記憶の滴、想いの欠片
自室の扉を閉めるまでが限界だった。 ドンッ! 扉が閉まる音に重なるように、乱暴に背中をぶつける。 ・・・・そうしなければ、崩れ落ちそうになる体を支える事が出来そうになかったから。 ぶつけた背中が鈍い痛みを訴える。 けれど、そんな痛みは今胸を ―― 否、この全身を苛むものと比べものにならなかった。 何度も何度も先程見た光景が瞼の裏に浮かび上がる。 大した調度品もない素っ気ない塔の上の部屋。 その真ん中で、突然開けられた扉に驚いたのか少し目を見開いた・・・・あの人は。 (・・・・泣いてた・・・・) 「あの人」 ―― 三蔵法師、玄奘。 ガンダーラにとっては災いをもたらすと予言され、同時に彼の国では世を救う切り札と言われた女性。 そして、ほんの少し前まで八戒が従者として護った人であり、今は裏切って幽閉している人だ。 (泣いてた・・・・よな。) 八戒の記憶にある限り、玄奘はたおやかな風情とは反対に、けして泣く事などない人だった。 悲しい事実や辛い事に直面しても辛そうな顔をする事はあっても、泣き崩れたりしたのを見たことがない。 それは八戒が裏切りを告げたその時でさえそうだったはずだ。 混乱と動揺を如実にその顔に描き出しながらも、玄奘は泣いたりはしなかった。 それなのに・・・・。 「なん、で・・・・」 呻き声が漏れた。 脳裏に際限なく繰り返される光景がまた繰り返される。 玄奘を攫って幽閉して以来、日に二度その部屋を訪れるのは八戒の日課になっていた。 正直に言えば心躍る訪問とは言い難かった。 部屋に行けば玄奘が悲しそうな瞳で自分を見つめて、最早繰り返すだけになった説得と質問をぶつけられることが分かっていたからだ。 その玄奘の真っ直ぐな瞳と言葉に返すものは八戒には何もなかった。 何かを返してしまえばあっという間にギリギリの所で保っている決意を崩してしまいそうな気がして怖かったのだ。 それでも玄奘の元へ行かないという選択肢など八戒にはなかった。 理由などとうに自覚済みだ。 ―― ただ玄奘に会いたかった、それだけ。 意外に頑固で強情な玄奘が食事をろくに取らないことも気にかかってしかたなかった。 だから今日も同じ事が繰り返されると分かっていて足を運んだ。 そして確かに最初はいつもと同じだった。 違ったのは、皇帝に呼び出され部屋を一度出て、そしてふと思いつきで戻った時。 『どうせ戻ったなら暖かいお茶でも・・・・』 そう言いながら扉を開けて狭い部屋の中に人の姿を探して。 そして、玄奘と目が合った途端 ―― 心臓が凍り付いた。 彼女は泣いていた。 否、あんなに静かであんなに美しく、そしてあんなに胸を抉る滴を涙と呼ぶのなら、だが。 瞳が見開かれていたのは、急に現れた八戒の姿に驚いたからなのだろう。 そのせいで一滴零れた涙が玄奘の頬に見たこともない軌跡を描いて床に落ちる。 その様を、ただ八戒は呆然と見つめている事しかできなかった。 あの時、すぐに玄奘が少し悔しそうに涙を拭ってくれて助かったと思う。 そうでなければ何事もなかったかのように「ガンダーラのミリンダ皇子」の顔を貼り付けることなどできなかったに違いない。 けれど繕えたのは表面上だけ。 その後、何を話したのかもう覚えていない。 ただ必死で前だけを見て皇子の顔を取り繕って。 ぐしゃっと八戒は片手で前髪を乱暴に掴んだ。 「八戒」であった時にはけしてしなかった四角張った髪型が崩れると、胸の痛みが酷くなった気がした。 (・・・・そういや、前に姫さんにぐしゃぐしゃにされたっけ。) あれはまだ旅も半ばの頃。 どこかの街で朝の支度にやたら時間のかかる八戒に呆れながらも玄奘は微笑んで八戒の髪を『綺麗だ』と言ってくれた。 それがかなり予想外に嬉しくて、でもくすぐったくて誤魔化した八戒の髪を玄奘がぐしゃぐしゃにして・・・・。 (ばかじゃねえ、俺。) 背を扉に押しつけたままずるずると床に座り込む。 思いだした玄奘の微笑みが、あの透明な泣き顔に変わったから。 ―― あんな風に泣くんだ、と初めて知った。 ―― あんな風に泣かせてしまったんだ、と嫌と言うほど思い知った。 「・・・さん・・・・姫さん・・・っ!」 この城へ帰ってきてから口にしていなかった呼称が呻き声になって零れる。 (わかってたはずだ。姫さんは絶対に悲しむって。泣くかも知れないぐらい予想済みだった。) でも実際にはそれがどんな意味をもつのか、自分ではわかっていなかったんだとよくわかった。 そうでなかったらこんなに、気が狂いそうに苦しくなんかなるものか。 見ただけのはずなのに、触れもしなかったのに、あの透明の涙が体中に染みこんでしまったかのように苦しくて苦しくて。 「姫さん・・・・・ごめん・・ごめんな・・・・・」 堪えきれずに呟く自分の声があまりにも絞り出すようで呆れる。 いくら謝ったって許されるものじゃないというのに。 (けど、必ず無事に故郷へ帰してやるから。) それだけがただ一つ、八戒が玄奘にしてやれることだった。 だからまるでそれに縋るかのように、「必ず」と繰り返す。 (必ず、無事に帰す。) もう二度と彼女の微笑みを見ることなど出来なくても。 胸の内に宿ったこの想いをけして口にすることができなくても。 「姫さん・・・・」 崩れた前髪が視界に入って、旅をしていた時の事を思い出させた。 馬鹿みたいにめちゃくちゃで、でもやけに楽しくて、そしていつでも玄奘の微笑みが側にあった日々を。 胸の内に封じ込めた想いが騒ぐのを沈めるように八戒は天井を仰いで瞳を閉じた。 その瞼の裏に浮かび上がったのは・・・・。 「・・・・愛してる・・・・」 ―― 数多の記憶の彼女にだけ囁くことが出来たその言葉は、玄奘のこぼした涙に似ていた。 〜 終 〜 |