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アルバート・バロウズ
Albert Edward Burrows (イギリス)



アルバート・バロウズ

 第一次大戦の特需景気が齎した悲劇と云えよう。

 アルバート・バロウズはハナから素行のよい男ではなかった。馬泥棒に始まり、窃盗、暴行、動物虐待とさまざまな前科があった。そんな男の羽振りがよくなったのは、勤めていた弾薬工場が忙しくなったからだ。残業に次ぐ残業で給金は跳ね上がった。懐が暖まれば浮気の虫が疼き出す。当年57歳、一女の父のバロウズも例外ではない。ハンナ・キャラダイン(28)という子持ちのバツイチ女としっぽり濡れる。1918年のことである。
 やがてハンナはポンポコリンと男子をひり出す。父親と同じくアルバートと名づけられたその子を盾にハンナは結婚を迫る。自らをやもめと騙っていたバロウズには断わる口実が見つからない。已むなくハンナと結婚するが、すぐに重婚がバレて半年間投獄される。まったくあきれた野郎だぜ。

 半年後に出て来てみれば、戦争はとっくに終っていた。景気はすっかり落ち込んで、雇ってくれるとこなどありゃしない。それでもハンナは毎日のように養育費を督促してくる。
 うるせえアマだなあ。
 今では本妻と縒りを戻して、マンチェスターの自宅で鹿の十を決め込んだバロウズだったが、ほどなく後悔することになる。養育費不払いを理由に21日間の禁固刑を喰らってしまうのである。
 さあ、困った。仕事はない。金はない。だけど、払わなければしょっぴかれる。崖っぷちのバロウズが取った解決策は、ハンナを亡きものにすることだった。

 21日後に出て来たバロウズは、その足でハンナを訪ねた。
「カミさんとは別れるから、どうか二度と訴えないでおくれ」
 妻と娘を家から叩き出すと、ハンナと幼いアルバート、そして連れ子のエルシーを迎え入れた。1919年12月19日のことである。ところが、翌1月12日を最後に3人はプイと姿を暗ます。お隣さんが問いただすと、
「ああ、あいつとなら話がついたよ。もうお別れだ」
 すぐさま本妻と縒りを戻して、再び同居し始めた。
 このまま何事もなければ本件は発覚しなかったことだろう。ところが、3年後の1923年3月にすべてが露見することになる。

 1923年3月4日、まだ4歳のトミー・ウッドが行方不明になった。
 午前11時に家を出たトミーは、夕暮れ時になっても帰って来ない。その日が日曜日だったことが事件の発覚を遅らせた。トミーは日曜日には近所の祖母の家で夕食を呼ばれることが多かったのだ。だから、両親はさほど気にしていなかった。ところが、待てど暮らせど帰って来ない。深夜になってようやくえらいこっちゃと騒ぎ始めた。
 トミーはその日は祖母の家には行っていない。小川の近くで彼を見たとの子供たちの証言から、過って小川に落ちたのではないかと思われた。この時期は雪解けのために水かさが増していたからだ。
 ところが、やがて新たな目撃証言が数人から寄せられる。トミーは不審な男に連れられて廃坑の方角に歩いていたというのだ。うちの1人がその男を名指しした。アルバート・バロウズだった。

 尋問されたバロウズは、当初はのらりくらりと躱していたが、やがて観念したのか犯行を自供、廃坑の換気孔へと案内した。暗闇の中でごろんと転がるトミー坊やの亡骸には、痛ましくも性的に凌辱された跡が残されていた。
 廃坑を隈なく探した警察は、更に成人女性1体、女児1体、乳児1体の白骨死体を発見した。云うまでもないだろう。ハンナとその子供たちである。

 かくして4人の殺害容疑で有罪となったバロウズは絞首刑に処されたわけだが、最初の犯行と次の犯行とでは質が異なるのがどうにも腑に落ちない。ハンナ殺しは追い詰められた挙句の犯行だったのに対して、トミー殺しは明らかに快楽殺人である。思うに、最初の犯行で性的な興奮を覚え、殺しの魅力に取り憑かれてしまったのではないだろうか? そうでなければ、どうにも説明がつかない。

(2007年6月14日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)


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