爆破されたバス統合学校
農場の柵に残されていたメッセージ
学校の床下から発見された大量の爆薬 |
結局のところ、キーホーは新たに設立された「統合学校」を爆破して、43人もの尊い命を奪ったわけだが、その計画は1年近くも前から着々と進められていた。1926年初夏にはパイロトール(無煙火薬)を1トンも購入、11月にはダイナマイトを2箱購入している。共に農場経営者の間では開拓用に普通に使用されていたものであり、このことをもって彼が疑われることはなかった。但し、ダイナマイトは破壊力が図抜けているので、いちどきに買うと疑われる。少しずつ買い足していたようである。
また、教育委員会に携わっていたキーホーは学校の出入りも自由だった。電気に詳しいということで、設備の補修を頼まれたりもしていた。こうした機会に少しずつ爆薬を仕込んでいたのである。
妻のネリーが退院したのは1927年5月16日のこと。おそらくその翌日に、キーホーは彼女の頭を鈍器で殴って殺害した。後日、彼女の遺体は鶏小屋脇の手押し車の中で発見された。その周りには故人が生前に愛した銀器やら宝石やらが積み上げられていた。キーホーなりの供養だったのだろう。
最愛の妻を殺したキーホーは、自宅をも葬り去る準備に取りかかった。農場に導線を張り巡らせて、全ての建物に自家製の爆弾を仕掛けたのである。そして、すべての家畜を囲いに縛りつけた。もちろん、道連れにするためである。
最後に仕上げとして、農場の柵にメッセージが書かれた板を括りつけた。
「犯罪者は作られるのだ。生まれながらではない)
(Criminals are made, not born.)
1927年5月18日午前8時45分、最初に爆発したのはキーホーの農場だった。その1時間後の9時45分に学校の北側部分が爆発した。消防団を自宅に引きつけ、子供たちの救助を遅らせようとするキーホーの底意地の悪さが窺える。
爆発の威力はそれは凄まじいものだった。机や教科書と共に子供たちも吹き飛ばされた。屋根は崩れ落ち、多くの子供たちが下敷きになった。この爆発により37人の生徒と2人の教師が帰らぬ人となった。
爆発から30分後、消火やら救助やらで大わらわの現場にキーホーはニタニタと笑いながら車で乗りつけた。助手席にはたんまりとダイナマイトが積まれている。そして、ヒューイック校長を見つけると、大声でこっちに来るよう呼び寄せた。なんだなんだ? 校長が近づくや否や、キーホーの車が爆発した。この爆発によりキーホー自身はもちろん、ヒューイック校長の他にも2人の住民と1人の生徒が巻き添えとなって死亡した。キーホーは最後の爆発の殺傷能力を高めるために、後部座席に釘やら鉄屑やらを搭載していたのである。恐ろしいことである。
結局、本件の死者は最終的にキーホーも含めて45人に及んだ。
なお、現場を捜索したところ、校舎の南側にも爆薬が仕掛けられていることが判明した。時限発火装置は午前9時45分にセットされている。幸いにして不発に終わったわけだが、もしこれも爆発していたら倍の死者を出していたことだろう。身の毛がよだつ思いがする。
(2009年1月22日/岸田裁月) |