弓の達人 源為朝
八丈島にある歴史民族資料館に残る源為朝像
 源為朝(みなもとのためとも)は平安時代後期に実際に居た武将であり、大変弓に長けた人だったといいます。保元の乱の時に、源為義(父)と源為朝は崇徳上皇に味方し、源義朝(兄)と平清盛は後白河天皇について戦いました。その時、為朝はその弓で義朝の配下の武者50人程をも矢で討ち取ったと伝えられています。しかし兄義朝に捕らえられ伊豆大島に流されました。流された大島を本拠地にした為朝は、伊豆七島を次々に攻略して配下に納めます。武芸の優れたものを全て脅威と見なして殺害していきました。為朝の最後ですが、為朝に土地を奪われた茂光が朝廷に直訴して大軍を率いて大島に攻め込んだ際、日頃から恨みを買っていた為朝には味方する者無く、最後は大島で自刃したと伝えられています。
御蔵島の為朝伝説
 武芸の秀でたものを誰でも脅威とみなす為朝は、次々に殺害を繰り返します。為朝が八丈島に行く途中、御蔵島沖を通り過ぎました。その時、一緒に船に乗っていた息子の虎正が父親の為朝に言いました。「あの海鳥を射落としてみせる」。ちょうど海の上に見える岩の上を海鳥が横切るところでした。虎正は矢を放つと海鳥を見事に打ち落としました。それを見た為朝は息子虎正を脅威に感じ、その場で斬り殺してしまったと言います。その岩が虎正の根と言われる根で、イルカ・ウォッチングの時に、船から見ることができます。