3. ウィリーとマリオン ハーストとマリオン・デイビスとの出会いは1917年、ジークフリード・フォーリーズ(ニューヨークの人気レビュー)でのことだった。この陽気な金髪娘はここで踊り子をしていたのだ。桂三枝ではないが、一目会ったその日から、恋の花咲くこともある。二人はその日のうちにも結ばれた。ウィリー54歳はすべてを捧げたが、マリオン19歳は金目当てであったことは云うまでもない。 こうして思いもよらない大物のパトロンを得たマリオンは以後、トントン拍子の快進撃である。ハーストは映画会社「コスモポリタン・プロダクション」を設立し、彼女が主演の映画だけ、計45本も製作した。もちろん、そのすべてが超大作。《赤い風車》のセットでは、オランダの田舎町をそっくりそのまま再現し、凍った運河のシーンがあると聞けば、巨大な冷却装置を購入して本当に川を凍らせてしまった。加えてハースト系の新聞雑誌は彼女をこの上ない美辞麗句で褒めそやす。 |
そんな訳で、スターにはなれなかったマリオンではあったが、しかし、巨万の富は獲得した。ウィリーは彼女の映画作りと同様に、二人の愛の巣作りにも浪費を重ねた。伝説の「ザナドゥ」、サン・シメオン宮殿には驚くなかれ、3千万ドル以上の金員が費やされた。 サン・シメオンは本格的な動物園を持ち、シマウマやキリン、カンガルー、バッファローなどが放し飼いされていた。自然をこよなく愛するハーストは、城内での殺生は一切認めなかった。ネズミの退治も許さなかった。かくして城はネズミで溢れた。同様に、ハーストは枯れた木々の伐採さえも許さなかった。そのため、使用人たちは木木が枯れると、これに緑のペンキを塗って誤魔化していた。 |
ハリウッドの名士たちは、サン・シメオンが出来てからは毎週末に汽車に乗るのが習慣となった。路線は彼らを盛大なるパーティ会場へと導いた。ハーストが本線から支線をサン・シメオンへと引き込ませていたのである。 |