たった一つのありきたりで愛おしいもの
野原に芽吹きたての草と控えめな野の花が一面に広がっている。 雪深く寒い冬を越えた奥州の春は、堰き止めていた川の流れを一気に開放するように、野や山に溢れかえる。 蝶が舞い、小鳥がさえずり、風が木々をさやめかす、その光景の中に。 沙耶がいた。 鎌倉方の奥州攻めからあまり時がたっていないので、吉次の装束は目立つだろうと、村娘と同じ様に簡素な着物を着た沙耶は、野原にかがみ込んで近くに置いた小さな駕籠に何かを摘んでいる。 下を向いていくつか摘み取ったかと思えば、不意に顔を上げて持っていた葉を日に透かす。 そのたびに、肩をさらさらと髪がすべっていく。 一人の娘が若菜摘みをしている、他人が見ればなんてことはないただそれだけの光景。 けれど。 「――――・・・・」 忠信は胸に迫る気持ちに押しつぶされたように、言葉を失ってただ、その光景に見惚れた。 子ども達に武術や算術を教えるのも一段落したから、そろそろ昼餉の時間だと近くの山へ出かけた沙耶を迎えに来た、という当初の目的も頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。 ありきたりな光景なのに、いくつもの気持ちが交錯する。 かつてまだ沙耶が今より小さくて、可愛らしい女童だった頃、平泉で山菜摘みに行った事。 あの時も弁慶の指示を受けながら首を捻りつつ、あんな風に地面にしゃがみ込んでいた。 (・・・・遠くから見ていたら、ちゃんと手伝ってくださいと怒られたっけ。) 腰に手を当てて眉間に皺を寄せた沙耶は結構可愛かったのを覚えている。 あの時は、一緒に苦笑する継信や、腹が減ったと騒ぐ琥太郎の声が近くにあった。 ・・・・あれから、年数にしたらそれほどの長い月日はたっていない。 その間に、なんと様々な事が変わり、なんと多くのものが失われただろう。 穏やかな光景の向こうに幾多と見た悲惨な光景が、瞬く間、過ぎゆく。 大きすぎる喪失感は未だに埋まらないし、敵と目したものの最後さえも、鮮やかに心に焼き付いて忠信の胸を灼いた。 しかし ―― それ以上に。 忠信は最初にこの光景を目にした時から縫い止められたように動かなかった足を、一歩進めた。 ほとんど無意識ではあったが、武人として育てられた本能で足音がたつことはなく、若菜摘みに集中しているらしい沙耶は気が付かない。 一歩、動き出せば、堰ききったように想いが溢れ、勝手に足が速くなる。 緑の野原で、花に囲まれている小さな背中へ。 まるで渇いている者が、水へ向かうように最後は小走りになって。 ほとんど最後まで忠信に気が付かなかった沙耶の肩を、一気に手を伸ばして、ぎゅうっと抱きしめた。 「!!!」 びっくりして反射的に抵抗しようとする沙耶の耳へ、唇を寄せてその名を呼ぶ。 「沙耶ちゃん。」 「!忠信さん!?」 目をまん丸くして振り返る沙耶に忠信の胸がまた締め付けられる。 大きな澄んだ瞳。 誰よりも真っ直ぐに、いつだって離れずに、忠信を見守っていてくれた一対の宝石。 堪えきれず、というかむしろ堪える理由も思いつかず、忠信はその瞼に唇を寄せる。 「っ!な、何するんですか??」 「ふふ、沙耶ちゃん、真っ赤。」 「あ、当たり前で・・・・っ!!」 抗議しようとした沙耶の、今度は反対側の瞼に口付けをすると、中途半端な言葉は甘やかな悲鳴に変わる。 腕の中から離す気はさらさらなかったので、そのまま抱き上げるように立ち上がらせると、頬を赤く染めた沙耶に、困ったように睨まれた。 「もう・・・・突然どうしたんですか?」 「うん?」 頭半分ぐらい下にある沙耶の頭、すっぽりと腕で囲めてしまう華奢な体。 その全てが。 「愛しいなあって、思って。」 「!」 素直に気持ちを言葉にした途端、零れてしまうんじゃないかと思うぐらい沙耶が目を見開いた。 そんな反応さえも、忠信の心をくすぐって、口元が緩むのを自覚する。 「沙耶ちゃんが普通に若菜摘みしてるのを見てたら、そう思ったんだ。」 どこからどう見ても、普通の娘の普通の光景だった。 けれど、沙耶は幼い頃から、今は亡き仲間達に笑顔を与えてくれた大切な少女だった。 そして忠信と共に己の身を危険にさらすことさえ厭わずに戦ってくれた女性だ。 だから、無意識に沙耶は特別で、普通の女性とは何か違うと思っていたのかも知れない。 でも、そんな事はなかったのだ。 「君はとても強くてしっかりしてて、俺達と一緒に戦ってくれてたから、そういう女の子なんだって思ってた。」 「・・・・私は、何もできませんでしたよ。」 不意に痛そうな顔をして視線を伏せた沙耶が、何を想っているのかわかるから、忠信はぎゅっと沙耶を引き寄せる。 抱きしめた体はとても温かくて、同じ痛みをもつ忠信の胸に静かに染みこんでいく。 「そんなことない。君は最後まで俺達にとって大切な宝物だった。だけど・・・・君は普通の女の子だったんだね。」 「え?」 「戦なんかとは無縁で、綺麗な物や楽しい事に笑って、小さな花に囲まれて・・・・そういうのが似合う女の子。」 忠信の言葉に腕の中の沙耶が戸惑っている気配が伝わってきた。 多分、良く解釈して良いのか、悪く解釈して良いのか迷っているのだろう。 だから、己の胸の内にある想いがきちんと伝わるように、忠信は大切に言葉を選ぶ。 「普通の女の子なんだから、周りの人達が戦に巻き込まれていくのは辛かったよね。戦場だって怖かっただろう。まして、武装した兵に追われながら逃げたりするのは辛かったと思う。」 「・・・・・・」 小さく沙耶の肩が震えた。 記憶を思い出したのか、忠信の言葉の続きを恐れているのかわからなかったけれど、大丈夫、というようにその肩を抱く力を込める。 大丈夫。 (もう、離す気なんてない。) だって。 「それでも、君は俺達と・・・・俺と共にいてくれたんだって。そう思ったら、愛しくて愛しくてどうしようもなくなった。」 武人として覚悟して戦場に出た自分でさえも、継信を失った時や、京を追われたり仲間を亡くしたりした時は辛かった。 それなのに、もとからそれを望んでいなかったはずの沙耶は、いつだって歯を食いしばって忠信を支えようとしてくれた。 「沙耶ちゃん・・・・沙耶。」 唇に乗せる名すら愛しい。 その気持ちが伝わったのか、沙耶は困ったように視線を彷徨わせて。 そして、ぎゅーっと忠信の胸に額を押しつけてしまった。 「ええ!?その反応!?」 思わず不満げな声が出てしまったのは、顔を上げてくれたら口付けしようと思っていたせいなのだが、沙耶も負けじと忠信の胸でくぐもった声で言い返してくる。 「だ!だって、忠信さん、が、〜〜〜〜〜〜〜っ」 恥ずかしさと、涙が何もかも一緒くたになったような、困った声が直接胸に響いて、くすぐったい。 (ああ、本当に・・・・) 忠信も沙耶も失ったものは酷く多い。 けれど、手の中に残った唯一のものは、なんて愛おしくて大切なんだろう。 「沙耶ちゃん?」 「〜〜〜〜」 「耳、真っ赤だね。」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 指摘した真っ赤な耳に、唇を寄せれば沙耶が観念したように顔を上げた。 ―― 初めて会った時はあどけない顔で怒っていた。 今は、こんなにも愛おしい、忠信の生きる意味。 「沙耶ちゃん。」 その名を呼んで、頬をなぞれば、困った顔をしていた沙耶が、緩やかに微笑むから。 多くのものを失っても、そこにある小さくて尊い愛しさを確かめ合うように唇を重ねる二人の周りで、春の風が小さな花を揺らしていった。 〜 終 〜 |