40歳の肉体労働者クリフォード・バーソロミューは、妻のヘザーと、下は4歳から上は19歳までの7人の子供と共に、南オーストラリア州の州都アデレード近郊ホープ・フォレストに暮らしていた。子沢山であるわけだから暮らしは決して楽ではない。ベトナムからの帰還兵を下宿人として迎えることで家計の足しにしていた。
やがてクリフォードが職を失う。新たな職探しのストレスからか、彼は何かと妻に当たるようになった。手を上げることもしばしばだ。このままではとてもじゃないけど、あなたとは一緒に暮らせません。妻から三行半を突きつけられて動転したクリフォードは、どうかひとつ思いとどまってはくれまいかと頭を下げるも、ヘザーの決意は堅かった。7人の子供を連れて、シドニーの実家に里帰りするのであった。1971年6月のことである。
間もなくヘザーからの手紙が届いた。それは夫ではなく下宿人に宛てたものだった。中身を見て仰天した。熱烈な恋文だったのだ。つまり彼女は下宿人とデキていたのである。
ふてえアマだ! どうしてくれよう!
その日のうちに下宿人が追い出されたことは云うまでもない。
その後の夫婦の諍いについては詳らかではないが、だいたいのことは想像がつく。「とりあえずこっちに来い!」と夫が妻を呼び寄せて、親権やらなんやらを巡ってごっちゃらごっちゃらと話し合ったのだろう。調停役としてヘザーの妹ウィニス・キーンが幼子のダニー(2)と立ち会うも、結局、離婚の合意には至らなかった。このたびは妻と7人の子供が家に留まり、クリフォードが家を出て、母のもとに身を寄せることになった。おそらく、子供たちのことを慮ったのだろう。
1971年9月5日。その日は「父の日」だった。クリフォードも子供たちへのプレゼントを山ほど車に詰め込んで自宅へと向かった。プレゼントの中には長男のために買った22口径のライフルも含まれていた。
妻の応対は冷ややかだった。それでもクリフォードは怒りを堪えて復縁を懇願した。どうかまた共に暮らしてくれないか。俺には子供たちが宝物なんだ。ところが、妻はにべもなく、
「残念でした。私たちはもうすぐアデレードに移るの。あの人が今、住まいを探しているのよ」
妻と下宿人の関係はまだ続いていたのだ。ああ、そうなのか…。言葉をなくしたクリフォードは、プレゼントを渡すことなく引き下がる。その晩は眠ることが出来なかった。あの若造が子供たちのパパになるって? んなバカな。パパは俺だ。俺の子供たちだ!
夜が明ける前にクリフォードは車へと飛び乗り、自宅へと向かった。トランクには長男のためのライフルが積み込まれたままだった。
後に彼が語ったところによれば、当初の計画はこうだ。就寝中の妻を殴って気絶させ、納屋に運んで射殺する。こうすれば子供たちには気づかれない。子供たちに手を出すつもりはなかった…。
ところが、気がついた時には、彼は血まみれのキッチンにライフルを手にして佇んでいた。妻はもちろん、7人の子供たちに義妹や甥っ子の〆て10人が血の海の中で倒れていた。おそらく妻に騒がれてパニックに陥り、皆殺しする羽目になったのだろう。
「何も憶えていない。子供たちを殺ったなんて信じられない」
クリフォードは母に電話を掛けた。
「警察に通報してくれ。俺は逃げも隠れもしない」
パトカーが現場に到着した時には、クリフォードはキッチンで飲んだくれていた。
死刑判決を下されたクリフォードは、後に終身刑に減刑されて、世間の抗議にも拘らず1979年12月10日に仮釈放された。服役したのは僅か8年。1人につき1年にも満たない。随分と寛大な措置である。
(2009年1月19日/岸田裁月)
|