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マイケル・コープランド
Michael Copeland (イギリス)


 1960年6月12日、イングランド中部チェスターフィールド近郊の町、バスロウでの出来事である。軽自動車が街灯に激突。ところが、発見された時には蛻けの殻。おやおや、運転手はいずこにと思っていると、まもなく付近で男の遺体が発見された。何故か靴を履いていないその男は、頭をひどく負傷している。どうやら彼が運転手ということで一件落着したかに思われた。
 ところが、検視解剖によれば然に非ず。死因はクラッシュではなく何者かの一撃によるものと判明。事態は殺人事件へと転じた。
 被害者の名はウィリアム・エリオット(60)。一人暮らしの老人だった。

 やがて、事件当夜にエリオットらしき男が、若い男に追いかけられていたとの目撃情報が寄せられた。これを受けて多くの者が尋問されたが、その中にマイケル・コープランドがいた。21歳の陸軍召集兵。ドイツ駐留だが、事件当日は休暇でチェスターフィールドに帰郷していた。前科者で、ガールフレンドには「人を殺したことがある」などと嘯いていたという。しかし、彼と事件を結びつける証拠は何一つ見つからなかった。

 同年11月、コープランドが駐留している西ドイツ北部フェルデン近郊の森で、16歳のギュンター・ヘルムブレヒトが刺し殺された。コープランドはまたしても疑われた。事件当夜、兵舎に戻った彼は脚を負傷していたのだ。事情を訊かれると、2人の与太者に襲われたのだと彼は答えた。このたびもやはり証拠がない。釈放せざるを得なかった。

 やがて兵役を終えたコープランドはチェスターフィールドに舞い戻る。その矢先の1961年3月29日、ウィリアム・エリオットの遺体が発見されたのとほぼ同じ場所で、ジョージ・ストッブスの遺体が発見された。車が乗り捨てられていた点、頭を叩き割られていた点も前回と同様である。
 当然の如くコープランドが疑われたわけだが、相変わらず証拠がない。しかし、警察はホンボシと睨んで追求を続けた。

 2年半後の1963年11月、遂に音を上げたコープランドは犯行を自供。動機は「彼らが同性愛者だったから」という理不尽なものだった。
「俺はそういうのが大嫌いなんだ」
 ドイツの少年もそうなのか?
「いや、彼は違う。彼に関しては後悔している」

 コープランドは法廷では一転して無罪を主張したが、陪審員は有罪を評決、死刑判決が下された。但し、当時の英国では死刑廃止の気運が高まっており、後に終身刑に減刑されている。

(2008年10月20日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)


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