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おかしな肉屋
ドイツに実在した3人の人肉卸業者たち



『でぶ君のあかしな肉屋』より、でぶ君とキートン

 いつの時代にも怪奇デマ、恐怖デマというやつが流布する。近年では「口裂け女」や「人面犬」「走るばあさん」などが記憶に新しい。「ドラえもんの最終回」にはさすがの私もちょっと震えた。
 こうした恐怖デマは戦時に多く発生する。その最も怖い例は、やはり「籠の中」であろう。
 夫を戦場に送り出した新妻はその安否を気づかっていた。或る日、負傷した夫の帰還を告げる通知を受ける。命があればなにより。早くあの人の腕に抱かれたい。心待ちにしていると呼び鈴。すわ、夫の帰宅かと玄関に馳せる新妻。ガラリ戸を開けると、そこには大きな籠が置かれていた。あらなにかしらこれ。配給ものにしては大きすぎるしと夫人は籠を開ける。 中には手足を切断された夫が入っていた。

 ところで、G・オルポートとL・ポストマンの歴史的名著『デマの心理学』には「籠の中」より一枚上手の恐怖デマが紹介されている。
 或る小太りの中年婦人が買い物に歩いていると、通りの向こうから杖をつき色眼鏡をかけためくらさんがヒョコヒョコと歩いてくる。通りには他に誰もいない。あまりに危なげなので彼女はめくらさんに声をかけ、彼の眼の代わりを買って出た。めくらさんは彼女の親切に感謝し、しかし、あなたの親切に甘えるわけにはいかないと云う。それでも彼女が強く希望するので、それではこの手紙をこの住所に届けては下さらんか。お安い御用ですとも。では、よろしく頼みますと、めくらさんは深々と頭を下げた。別れた二人は、互いに今来た道を戻って行った。十数歩も歩いて、親切な彼女はめくらさんが心配で振り返る。すると、めくらさんだと思ったあの人は、杖を担げて猛スピードで走り去って行くではないか!。怖くなった彼女はその足で派出所へと駆け込んだ。警官隊が手紙の住所に押し入ると、二人の男と一人の女が肉を解体していた。その巨大な冷蔵庫からは老若男女併せて十数名の屍体が発見された。ちなみに、問題の手紙には、このように書かれてあった。
「今日はこの肉で終りです」。

 このよく出来た恐怖デマは、第一次大戦後のドイツはハノーバー地方で発生し、全ドイツに広まったものである。ドイツ国民はこの作り話を事実だと思ったらしい。無理もない。この時代のドイツは歴史に残る三人の人喰いを生んでいる。そして始末の悪いことに、この三人が三人とも「肉屋」だったのである。




紙屑同様になったマルクで遊ぶ子供たち

1. 三人のおかしな肉屋

 ブライアン・マリナーはその著書『カニバリズム』の中で、このおかしな肉屋たちが生まれた背景をこのように記述している。

「グロスマン、デンケ、そしてハールマンの事件は『時代が犯罪を生む』という格言を実証してみせた。3人とも人肉を食べたか、あるいは何も知らない隣人に食べさせたかのどちらかであり、しかも、その犯行はほぼ同時に行われた。この3件はどれも第一次大戦後のドイツで起きた。ドイツが経済的にも精神的にも破綻状態にあった時代だ。旧秩序が崩壊し、伝統的な道徳が忘れられ、全ドイツが価格の急騰と物不足に喘いでいた。闇屋と闇市の時代だった。人々はパンを求めて幾列にも並び、肉はほとんど入手不可能な貴重品となった。人々は生活の基盤を失い、住む家も失った。こうした人々は大量の浮浪者となり、全ドイツは無法地帯と化した」。

 ブライアン・マリナーは触れていないが、こうした時代背景がナチスを生むことになる。議会は無機能化し、何らのインフレ対策も見い出せない。議員の中には共産主義に身売りしようと大真面目に主張する者もいたという。そんな中でドイツ国民は強力な指導者=独裁者の出現を望んだ。その期待に応えたのが、他ならぬアドルフ・ヒトラーだったという訳である。
 このように、第一次大戦での敗戦国ドイツの悲惨はヒトラーという怪物を生んだ。これは歴史的必然であった。そして3人のおかしな肉屋の開業もまた、歴史的必然と云えないこともない。その意味でこれからのおはなしは、決して教科書に載ることのない「裏世界史」ということが出来よう。




ゲオルグ・カール・グロスマン

2. ゲオルグ・カール・グロスマン

 グロスマンは単なる変質者だったので、他の個性的な2人の前に霞んでしまいがちである。しかし、最も長期に渡り、最も多くの人間を解体している。その犠牲者の正確な数は不明だが、50人は下らないとみられている。

 1921年8月、ベルリンの或る下宿の家主が、間借人の部屋から女の凄まじい悲鳴が聞こえたと通報した。駆けつけた警官が見たものは、ベッドに縛りつけられた、まだ生暖かい少女の屍体だった。

 その部屋の間借人、グロスマンは生来の変質者だった。彼は子供の頃から小動物を解体して過ごした。そして、最初の性交相手は鶏であり、その後、あらゆる動物と契りを結んだ。射精すると殺害し、調理して舌鼓を打った。つまり、彼にとって性欲と食欲は同じことなのである。

 やがて第一次大戦に破れ、食用の動物がままならなくなると、グロスマンは獲物を人間に変えた。彼にとって人を殺すことは、糧を得るための当然の行為だった。  グロスマンの獲物はいつも浮浪者だった。仕事と泊まる場所を探すホームレスの女は街にうようよしていた。中には春を売る者も多くいたことだろう。そんな訳だからグロスマンは獲物に不自由することはなかった。彼は毎日のように女を連れ込み姦淫し、飽きると殺して解体した。自らも食べたが、残るとこれを売り歩いた。その肉は闇市に卸されホットドッグとなった。そして、そのホットドッグは、グロスマンが女を釣る餌としても用いられた。

 捕らえられたグロスマンは、当然の如く死刑を宣告された。判決を聞いて彼は大声で笑い出したが、これは躁病の発作であったらしい。独房で鬱病も併発した彼は、ズボン吊りで縊死した。




カール・デンケ

3. カール・デンケ

 デンケは数多いる「肉屋」の中でも特にユニークな存在である。ドナー隊のような極限状態の人喰いでない限り、カニバリズム(人肉嗜食)と変態性欲は通常切っても切れない関係にある。しかしデンケの場合は違った。彼は単に経済的目的のためだけに人肉を口にしたのである。

 1924年12月21日深夜、ミュンスターベルクの地主の召使ガブリエルは男の助けを求める叫び声に眼を覚ました。すわ、強盗っとガブリエルは御主人様を助けに階下に飛んだ。しかし、彼の眼に飛び込んできたのは、浮浪者の脳天に斧を振るう御主人様の姿であった。
 ガブリエルは警察を呼び、この屋敷の主人カール・デンケは逮捕された。屋敷内を捜索すると、12人の浮浪者の身分証明書や彼らの衣服、そして塩漬け肉の入った樽骨や脂身を入れた瓶が大量に発見された。

 デンケは地元では「パパ・デンケ」と呼ばれる、皆から愛される町の名士であった。いくつもの借地や農地を所有する大地主で、日曜のたびに町の教会でオルガンを弾いていた。
 そんな彼が何でまた?
 町の人々はしばらくは納得できなかった。
 しかし、第一次大戦の後遺症は、町の人々の想像以上にこの地元の名士を蝕んでいた。彼は極度のインフレ下にあって、自らの富を失うことを恐れる余りに発狂した。そして以下のような奇妙な経済学が彼の狂った頭を支配した。
「供給が不足すれば価格は上昇する。しかし、私は高いものは買いたくない。町の人々も同じだろう。ならば、私が供給を作ればよい。さすれば価格は下がり私も潤う。町の人々も喜び一石二鳥である」。
 デンケの当面の問題は肉不足。肉の供給、肉の供給と呟きながらあたりを見回すと、そこには大量の浮浪者がいた。

 1921年から24年にかけて、デンケは「安い肉の供給」を目指してせっせと浮浪者を殺した。まだ商品開発の段階だったので、屠殺したのはせいぜい50人程度だった。それでも相当に成果を上げ、そろそろ試験的に「デンケ牧場のヒュ ーマン・ジャーキー」は市場に出始めていた。卸し業者は飼育場もない農家のデンケがどうしたら肉を売ることが出来るのか不思議に思ったが、デンケの売る肉はとにかく安かったので仕入れを拒む者はいなかった。
 商品開発の過程でデンケは多くの人肉を口にしている。真面目な彼は、子供や女の肉が柔らかいことは勿論、年齢別の肉の性質、味、加えられるべき適切な塩加減等について詳細にメモをとった。この研究は召使いや女中たちには秘密だったが、彼らはデンケのマーケッティング調査の犠牲になった。彼らの食事には必ず「商品」が供され、食後にはアンケートの提出が義務づけられていた。人肉の一般家庭への普及にここまで熱心に打ち込んだ人を私は知らない。いかにもドイツ人らしい、几帳面な人物であった。

 逮捕されたデンケは、間もなくグロスマンと同じ方法で自殺した。独房の中でズボン吊りで首を吊ったのである。
 しかし、几帳面な彼は「仕入帳」を作成していた。そこには素材の氏名、性別、年齢、人種、体重、死亡年月日、仕入にかかった費用に至るまでが事細かに記録されていた。おかげで裁判を経なくても、その犯行の全貌を知ることができた。

 ところで、デンケの事件後、子供たちの間でこんな冗談が流行った。
「世界で一番悪い奴は誰だ?」。
「ハールマン・イッヒ・デンケ」。
 表の意味は「ハールマンだとボクは思うよ」。裏の意味は「ハールマン、ボクはデンケだよ」。(デンケを「思う」にかけた洒落)。
 次はいよいよ、そのハールマンの登場である。




ハールマンと人骨が発見されたライネ川


犯行現場の屋根裏部屋

4. フリッツ・ハールマン

 三人の肉屋の中で最も有名なのが、この「ハノーバーの吸血鬼」ことフリッツ・ハールマンである。本章の冒頭で紹介したハノーバーが発祥地の恐怖デマは彼の事件が引き金となっている。そしてこの事件が原因で、ハノーバー地方では現在でも菜食主義者が多いと聞く。それほどに影響力を誇る彼は、今だにカニバリストの代名詞となっている。

 1924年5月17日、ライネ川で遊ぶ子供たちは面白い物を発掘した。人間の頭蓋骨である。子供たちはこの発掘物に喜び、競い合って探し始めた。昨日はハンスが一つ見つけた。今日はマレーネが二つ見つけた。警察も最初は医学生のイタズラだと思ったらしい。しかし、ロベルトが袋に人骨がいっぱいの「大漁」を掘り当てるに及んで、これはただごとではないと思い腰を上げた。
 いざ捜索を始めてみると出るわ出るわ、ハノーバー全域から大量の人骨が発掘された。ゲオルグ・カール・グロスマンの事件が記憶に新しい。新たな「肉屋」の恐怖がドイツ中を駆け抜けた。
 そんな中で6月22日、フリッツ・ハールマンが逮捕された。彼の「人肉売買」は以前から噂されるところであった。しかし、そんな不穏な噂にも拘わらずこれまで警察が動かなかったのには、それなりの理由があった。

 ハールマンは1879年10月25日、機関士である父と、病気がちな母の第6子として生まれた。母は彼を産んでからは死ぬまで寝たきりとなった。故に夫婦仲は悪く、何かにつけて喧嘩をした。優しいフリッツ少年は母親の肩を持ち、次第に父親を憎むようになった。彼は人形遊びを好み、粗野な遊びの一切を嫌悪した。
 16歳になった彼は陸軍の下士官学校に入れられた。軟弱な彼を父親が見かねたのである。しかし、癲癇の発作を起こして退学。この挫折はフリッツ少年の心的外傷となる。彼は生涯、自分は精神障害者なのだとの自覚に苦しめられる。
 この心的外傷が原因であろうか。フリッツ少年はどうしようもなく怠惰な人間に成長していた。父親に無理矢理入れられた葉巻工場も欠勤しがち、児童公園に出向くと幼児に猥褻行為を強要した。これが発覚し逮捕。そして精神病院に送られた。しかし、彼は「手の施しようがないほどの意志薄弱」ではあるが精神異常ではないとの診断。
「お前はただ怠け者なだけなんだ」。
 父親は説得したが、フリッツは自分は障害者だと主張し、働くことを拒否した。

 20歳になったフリッツはエルナという女性と同棲を始めた。彼女が妊娠するとフリッツは中絶を勧めた。理由は障害者の血を残してはならないとのことだった。そして、現実から逃げ出すように陸軍に入隊。彼は後に軍隊で送った日々を「人生で最も幸福な時」だったと語っている。
 しかし「幸福な時」は長くは続かなかった。神経衰弱に陥り数年後に除隊。彼が再び深く傷ついたことは云うまでもない。
 ハールマンが同性愛に目覚めたのはその直後、25歳の時だった。彼は闇市で知り合った中年男に犯された。それからの彼はやぶれかぶれ。墜ちるところにまで墜ちて犯罪者の仲間入りをした。
 強盗や強制猥褻で出入獄を繰り返していたハールマンは、大戦中をほとんど獄中で過ごした。そして敗戦後の1918年、出獄した彼が見たものは、彼の心象風景と同じくらいに荒んだ光景であった。



犯行現場の屋根裏部屋


ハンス・グランスと犠牲者の骨

 監獄仲間の手引きで肉の密売を始めたハールマンは、天性の商才があったのか、すぐに自分の屋台を持つようになった。否。商才というよりもズル賢さと云うべきか。彼は警察の頼もしい「情報屋」となり「お目こぼし」で暮らしていたのだ。人々は彼を尊敬を込めて「ハールマン刑事」と呼んだ。彼によくすればそれなりの見返りがあったからだ。警察も彼の提供する情報に重宝した。そんなわけで、彼は闇市の顔役となった。真夜中になるとハノーバー駅で家出少年を補導する彼の姿がよく見られた…。

 ハールマンの最初の犠牲者は1918年に失踪したフリーデル・ロテだと云われている。家出少年の行方を探していた両親は、息子と思しき少年が「刑事に補導された」との情報を入手、早速警察に足を運んだ。警察はその「刑事」がハールマンであることはすぐに判った。大事な情報屋だが仕方がない。寝込みを襲って踏み込むと、彼は別の少年とベッドの中で戯れていた。現行犯なので目をつぶるわけにもいかず、ハールマンは猥褻罪で逮捕された。警察は問題の家出少年もこうして彼に犯されて、涙ながらに逃げ出したのだと推測した。しかし、4年後に再び逮捕されたハールマンは、実はあの時、その少年の頭部は新聞紙に包んでレンジの裏に隠してあったと告白した。

 9ケ月後に釈放されたハールマンは、久しぶりのシャバで運命共同体とも云うべき相棒に出会う。ハンス・グランスである。まだ16歳の彼は、ハールマンの更に上を行く外道だった。強盗恐喝は朝飯前、美少年の彼は完全にハールマンを支配し、その殺人衝動を己れの利益に利用した。
 彼らの手口はいつも決まっていた。まず、駅で家出少年を補導する。アパートに連れ込み強姦、最中にハールマンが喉笛を喰いちぎって殺害する。それから屍体を捌いて屋台で売る。余れば他のルートで売り捌く。遺留品も屋台で売る。中にはグランスが欲しい衣服を着ているという理由だけで殺された者もいた。
 こんな大胆な犯行であったから、彼らは何度か危ない橋を渡っている。例えば、血がいっぱいのバケツをさげてアパートから出てくるところを隣人に見られたこともあった。しかし、ハールマンは肉の密売人なので、これはたいして怪しまれずに済んだ。
 また、彼から肉を買った婦人が「人肉じゃないかしら」と警察に届けたこともあった。しかし、ハールマンは重宝な情報屋だ。なるべく泳がしておいた方がいい。警察は豚肉であることを保証して婦人を帰した。
 1918年から1924年にかけて、ハールマンが喰いちぎった喉笛は数知れない。明らかに彼が関与した失踪者は27人。しかし、一般には50人は下らないと信じられている。

 ハールマンの逮捕は意外に呆気なかった。大量の人骨を発掘した警察は当初からハールマンを疑っていた。しかし、証拠がない。そんな時、「ハールマン刑事」に逆らった或る若者が、偽造証明書を所持していることを理由に、ハールマン自らの手により鉄道公安官に突き出された。その若者を取り調べると、彼は過去にハールマンに犯されたことを証言した。これは好機と早速ハールマンに出頭を求め、その間に彼のアパートを捜索した。すると出るわ出るわ、被害者の衣類や身分証明書、そして多くの血痕が発見された。
「旦那も御存じの通り、あっしは肉屋ですからねえ。血痕があってもなんの不思議もありません。服だってそうですよ。あっしは 古着屋もやっていましたから。それに旦那、あっしは御同業の刑事ですよ。だから身分証明書も持っているわけです。それはみんなあっしが押収した偽造品ですよ」
 ハールマンは当初はこんな調子でのらりくらりと取調べを躱した。しかし、1週間を過ぎた頃、その犯行の一切を自供した。
「屍体の売り物にならない部分は棄てました。彼らはみな痩せていたので、私が食べてしまうと売り物になる部分はそんなには残りませんでした」
 いったん自供を始めるとこの「肉屋」は饒舌になった。そしてこんなトンデモない言葉で自供を締めくくった。
「そんな訳でねえ、旦那、屍体はいくらあっても足りなかったんですよ」



盗み撮りされた法廷でのハールマン

 1924年12月4日から始まったハールマンの裁判は14日興行の茶番劇だった。審理の手順はハールマンが仕切り、彼は法廷で煙草を吸うことも許された。何故か?。警察としては、彼が警察の情報屋で、「刑事」を名乗ることさえも許されていたことをバラされたくなかったからである。この御機嫌取りは効を奏した。ハールマンはすべてを自供し、しかし、余計なこと、つまり自分の警察との関係については押し黙った。
 証人喚問もハールマン自身が行った。
「さあ、頼んだぜ。知ってることを全部吐き出してくんな。俺たちは真実を知るためにこうして集まってんだからさあ」
 こんな傍若無人な態度にも判事たちはただ「うんうん」と頷くだけだった。
 こんなエピソードもある。公判の第1日目、傍聴席を見渡したハールマンは女性が多いことに不平を述べた。
「おいおい、こんな惨い事件は女性が聴くもんじゃねえぜ。帰ってもらってくんな」
 判事には傍聴人を合理的な理由なく退席させる権限はない。彼はその旨を告げてハールマンに頭を下げた。
 また、或る時などはハールマンは、殺された少年の両親を前にしてこんなことを宣った。
「俺にも趣味ってえもんがあるんだ。あんたの息子、写真で見たが何だありゃあ。あんな不細工な生き物、俺が喰うわけねえじゃねえか」
 その通り。こう見えてもハールマンは美食家だったのである。

 ハールマンは24件の殺人について有罪となり死刑を宣告された。1925年4月15日にギロチンで処刑されている。


参考文献

『カニバリズム』ブライアン・マリナー著(青弓社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック22『ハノーバーの狼男』(ディアゴスティーニ)
『猟奇連続殺人の系譜』コリン・ウィルソン(青弓社)
『死体処理法』ブライアン・レーン著(二見書房)
『食人全書』マルタン・モネスティエ著(原書房)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


 

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