一人限定姫君
「ずっと気になっていた事があるのですが。」 玄奘がそう切り出したのは、めでたく婚約のお披露目も終わったある日の事だった。 というか、玄奘にとってはずっと気になっていたのだが切り出すタイミングが掴めなかったというのが正しいかも知れない。 というわけで、いつまでも疑問を心にためておくのもなんだという事で、昼の政務を終え二人だけのお茶の時間に切り出したのだ。 その言葉に八戒はどこかきょとんとした目を玄奘に向けた。 「ん?何?まさか何か嫌なことでもあった?姫さん。」 「それです。」 「へ?マジ?」 思わず頷いた途端、八戒の顔が急に真剣みを帯びた。 それはまさにガンダーラの次期皇王ミリンダの顔で、玄奘は慌てた。 「ち、違います!頷いたのは嫌なことの方ではなくて・・・・。なんで急にそんな真剣になるんですか。」 あわあわと首をふる玄奘に八戒はあからさまにほっとしたように息をついて、それから笑った。 「そりゃ、姫さんに愛想尽かされたら困るから。姫さんに嫌な思いなんかさせないように護るのが俺の使命ですし?」 至極当然、と言わんばかりの八戒の笑顔に玄奘は赤くなってしまう。 もういい加減慣れても良いんじゃないか、と自分でも思うのだがこればっかりはどうにもできない。 (前はどうして話半分に聞いていられたのでしょう。) こっそりとため息をつきかけて、玄奘はその原因に気がついてしまった。 前は話半分に聞いていられて、今はいちいち反応してしまう理由・・・・当たり前の事だ、玄奘の心が八戒に向いているから。 つけ加えて言うなら八戒の言葉も以前の冗談交じりのものではなく、完全に玄奘一直線になっているのだからこれで赤面するなという方が酷というものなのかもしれない。 ・・・・と、半ば惚気となりかかっている思考に気がついて玄奘は仕切り直すように自分の茶器に手を付けた。 仄かに薫る花の香が少しだけ心を落ち着かせてくれた。 「・・・・では本題ですが。」 「うわ、流された。ここから甘い展開だと思って他のにぃ。」 「・・・・・・・・・・・本題ですが!」 「はーい。」 ぶちぶちと不平を言う八戒を押し切って玄奘ははあ、とため息を一つ。 その微妙に疲れた様子に八戒が苦笑して聞いた。 「大丈夫?姫さん。」 「だから、それです。」 「へ?」 「先日リトス王女にも聞かれたのですが、八戒は何故、未だに私を「姫さん」と呼ぶのです?」 そう、玄奘がずっと気になっていた事、それは八戒が玄奘を呼ぶ時の呼称だ。 八戒は玄奘の事を「姫さん」と呼ぶ。 それは天竺への旅をしていた時からのことだが、婚約した今でもそれはかわることはない。 玄奘自身は慣れてしまっているので気がつかなかったが、先日、八戒の末の妹であるリトスに聞かれて気がついたのだ。 『なんで兄様は義姉様と二人の時だけ、義姉様を「姫さん」って呼ぶの?』と。 「愛称で呼び慣れていてそうなってしまうというのなら分かりますが。」 実際、玄奘にとって「八戒」がそれだ。 本名はミリンダなのだと知らされた今でも、玄奘にとって「八戒」は「八戒」でありミリンダと呼ぶとどうにも違和感がぬぐえない。 で、結果どこでも彼の事を「八戒」と呼んでしまう。 「でも八戒は二人の時以外は私の事を玄奘と呼びますよね?」 だからリトスもわざわざ「二人の時は」と聞いてきたのだ。 言われてみれば、と気がついて素直に不思議に思ったから聞いてみたわけだが。 その途端の八戒の表情の変化たるや、一見の価値があった。 というのも、最初は何故か赤くなり、かと思ったら苦い物でも口に入れたように顔をしかめ、でもって最終的にはバツが悪そうな表情に落ち着いたのだ。 「あの、八戒?」 その変化があまりにもめまぐるしかったので、一瞬心配になって声をかけた玄奘に八戒は困ったように頬を掻いて言った。 「いや、うん。それいつかは言われるかな、と思ってたよ。」 「え?」 「けど、そっか。リトスにも言われたか〜。」 困ったようにそう言う八戒に対して、疑問符一杯になってしまったのは玄奘だ。 (てっきり無意識でやっているのかと思っていたのに違うんでしょうか。) 首をかしげる玄奘に視線を戻して八戒は苦笑して言った。 「実はさ、姫さんの事、玄奘って呼ぼうと思った事はあるんだ。」 「そうなのですか?」 「ああ。やっぱり夫婦になるんだし、もう名前でもいいよなって。・・・・でも」 そこで言葉を切って八戒の浮かべた表情に、玄奘の心臓がどきっと跳ねた。 見覚えのある顔だった・・・・あまり嬉しくない時だけれど。 それは、ナタクの儀式に連れて行かれる時に八戒が見せた、あのどうしようもなくやるせなさそうな笑みだったから。 思わず息を詰める玄奘に気づいているのかいないのか、八戒はちょっと苦そうに言葉を紡ぐ。 「姫さんの事を玄奘って呼ぶとあの時の事、思い出すんだ。必死になって心を殺してたあの時の事さ。」 「八戒・・・・」 「ほんとに馬鹿みてえな話なんだけど、あの時俺は姫さんを「玄奘」って呼ぶことでなんとか自制してた。この人は俺の愛した「姫さん」じゃなくて、「玄奘」っていう三蔵法師なんだって思い込んで。 もちろん、心の底では分かってたさ。だけど一度でも「姫さん」って呼んじまったら立場とか身分とか全部放り出して姫さんを抱きしめちまいそうで。」 ま、実際に姫さんって呼んじまった後は何もかも吹っ飛んじまったわけだけど、とその後に儀式の間であった事を思いだしたのか八戒は肩をすくめる。 その言葉に驚いたのは玄奘だ。 「そう、だったのですか?あの時の八戒はとても冷静に見えたのですけれど。」 「そう見えるようにやってたからなあ。」 「それでなのですか?その時の事を思い出すから私を姫さん、と。」 そうだとするなら、なんて想われていたのだろう。 たかが呼称ひとつ。 けれど、あの時は玄奘にとっても自分の名前が八戒の口から出る度に切り裂かれるように苦しかった。 もう彼にとっては「姫さん」ではないのだと、そう突きつけられているようで。 でもまさか八戒の方もそう思っていたなんて思ってもみなかった。 とくん、とくん、とあの時の苦さが甘い鼓動に変わっていくのを感じる玄奘の前で八戒は少し情けなさそうに笑う。 「まあ、理由の半分はそれ、かな。」 「半分?」 「そ、半分。」 首をかしげた玄奘に八戒はいつもの明るい笑顔に戻ってちょいちょいっと玄奘を手招きする。 その仕草につられるように玄奘は座っていた向いの椅子から腰を上げて八戒に近づいて・・・・。 「きゃっ!」 途端にぐいっと手を引かれて、着地したのは八戒の膝の上。 驚いて目をしばたかせていると、至近距離に猫のように細められた琥珀色の瞳があって。 その瞳の優しさに目を奪われている玄奘に八戒は甘く甘く囁いた。 「玄奘は俺にとってはいつだって大事なお姫様だから。それがもう半分の理由。」 「・・・・それ、リトス王女には言わないで下さいね。」 甘い言葉と甘い視線の強襲を受けて数秒絶句した後玄奘が言った台詞に、八戒はわざとらしく不満そうな顔をして。 「えー?これならリトスも納得すると思うけど。」 「納得するどころか呆れられます!!」 「ははっ。いーじゃん、俺が姫さんにメロメロっていうのは伝わるぜ。」 「・・・・お願いですから、リトス王女にこれ以上面白い目で見られるような事をしないで下さい。」 ただでさえ好奇心旺盛な王女に質問攻めにあっている玄奘が疲れたように呟くと八戒はけらけらと笑った。 「じゃあ、口、塞いどいてみる?」 「え?」 顔を上げた玄奘の目の前にはいつか綺麗と言った金色の髪が触れるほど近くに八戒の顔が合って。 意味を理解した玄奘が赤くなる様を見ながら八戒はウインクを一つ。 「で、姫さん。」 「はい?」 「こっから先は、甘い展開ってやつでいいよな?」 「!」 くるりと見開かれた玄奘の黒い瞳に優しい琥珀の瞳が映る。 そして。 「姫さん」 そっと大切そうに囁かれた呼称に。 ―― 負けた、と玄奘は瞳を閉じた・・・・ 〜 終 〜 |