チャールズ・マンソン |
チャールズ・マンソン |
チャールズ・マンソンは1934年11月11日か12日に生まれた。どうして特定できないかというと、母親が正確な日を憶えていなかったからだ。 |
マンソン・ファミリーという名の穀潰し |
すぐにメアリー・ブルンナーという図書館職員と懇ろになったマンソンは、彼女のアパートに転がり込むや、リネット・フロム、パトリシア・クレンウィンケル、スーザン・アトキンスといった女たちを手なずけて「ファミリー」を形成して行った。 |
「ヘルター・スケルター」の血文字 これがヘルター・スケルター |
『ホワイト・アルバム』はビートルズ末期にリリースされた「寄せ集めアルバム」である。レゲエからフォークソングから子守り唄から、果ては前衛音楽に至るまで様々な試みが為されている。名曲も多いが、反面でメンバーの方向性の違いがはっきりと見て取れる。「終わり」が感じられるのだ。それをマンソンも読み取ったのかも知れない。 |
チャーリーズ・エンジェルたち パトリシア・クレンウィンケル(上左・下中) レスリー・ヴァン・ホーテン(上中・下左) スーザン・アトキンス(上下右) |
「ファミリー」の最初の犠牲者となったのはゲイリー・ヒンマンというメスカリンの売人だった。彼が2万ドルの遺産を相続したとの噂を聞いた彼らは、それを目的に押し入ったのだ。1969年7月25日のことである、 |
シャロン・テートとロマン・ポランスキー テックス・ワトソン |
1969年8月8日の犯行当日には、ポランスキーは欧州に出掛けていて留守だった。代わりに妻のシャロン・テートが3人の友人をもてなしていた。 居間に戻ったワトソンは、アトキンスにテートの殺害を命じた。 |
「豚どもに死を」の血文字 |
国をあげての大騒ぎに満足したマンソンは、今度は自らが指揮に当たった。彼が選んだのはスーパーマーケット・チェーンのオーナーであるレノ・ラビアンカの邸宅だった。もちろん、そんなことは彼は知らない。金持ちでありさえすれば誰でもよかったのだ。 それから1週間後の8月16日、マンソンは他の20人の「ファミリー」と共に逮捕された。もっとも、容疑は殺人ではなく自動車泥棒だった。警察はこの時点では一連の殺人と「ファミリー」を関連づけてはいなかったのだ。自動車泥棒についても証拠不十分のために釈放された。 ちびっこマンソンを筆頭に、実行犯の連中はそれぞれ死刑を宣告されたが、カリフォルニア州では死刑が廃止されたので終身刑に減刑された。仮釈放の可能性があるのはヴァン・ホーテンぐらいである。 |
参考文献 |
『ファミリー〜シャロン・テート殺人事件』エド・サンダース著(草思社) |