御蔵島の歴史

江戸時代(島流しの時代)

白子屋お常のそうめん流し
 伊勢の材木屋「白子屋」のお熊が婿殺しの罪で鋸引の刑となり、母のお常は御蔵島に島流しになりました。そんな折、島流しにあったお常は白子屋から食べ物を御蔵島に送らせ、島でも贅沢な暮らしをしたということです。その一つに「ボロ沢のそうめん流し」があります。沢の上からそうめんを流し、下で役人や島民を接待しました。その後、江戸に帰った白子屋お常は、島民のことを忘れず、御蔵島にソラマメを送ってよこしたとのことです。それは「今では江戸で、それはマメに暮らしているぞ」という意味ではないかとも言われています。そんなお常のそうめん流しにちなみ、島では今も沢の清水でそうめん流しをするのが夏の風物詩になっています。

日蓮宗不受不施派の日縁上人
 1691年に江戸幕府からご禁制になり僧侶多数が伊豆諸島に流された。その中に日縁上人がおり御蔵島に流され、この地で暮らしました。不受不施派は、僧侶は檀家以外の人々からは布施を受けず、檀家も他の宗派には布施はしないという事を守る一派で、秀吉の時代、他の宗派の寺の建立に秀吉が協力を呼びかけた時に、対応について議論があり、時の権力に従った一派と、しなかった一派(不受不施派)が過去に分かれ、不受不施派が弾圧を受けるようになりました。江戸時代においてもご禁制は続き、多数の僧侶が島に流されました。

近藤啓次郎
 江戸時代は島流しの島として、凶悪犯が送られてくるようになった時代がありました。ですから島に住む人たちは大変な苦労を被ってきました。例えば凶悪犯近藤啓次郎は島に流されると、当時は字の読めなかった島の人に「送り状」を自分で読み聞かせ、「この男に油断するな」というところを「大事にしろ」と変えて読み、島の人をだまし、厚遇を要求しました。さらには島の名主を日本刀で斬殺して逃亡をはかりました。今でも南郷へ行く途中の道には啓次郎が「血だらけの太刀を杖にして腰をおろした石」があります。近藤啓次郎は最後には観念し、自ら命を絶ったとも伝えられています。

奥山交竹院
 加藤蔵人と桂川甫筑と共に、御蔵島の独立を果たした人物として三宝神社に奉られています。奥山交竹院は1714年に絵島生島事件で御蔵島へ流されました。そして御蔵島の発展に貢献しました



MIKURA ORIGINAL
「お常の流しそうめん」は御蔵島の明日葉入り。少量生産だが西川商店で\380-で購入できる。すぐに売り切れる為、今まで買えなかった。御蔵島らしい和の食材は夏のお土産にぴったりだ。
2018年8月
凶悪犯 近藤啓次郎の腰掛石
 後の射爆場候補地事件でもそうだが、本土の都合に振り回され続けている。そして現在も・・・・
絵島生島事件で御蔵島に流された奥山交竹院の墓(右)