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オスカー・スレイター
Oscar Slater (イギリス)



オスカー・スレイター

 シャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナン・ドイル卿は、その晩年には心霊主義に傾倒し、一見にして明らかにインチキな妖精写真を擁護したりして晩節を汚したが、その一方で冤罪事件の被疑者に積極的に救いの手を差し伸べていた。オスカー・スレイターもその一人だ。

 1908年12月21日、グラスゴーでの出来事である。マリオン・ギルクリスト(82)は典型的なしみったれ婆さんだった。高価な宝石コレクション等、かなりの資産を保有していたが、小間使いのヘレン・ランビー(21)曰く、
「魚が2匹要る時でも1匹だけで間に合わせました」
 1ケ月1万円節約生活の如き吝嗇ぶりである。

 その日は雨がしとしと降っていた。午後7時頃、ヘレンは夕刊を買いに出掛けた。その際に鍵はしっかり掛けている。通常のドア錠の他に2個のスプリング錠にチェーンという重装備だ。婆さんは泥棒を過度に恐れていたようだ。ちなみに、婆さんの住居はフラットの2階である。
 約10分後にヘレンが戻ると、1階に住むアーサー・アダムスがドアの前に立っていた。そして、ヘレンを見て、驚いたように云った。
「あなたが外に出ていたのなら、ギルクリストさんに何かがありましたよ。大きな音がしましたから」
 曰く、数分前に階上から何かが壊れる音が聞こえ、続けて3回ノックする音が聞こえた。このノックは彼と婆さんとの取り決めだった。何か面倒なことが起こったら、婆さんは床を3回ノックして知らせる。アーサーは2階に駆け上がり、呼び鈴を鳴らした。返事はなかった。すると中から薪を割るような音が聞こえた。ヘレンさんが暖炉の薪を割っているのかな? でも、何か変だな、おかしいな、返事もないしとマゴマゴしているところにヘレンが帰って来たのだ。
 ドアの鍵は掛かっていた。ヘレンはそれを外すとドアを開けた。すると、1人の男がこちらに向って歩いてきた。立派な身なりの紳士で、慌てるでもなく落ち着き払って2人の脇を通り抜け、階段を降りるや脱兎の如く走り去った。
「奥様、大丈夫ですか?」
 食堂に入るなりヘレンは悲鳴をあげた。血みどろの婆さんが仰向けで倒れていたのだ。顔面はメチャクチャだ。アーサーが聞いた「薪を割るような音」はこれだったのだ。直ちに医者が呼ばれたが、もう手後れだった。
 一方、ヘレンは数ブロック先に住む婆さんの姪に訃報を知らせに走った。
「ビレルさん、大変です。叔母様が殺されました。それで、あの、私、犯人を見たんです!」
「まあ、誰だったの!?」
「間違いなく●●●●●さんでした」
 この伏せ字の部分は今日でも判っていない。判っているのはマーガレット・ビレルがそれを聞いて仰天し、
「そんな筈はないわ。あなたの見間違いに決まっている」
 と諭し、警察には黙っているように忠告したことのみである。

 物盗りの線は希薄だった。テーブルの上には婆さんの宝石類が手つかずで残されていたからだ。寝室の木箱が壊されて、中身の書類が散らばっていたこと以外は荒らされていない。ヘレンに確認を求めたところ、彼女は1点だけ紛失していることを指摘した。それは三日月形のダイヤのブローチだった。
 手掛かりは殆ど残されていなかったが、1つだけ決定的な証拠があった。凶器と思われる椅子に血染めの手の痕が残されていたのだ。当時のロンドン警視庁では既に「指紋による犯人特定」が捜査に導入されていた。だから、当然にこの指紋も採取された筈だ。ところが、どういうわけかこの椅子が法廷に提出されることはなかった。
 犯人の目撃者はヘレンとアーサーの他にもう1人いた。走り去った男とすれ違ったメアリー・バロウマン(14)だ。彼女によれば、男は背が高く痩せていて、年齢は30歳ぐらい、髭は生やしていなかった。

 4日後のクリスマスの夜、アラン・マクリーンと名乗る男が事件の担当刑事に面会を求めて、このように述べた。
「あっしはインディア通りにあるクラブの会員なんですが、そこでオスカー・スレイターという男が、あ、こいつはドイツ系のユダヤ人なんですがね、この男が質札を売りたがってたんですよ。それがね、先日盗まれたブローチの質札だってんで、こうしてお知らせにあがった次第でして」
 この「インディア通りにあるクラブ」とは賭博場だった。警察は関係者にスレイターについて訊ねると、
「ああ、あいつなら今頃は海の上ですよ。今月の初めに会った時、サンフランシスコに行くとか云ってました。えっ? 質札? ああ、売りたがってましたけどね。でも、事件のずっと前ですよ」
 その通りだった。ブローチが質入されたのは事実だが、それは11月18日のことなのだ。しかし、それでも警察はスレイターに疑いを抱いた。たしかに胡散臭い人物なのだ。本名はスレイターではなくレシュツィナーで、他にもいくつもの偽名を持っていた。仕事は主に賭博とポン引きである。住まいは殺された婆さんちのすぐそばで、表札には「歯科医」とあるが、中には歯科医の器具は1つもなかった。

 オスカー・スレイターは事件の直後に「オットー・サンズ」という偽名で出航していた。警察は船がニューヨークに着いたところでその身柄を確保。そして、わざわざ3人の目撃者をニューヨークまで首実検に連れ出した。アーサーは「私は近眼だからよく判りません」と曖昧だったが、ヘレンとメアリーは彼を指差し断言した。「この髭の男に間違いありません」。かくしてスレイターはグラスゴーに引き戻されたわけだが、おかしな点があることに諸君もお気づきだろう。メアリーはかつて犯人は「髭は生やしていなかった」と証言した。ところが、スレイターは口髭を生やしている。付け髭ではない。事件当時も生やしていたのだ。にも拘わらず、どうして彼を指差せたのか? 事前に警察が「あれがその男だよ」と教えていたからだ。

 スレイターが逮捕された時、旅行鞄の中から小型のハンマーが発見されたことから、凶器は椅子ではなく、このハンマーだということになってしまった。そのために椅子はもちろん、そこから採取された指紋も法廷に提出されることはなかった。
 また、彼は茶色のレインコートを所持していたが、それに合わせてヘレンが証言を変えた。当初は犯人が着ていたのは「グレイのオーバー」だと証言していたにも拘らず、法廷では「茶色のレインコート」と証言したのだ。
 更に、彼女は「犯人の顔ははっきり見ていないが、歩き方でスレイターだと判る」と証言していたにも拘らず、法廷では前言を翻し「犯人の顔をはっきり見た」とスレイターを指差した。矛盾を弁護人に指摘されると、
「今は見たと云ってるんです!」
 と逆ギレしたというからなんだかなあ。結局、このヘレン・ランビーの証言が決定打となり、スレイターは死刑を宣告されたのだった。

 事件を冷静に見守っていた人々の眼には裁判は茶番に映った。特にヘレン・ランビーの証言は酷かった。こんなんで死刑にされては堪らない。
 また、裁判では数々の疑問がまったく解決されていなかった。
 あれほどに用心深かった婆さんが、どうして見ず知らずのスレイターを部屋に入れたのか?
 彼の目的が物盗りだったとして、どうして宝石を盗まなかったのか?
 また、どうして書類を散らかしたのか?
 目的は宝石ではなく、別のものではなかったか?
 世論は次第にスレイターに同情的になっていった。そして、処刑が予定されていた1909年5月27日の2日前に「このまま殺してしまってはヤバかろう」ということで、終身刑に減刑されたのである。

 やがてアーサー・コナン・ドイル卿が『オスカー・スレイター事件』と題した小冊子を自費出版し、スコットランドの国務大臣に再審を要求したが、なかなか捗が行かなかった。
 あ、云い忘れていたが、スレイターが裁かれたスコットランドではまだ控訴裁判所がなかった。イングランドでもできたてで、その設立に最も貢献した人物が他ならぬドイルだった。殺人の濡れ衣を着せられたジョージ・エダルジの無実を世間に訴え、その結果、控訴裁判所が設立されたのだ。

 事態が動き始めたのは18年後のことだ。『エンパイア・ニュース』紙が掲載したヘレン・ランビーへのインタビューが大きく影響したようだ。その中で彼女は、
「犯人がスレイターではないことは知っていましたが、警察にそう証言するように強要されたのです」
 などと告白していたのだ。ドイル卿は小冊子を書き直して方々に配って歩いた。これが遂に議会を動かし、1928年7月20日に再審が実現した。ドイル卿は弁護士費用の1500ポンドも立て替えてあげたというから、大した人物である。
 ところが、遂に無罪を勝ち取ったスレイターは6000ポンドの賠償金を受け取ったにも拘わらず、ドイルには一銭も払わなかった。なんという男であろうか。語りベの立場としては、せっかくの人情噺に水をさされた心境だ。

 偽証罪に問われることを恐れたヘレン・ランビーはアメリカに逃げてしまったため、法廷には二度と現れなかったが、結局、彼女が見た「●●●●●」とは誰だったのか? 婆さんの身内であることは間違いないだろう。探していたのは遺言書や権利書の類いだと思われる。ドイル卿は甥の仕業だと確信していたようだ。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『未解決事件19の謎』ジョン・カニング編(社会思想社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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