ポーリン・パーカーとジュリエット・ヒューム
殺害現場
ポーリン・パーカー
ジュリエット・ヒューム
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1954年6月22日午後、ニュージーランドのクライストチャーチ郊外での出来事である。血みどろの二人の少女が泣き叫びながらリッチー夫人の食堂に駆け込んで来た。
「ママが…ママが大変なの!」
「大怪我をしたのよ!」
夫人は二人を落ち着かせ、事情を聞くと警察に通報した。現場にはパーカー夫人が倒れていた。既に息はない。頭部を45ケ所も殴られている。そばには血のついた煉瓦が落ちている。明らかに殺人である。犯人は二人の少女以外に考えられない。何故なら、彼女たちはこの期に及んでも「転んで怪我をした」の一点張りだからだ。頭の傷を問われると「二人で運ぼうとした時に地面にぶつけた」と弁明した。おいおい、45回もかい? 凶器の煉瓦を見せられて、ようやくポーリンが観念した。
「私がママを殴りました」
ポーリンの日記を調べた警察は、そこに克明な犯罪計画の記録を見つけた。前日の日記にはこうある。
「なんだかびっくりパーティーでも計画しているみたいだ。とても興奮する。次にこれを書く時にはママはもう死んでいる。変な気分だけど、とてもうれしい」
この事件の恐ろしさは、二人の少女に人を殺したという現実感がまるでないことだ。彼女たちは二人だけの空想の世界に住んでいた。そして、その世界が壊されそうになった時、空想の延長線上で殺人を計画、実行した。だから、二人はまだ空想の世界に住み続けているのだ
共に病弱で夢見がちだったポーリン・パーカーとジュリエット・ヒュームが出会ったのは1年ほど前のことである。小説を書くのが趣味の二人はすぐに意気投合し、やがて共同で物語を作るようになる。それは「ポロヴィニア王国」という架空の国を舞台にした壮大なファンタジーで、ポーリンは「傭兵ランスロット」を、ジュリエットは「王女デボラ」の役になりきっていた。やがて王女は傭兵に恋をする。現実の二人も肉体関係を結ぶようになったのである。
え〜と。私が聞いた話では、コスプレをする方には結構レズビアンの経験がある方がおられるようで。まあ、女同士で、相方が男役なら仕方がないことなのだろう。
ところが、二人の両親は私のように寛容な心の持ち主ではない。娘が女とデキていると悟るや、これを引き離しにかかった。特にジュリエットの父親はカンタベリー大学の学長なので必死である。娘を南アフリカに移住させることを決定した。
当初は「ポーリンも一緒に行こうよ」などと楽観視していた二人だったが、やがて本格的な引き離しの謀略であることを知る。その急先鋒がパーカー夫人だと勝手に思い込み、そして殺害計画になだれ込むのだ。以下はポーリンの日記より。
6月19日
「今日、私たちは本をほとんど書き上げた。メインとなるのは『母殺し』だ。これが決定稿だ。私たちは遂行するつもりだ」
6月20日
「デボラ(ジュリエットのこと)と二人で計画を更に練った。奇妙なことに、良心の呵責を感じない。私たちはそれほど気が狂っているのだろうか?」
6月21日
「なんだかびっくりパーティーでも計画しているみたいだ。とても興奮する。次にこれを書く時にはママはもう死んでいる。変な気分だけど、とてもうれしい」
6月22日
「母が死ぬ日の朝、これを書いている。とても興奮している。昨日はクリスマス・イブのような気分だった。楽しい夢は見てないけど」
弁護人はこの日記と14冊にも及ぶ「ポロヴィニア王国物語」を根拠に、二人は「感応性精神病」である旨を主張したが、判事は「変な奴らだが正常」と判断した。ただ、ポーリンが16歳、ジュリエットが15歳ということで不定期刑に処された。共に4年後に「二人が二度と会わないこと」を条件に釈放されている。
1994年、同郷の異才ピーター・ジャクソンが本件を映画化した。『乙女の祈り』がそれだ。作品的にも素晴らしかったが、それ以上の驚きを我々に齎した。なんと英国の人気ミステリー作家アン・ペリーがジュリエット・ヒュームその人であることが発覚したのだ。やはり小説家の道を歩んでいたのだ。当人は意外に冷静で、
「隠すことが何もなくなってしまったので、これからはありのままの自分で生きていけます」
などと語っていたという。
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