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アルバート・ヒックス
Albert Hicks
a.k.a. Wiilliam Johnson (アメリカ)


 ウィリアム・ジョンソンこと本名アルバート・ヒックスは札付きのワルだった。これまでにも窃盗やら強盗を繰り返していたが、ニューヨークという大都会の人ごみに紛れて、サツに挙げられることはなかった。そんな彼がE・A・ジョンソン号に船員として乗り込むことになったのは「上海」に遭ったからだという。「上海」とは「人を酔い潰して船に乗り込ませること」をいう。当時の東洋航路ではこうして強引に船員を集めることが日常的だったことからこの言葉が生まれた。

 バー船長とオリヴァーとスミスのワッツ兄弟、そして、ジョンソンことヒックスの4名を乗せたE・A・ジョンソン号がニューヨークの港を出帆したのは1860年3月26日のことである。ところが、5日後の3月21日には港に舞い戻ってしまう。乗員は1人もいない。デッキはさながら血の海だった。
 翌日、2人の男が警察に密告した。
「ジョンソンってえ奴はピンピンしてますよ。たんまりと金を持って飲み歩いていますぜ」

 かくしてジョンソンことヒックスはしょっぴかれ、死刑を云い渡されたのである。死刑を待つまでの間、彼はこのような供述書を認めた。

「あれは出帆して2日目の午後10時頃のことでした。私が操舵している間、船長とスミス・ワッツは船室で睡眠をとり、オリヴァー・ワッツは船首で見張りをしていました。魔が差したとでも云いましょうか、私は彼らを殺して金目の物を奪うことを思い立ちました。斧を手に取ると、オリヴァーの頭に振り下ろしました。辺りには脳みそが飛び散りました。その音を聞きつけてスミスが起きて来ました。私は彼の胸に斧を振り下ろしました。それから寝室に行き、船長も同様に殺害しました。
 デッキに戻ると、スミスはまだ生きていました。私は彼を引きずって海に落とそうとしました。ところが、手摺りにしがみついて離しません。私は斧でその手首を切り落としました。彼は海に落ちると沈んで行きました。
 他の死体も海に捨てた後、進路を港に向けました。そして、港が見えたところでボートに乗り換えて上陸したのです」

 1860年7月13日の金曜日に執り行われたヒックスの公開処刑には、およそ1万人もの観衆が詰めかけたと伝えられている。娯楽の少ない当時としては格好の見世物だったのだろう。

(2009年1月28日/岸田裁月) 


参考資料

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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