、アンナ・クゼフとはお向かいさんの顔見知りだったのだ。しかも、彼女の葬儀に際してクリックは棺の付添人も務めている。これには開いた口が塞がらなかった。

 直ちに逮捕されたクリックは、妻に対してこのような手紙をしたためた。
「愛する妻よ。俺
の口から云うのもなんだが、俺は人殺しだ。1944年2月2日にはウィルヘルミナ・ハーガを、同年5月22日にはアンナ・クゼフを、同年8月4日にはフィリス・コニンを殺害した。いずれも俺の単独犯だ。このことを署長のレスター・アイゼンフートに知らせるんだ。そうすればお前は報奨金を得ることができる。いいか。俺は人殺しだ。お前だけに打ち明ける」
 数日後、悩みに悩んだ末、妻は手紙を届け出た。
 クリックが手紙をしたためたのには、おそらくこのような思惑があったのだろう。
「誘拐未遂の罪だけでも俺は終身刑を喰らうだろう。ならば殺人の一つや二つを告白しても量刑はそれほど変わらない。それにハーガとクゼフに関してはロボウが既に有罪になっている。俺はフィリス・コニンの件でしか裁かれないだろう。死刑を免れる可能性は十分にある。ならば報奨金を手に入れて、少しでも妻に報いてやろう」
 この思惑は半分は当たり、半分は外れた。クリックは誘拐未遂とフィリス・コニンの件でしか裁かれなかった。しかし、死刑は免れなかった。そして1950年12月30日、電気椅子で処刑された。

 ところで、フィリス・コニンはどうして見ず知らずの男の車に乗ったのだろうか? この点、クリックは明快な答えを提示している。
「雨がひどかったんだよ。だから誘いに応じたんだ」
 またしても雨だ。雨が重要な役割を担う事件だった。
 なお、フィリスが乗った黒いシボレーは、クリックが当日に盗んだものだった。そして、午後3時30分に映画館へと向かうフィリスを拾った。遺体発見現場に残されていたトレンチコートは、シボレーの中にあったものだった。


 一方、ラルフ・ロボウはというと、クリックの自供が報じられると「フィリス・コニンも俺がやった」と云い出した。信じる者は皆無である。恩赦により終身刑に減刑されて、頭のネジが外れた人のための施設に収容された。その後も「俺がやった」の「やってない」だのと自供と否認を繰り返していたようである。

(2008年6月3日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)


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