1905年9月、白人の一家がテキサス州のエドナという黒人が多く居住する地域の農家に移り住み、28日の午後には死体となって発見された。
J・F・コンディット(夫)
ローラ・コンディット(妻)
ミルドレッド・コンディット(12)
ハーシェル・コンディット(10)
ジェシー・・コンディット(6)
ジョセフ・コンディット(3)
いずれも斧やナイフで殺されていた。ミルドレッドは犯されていた。生後10ケ月のロイドだけは無傷だった。殺すに忍びなかったのだろう。それに生かしておいても証言者にはなり得ない。
第一発見者はモンク・ギブソンとフェリックス・パウエルという黒人の少年だった。大変だあと隣家に駆け込んだのだ。彼らによれば一家は2人の黒人に殺されたのだという。しかし、その供述は曖昧で、不自然な点が多い。その衣服や腕には血が付着している。彼らはそれを説明することが出来なかった。
要するに、こういうことだったのだ。農作業の人足として雇われていた2人は、ミルドレッドに欲情し、デートに誘えども断られた。そこでヤッちまえとばかりに押し倒し、勢い余って皆殺しにしてしまったのである。
逮捕された両名は、一旦は地元の留置所に勾留されたが、リンチの恐れがあるとして移動されることになった。その護送中にギブソンが脱走。テキサス・レンジャーによる捜索の結果、10月5日に捕縛された。
まず裁かれたのはパウエルの方だった。死刑を宣告された彼は、1907年4月2日に絞首刑に処された。
一方、ギブソンの弁護人はなかなかのやり手だったようで、ジャクソン郡では公正な陪審員は望めないとして、裁判地の変更を求めた。結果、サン・アントニオに変更されたが、陪審は割れて評決に至らなかった。仕切り直しの裁判では弁護人はこのように主張した。
「被告人は犯行当時16歳であり、テキサス州の法律では死刑にできない」
しかし、事実は「ぎりぎり17歳」だった。17歳の誕生日を迎えて間もない犯行だったのだ。かくしてギブソンは有罪となし、死刑を宣告された。
デウィット郡クエロで執り行われた公開処刑には2500人の観衆が集ったという。うち500人はわざわざエドナから汽車に乗って詰めかけた白人だった。
(2009年1月25日/岸田裁月)
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